金魚とうさぎ。
龍の心臓がバクバクと大きな音を立てだした。
龍が生まれた年の日付の下には、「享年一」と書かれている。
一歳で死んでしまったと言う意味だと、龍は思った。
これが「数え年」というもので、一歳と描かれていても満年齢にすると一歳とは限らなくて、もしかしたら0歳かもしれないのだ、と言うことを龍が知るのは、もっとずっと大きくなってからのことだ。
龍の背中がゾッと粟立った。
自分の生まれた年に死んでしまった人がいる。それは赤ちゃんで、死なずに生きていたなら、自分よりチョットだけ年上の子供だ――。
龍は怖かった。悲しかった。そして少し不思議に感じた。
運がよいのか悪いのか、今まで龍は人が死ぬところに直接立ち会ったことがなかった。
祖父母の世代の親戚は、不幸なことに若死にの人が多くて、だいたいが龍が生まれる頃にはすでにこの世にいなかった。
だから生きている時に会ったことはない。病気が原因で無くなった人も、大けがが原因だった人もいたそうだけど、そういう人のところへお見舞いに行ったこともない。当然、お葬式にだって出ていない。
それ以外の、大体龍の両親の世代の親戚の人たちは、みんなとっても元気だ。
数年前に母方の伯父さんが盲腸でちょっとのあいだ入院した以外は、父方の叔父さんや叔母さんも、それから盲腸の伯父さん以外の母方の親戚も、それからそれからその子供達、つまり龍の従兄弟達も、大きな病気や怪我なんかをしていない。
近所のお年寄りが亡くなって、龍がお葬式に行ったことは一,二度ある。
でも、そのお年寄り達は亡くなるずっと前から長く入院していただから、龍にとってその人たちは、ずっといないのが当たり前の人たちだ。顔もあまり知らなかった。
だから、その人達が死んでしまって永遠にいなくなっても、悲しいけれども、前と変わらない感じがした。
あるお葬式の後しばらくして、ずっと空き家だった「亡くなったお年寄りの家」が壊された。
大きな空地には、すぐに新しい綺麗な家が二件も建った。若い夫婦の家族がそれぞれ引っ越してきて、子供達は龍の下級生になった。
今の龍には、前にそこに立っていた「亡くなったお年寄りの家」の形が思い出せない。
新聞やテレビで有名人が亡くなったとかいうニュースが流れて、両親がチョット悲しそうにしたりすることがある。
でも龍は会ったことのないその人たちが、生きているとか死んでいるとか言われても、よく判らない。
龍が知っている「死」は、縁日で買った金魚と、学校で飼っていたうさぎのそれだけだった。
小学校に上がったばかりの夏、金魚すくいで一匹も捕まえられなかった龍に、香具師のおじさんが「参加賞」としてくれたオレンジ色の小さな金魚は、秋のある日、学校から帰って来て水槽を覗いたときには、お腹を上に向けて浮かんでいた。
三年生の新学期、Y先生が学校へ連れてきたてのひらに乗るくらい小さいふわふわのうさぎは、その年の冬の朝、小さな小屋の隅っこで硬く冷たくなっていた。
龍にとって「死」とは、あの夏の金魚みたいに動かなくなることで、あの冬のうさぎみたいに暖かくなくなることだった。
目前のお墓には、龍の生まれた年に一歳で死んでしまった子が眠っている。
動かなくなって、冷たくなって、石の下にいる。
龍は恐る恐る首を伸ばした。小さなお墓の前側に彫られているだろうその子の名前をのぞき込んだ。
石の表面には、ただ一文字「寅」と刻まれていた。