誰もいない。
「『トラ』は、ドコに行ったんだろう?」
池に落っこちて、それを「トラ」が助けてくれた。
『その時の「トラ」の姿が大人の女の人みたいに見えたり、銀色の「龍」に乗って空まで飛んりしたのは、多分、このごろよく見る夢か幻だろうけれど……』
龍を助けてくれたのが本当に「トラ」だったら、濡れた服や靴を脱がしてくれたのも、タオルを掛けてくれたのも、「トラ」だったということになる。
もしあの大人みたいな「トラ」が伸ばしてくれて、自分の手を掴んでくれた手の感触まで夢だったのだとしても、そしてそれが「トラ」とは全然ちがう人だったとしても、それにしたって誰かが龍のことを助けてくれたのは間違いない。
龍は辺りをキョロキョロ見回した。
木の陰にも、鳥居の裏側にも、誰もいないように思えた。
立ち上がって、バスタオルを身体に巻き付ける。
祠の方へチョット歩いて、赤ちゃんだって隠れられそうもない、その小さな後ろ側ものぞき込んだ。
どこにも人はいなかった。
もちろん、人じゃないものもいなかった。
誰もいないのが解って、龍は不安になった。
じっとしているのが怖くなってきた。
何かをしていないと寂しさに押しつぶされてしまいそうで仕方がない。
龍は、祠の周りにある石塔や墓石に目を向けた。
とても古そうな物から、それほど古くない物まで、いくつも並んでいるその石たちは、全部丁寧に磨かれていてコケの一株も生えていない。
周囲も雑草がキレイに刈られているし、全体的に掃除が行き届いている感じがする。
それと、その石達の一つ一つの前には、まだそれほどしなびていない菊の花束が捧げられている。
それはつまり、この場所には――毎日ではないにしても、しょっちゅう人がやって来ているということだ。
墓石は寒い日の雀たちのように縮こまって、ぎっしり密集して立ち並んでいる。
うんと古い墓石は風化しつつあった。四角かっただろう石も、角っこが取れてなんとなく丸くなっている。
表面に彫られているはずの文字も、薄くなって、ぜんぜん読めなくなっている。
中には文字が読めなくなっていない墓石もあった。
でも、そこに刻んである文字は、龍がまだ習っていないような画数が多いものばかりで、結局それも読めなかった。
ただ、漢数字は読める。
明治とか大正とか昭和とかいう、見たり聞いたり書いたりしたことのある年号だって読める。
だから、その年号が彫りつけられている墓石……鳥居から遠いところに固まっている分……は、だいたい百年くらい前からこっちに作られた新しい物だろうと、なんとなく判った。
そうすると、多分、鳥居に近い所に固まっているヤツは、百年よりずっと昔の物じゃぁないか、と、龍はぼんやりと想像してみた。それが何年くらい昔なのかは、ちっとも想像できないのだけれども。
龍は、彫り跡が比較的新しい感じのする、彫られているのが「なんとなく知っている」文字で、何とか読めそうないくつかの墓石を、前も後ろもじっくりと眺めた。
表には人の名前が書いてある。苗字は全部同じ「Y」だ。
一つの家か、親戚か、そうじゃなければ集落一つが丸々同じ苗字になっているのか、とにもかくにも、このお墓の下にいる人たちは全員が家族や親戚や、近所に住んでいる友達みたいな感じの人たちだったのだろう。
そう思うと、ついさっきまで怖ちょっと怖いと思っていたお墓が、遠くに住んでいるおじさんがいとこ達を連れて来る、お正月の掘り炬燵の周りのみたいに思えて、龍はなんだか楽しそうにさえ見えてきた。