僕が生まれた年。
龍は、いくつも墓石の名前を見ながら行き進むうちに、何度か胃袋の下あたりがギュっと縮むことがあった。
刻まれた文字の中に、結構たくさんの「寅」というのが混じっているからだ。
たとえば、寅太郎さんだったり、寅枝さんだったり、寅之助くんだったり、寅子ちゃんであったり……。
龍にとってその文字は、
「見なかったことにしたい。忘れてしまいたい」
そう思う位に恐ろしい呪文か、爆弾のスイッチのようなものだった。
それで、龍はその文字を見つけると、目をぎゅっと閉じ、頭をぶるぶると振った。
でもぎゅっと目を閉じると、目蓋の裏側には「トラ」の顔が浮かんでくる。
そしてぶるぶる頭を振るたびに、その顔は「寅姫」になる。
どっちもそっくり同じ顔なをしているけれど、龍には全く別の人だと思た。思えたけど、それでも同じ人のような気もしてくるから、とてもややこしい。
あんまりややこしくて、もしかしたらまた卒倒してしまうのではないかと心配になってきたので、龍は墓石の前の方に書いてある文字を読まない事に決めた。
墓石は整然と並んでいるから、人が通れる道はまっすぐになっている。
ぎゅっと目をつむったまま駆けた。
裸足の下で玉砂利がザクザク鳴る。
そのザクザクの音が鳴らなくなったところで、龍はぱっちりと目を見開いた。
ちょうど墓石の集団の一番端っこまで来ていた。
今度は目を開けて、墓石の固まりの裏側に回り込んで、反対側の端っこまで早足で進んだ。
そうしてから墓石の裏側に回り込んで、古い順に……でも今度は最初とは反対向きに……刻まれた文字を読んでゆく。
よくわからない年号が一体どれくらい昔のことなのか、龍には解らない。
でも一歩横に動くと、墓石がほんの少しだけ新しくなった感じがするから、時代が少しずつ今に近づいて来ているのだろう。
龍は一歩ずつ蟹みたいに進んだ。
彫り込まれた、その墓石の下に眠る人の「死んだ日付」が、だんだん今日の日付に近づいてくる。
最後から四番目の墓石には、大正という年号が入っていた。これは若くして亡くなった龍の祖父が生まれた時代だ。
行年七十と書いてあるから、この人は七十歳で亡くなったと言うことだろう。
次の墓石は昭和の最初の頃の年数が書いてある。年号の下には行年二十と書いてあった。
「若い人だ」
思わず墓石の前側をのぞき込んだ。
そのお墓に刻みつけられていたのは男の人の名前だった。そこに「寅」の文字が入っていなかったのは、龍にとっては運の良いことだった。
龍はそのままその次の墓石の前に彫られている名前を見た。女の人らしい名前があった。
首を引っ込めて、裏側を見る。前のとほんの数日しか違わない日付と、行年三十八という数字が彫り込まれていた。
その年齢は、龍の母親と大差がない。龍はちょっと寂しい気分になった。
一番最後の墓石は、他の物より一回り小さくて、ぐっと新しい感じがした。
刻んである日付も今に近い。近すぎて、龍は気持ちが悪くなった。
だってそれは、
「僕の生まれた年――」
だったのだから。