押しボタン式信号機。
油臭くて黒い煙が、龍の目の前を漂っている。
息を吸い込んだら鼻の穴のと喉の粘膜がちくりと痛んだ。龍はくしゃみと咳をほとんど同時にした。
くしゃみも咳も、どっちも「息を強制的に吐き出すための身体の働き」だ。
龍の身体は、車の行き交う大きな道路のあたりの排気ガスがいっぱい混じった空気は、「身体の中に長い時間入れておいてはいけない物」だと判断したのだ。
だから咳が止まらない。咳の合間に息を吸うとくしゃみが出る。くしゃみが止まるとまた咳が出る。
龍は肺の中の空気を吐き出し続けた。まともに息を吸い込むことができない。
とても苦しいのだけれど、これは龍の体が正常に機能していという現れだから、どうしようもない。
龍は着込んだばかりの生乾きの半袖シャツの裾をズボンの中から引き抜いて持ち上げた。
龍がまだ低学年ぐらいの時だった。学校でやった避難訓練の時に、本物の消防士の人が来て、
「煙を吸わないようにするにはハンカチを、できれば少ししめらせて、鼻と口に当てて、呼吸をると良い」
と教えてくれた。
その「火事の煙を吸わない方法」が「排気ガス」にも通用するかなんてことは龍には解らなかったけれど、
『なんでもいいから楽に息が吸いたい』
と思った龍は、口の周りを覆う物を探した。
家を出たときに首に掛けてきていたタオルは行方不明になっていた。
学校へ行くときにはちゃんとズボンのポケットにハンカチを入れるのだけれど、今日は、
「タオルがあるからいい」
と思ったので何も入れてこなかった。
残っているのはシャツの裾しかなかった。
裾を顔までまくり上げたら、お臍が丸出しになるのだけれど、くしゃみと咳が止まらなくなるよりずっとましだ。
龍は生乾きのシャツを目繰り上げて、裾で鼻と口を覆った。排ガスのニオイは少し薄まって、くしゃみと咳は前よりも出なくなった。
でも、シャツを湿らせているのはキレイな水道水じゃなくて、緑色の藻が漂う溜池の水だ。シャツ越しに吸い込んだ空気は、排ガス臭が薄まった分だけ、メダカの水槽みたいな青臭いニオイが加わっていた。結局あまり気分のよいものじゃなかった。
『でも、しかたがない』
とにかく、呼吸はなんとかできるようになったのだ。
龍にはあたりをきょろきょろと見回す余裕ができた。
見回したのだけれど、龍にはここがどこなのかさっぱり判らない。
ここがどこだか判らないということは、家に帰る道順も判らないということだ。
龍はチョット考えて、
『道路沿いに進めば、なんとかなるんじゃないか』
と思いついた。
右へ行くのが良いのか、左にした方が良いのかも判らなかったのだけれど、ともかく歩かないといけない気が龍にはする。
左の方にちょっと進んだ先に、柱が一本立っていた。交差点ではないけど信号が付いている。押しボタン式の歩行者用信号だ。
道路の方を向いている自動車用の信号灯の上に、見覚えのある市章と、読めない地名の書かれた、青い看板が掲げられていた。
龍は一瞬ホッとして、すぐにゾッとした。
ホッとしたのは、少なくともここは自分の生まれ育った市の範囲だと判ったから。
ゾッとしたのは、全然知らない地名だったから。
龍の生まれた市はもとは城下町で、古くからそこそこ大きな町だった。
それで、城下町だった部分を核にして、周りの小さな町村をくっつけて行くような「合併」を、何度もくり返して、今の形になった。
くっついた所にまた他の町村がくっつく感じで広がったものだから、同じ「市内」でも、龍の家がある古くからの「旧市街」よりも、新しく仲間になった「郊外」の土地の方が広い。
龍は「郊外の方」のことは全然知らない。
遠足とか、社会科見学とかで、旧市街の外へ出て、山に登ったり大きな工場を見に行ったりした事はある。けれど、そういうときは引率の先生の後ろを列を作って付いていったり、バスで運ばれたりしたわけで、自分で道順を覚えたりはしなかった。
だから龍は、小学校の通学区より外の道路がどうなっているのか、全然知らない。
いや、龍にもチョットだけ知っていることはある。
隣町との境目にある山の奥の方は、空気がとんでもなくキレイだから、昔は病気の人が町から離れて入院する特別な病院があったと聞いたことがあるからだ。
そのあたりまで行けば今でもトカゲやヘビだけでなく、タヌキやイノシシやカモシカや、時々はクマだって出るとも聞かされた。