ご飯を食べる。
「きゃあ!」
悲鳴は龍の背中の方向から聞こえた。
龍は驚いた。驚きすぎて身体が、びくり、とベッドの上で弾んだ。
背中を丸め、肩をすくめ、カチカチにか仇を固めて、ぐるりと首だけ回す。ただ、目玉の動きは首の回転と連動していない。もちろん、目玉の端から図書袋を外さないために。
動きの鈍い目玉の中に、ドアの所に立つ人影が映った。
「かあさん……」
小さな声が出た。チョット情けない声だと、龍自身も思った。
母親はまぶたを細かく瞬かせて、龍を見ている。
「ずいぶんおとなしいと思って見に来たら……もしかして寝ていた? それで、怖い夢でも見たのかしら?」
大人らしい理論的な推察だ。
龍は返事の言葉を言わない代わりに、首を横に振った。
自分だけの宝物……だったものの正体がわかって、急に恐ろしくなったから、布団をかぶって震えていた、なんてことは絶対に言えない。
もし言ったら、きっと笑われる。そして多分、
「まるで赤ちゃんみたい」
だなんて言われて、頭をなでられたり、抱きしめられたりするに決まってる。そんな恥ずかしいことをされたくない。
ところが、親という「生き物」の中には、子供がいくら巧妙に隠し事をしても、その詳細はわからずとも「秘密がある」ことに気付くぐらいには察しの良い個体がいる。
具体的に何であるのかまではわからないながらも、それが悪いことか、危険なことか、叱らなければならないことか、逆に秘密のままにしておいた方が良いことか……ぐらいのことまでは推察できるほどに勘の良い個体もいる。
龍の母親は、何も言わずに軽く部屋の中を見回して、転げたランドセルからこぼれ出ている文房具や、泥だらけの体操着や、一年以上洗っていない図書袋や、脱ぎ散らかした靴下やらを拾い集めた。
文房具はを机の上へ並べた。体操着や図書袋や靴下といった洗濯物は、腕の中に抱え込んだ。
そうしてから、母親は小学生の息子に一言だけ、
「夕ご飯だよ」
と告げて、部屋から出て行った。
龍の背中をカチカチに強張らせていた恐怖感が、ふっと消えた。
体をグルグルと巻き締め付けていた緊張の糸が、一斉に切れた。
「うん」
龍は小さく返事をしながらベッドから降り、母親の背中を追いかけて居間へ向かった。
里芋の煮っ転がしの甘い匂いが、廊下いっぱいに広がっている。
突き当たりのガラス引き戸の向こう側で、父親が作業机に向かって座っていた。
「父さんは呼ばないの?」
龍はからからに乾いた喉を、小さく震わせた。
「帳簿付けがまだ終わらないんですって。算盤が合わないって、さっきから何度も書き直しているわ。お汁が冷めちゃうって、何度も言っているんだけどね」
母親は細い眉毛を少し下げた。
龍の家は雑貨屋を営んでいる。
正式には「煙草店」で、しかも他の煙草屋さんにはおいていないような珍しい種類の煙草なんかも扱う特別な煙草店なのだけれども、それ以外にも、えんぴつにノートに封筒に便せん、糊やセロファンテープ、領収書といった文房具類、乾電池や懐炉用のベンジン、子供向けの学年誌や大人向けの週刊誌、ちり紙やハンカチ、軍手、駄菓子とか瓶ジュースなんかも売っている。
夏の時期には上面がガラスの扉になっている冷凍庫を店先に出してアイスクリームを売ったり、安い手持ち花火を並べたりする。
あんまり広くない店内に、色々なモノがごちゃごちゃと、だけど整然と並んでいる。
店舗兼住居は住宅街の真ん中にあった。
店を出て五十歩も歩けば龍が通う小学校の裏門に着く。逆の方向に百歩くらい行けば中学の正門がある。二分も歩けば市役所やオフィス街にたどり着くという好立地だ。
親子三人食べてゆくには困らない。
難点は、商う物が細かいと言うことだ。たとえれば、文房具や駄菓子は一つ五円・十円から、という値段だし、電池や煙草、雑誌の類いは利益が薄い。本業の煙草も安い銘柄が一箱40円、高い方でも100円だから、大儲けはできない。
利が薄いなら数を売らなければならない。だからどうしても「細かい計算」が重要になってくる。
そんなわけだから、父親は毎日毎晩帳簿とにらめっこをしなければならない。
父親が箸を付けるまで自分も食事を始めないというのが、古いタイプの女性だった母親の信条だった。
だから龍の家では夕食の食卓に父も母もいないことが多かった。それに息子は慣れていたし、むしろ彼にとってはそれが当たり前だった。
龍は一人で夕食を採り、風呂に入り、布団に潜り込んだ。
お腹がいっぱいになって、身体がさっぱりとした龍は、その前のことを――怖いと震えながら、そいつが出てくることと望んでいた非日常のことを――忘れきった。