「入ってはいけません」
教室で飼っているメダカの水槽に似た、生臭い淡水の匂いがする風が、龍の顔をなでた。おでこがびっしょりするくらいかいてた汗がすぅっと乾いてゆく。
龍はしょっぱい汗がしみてひりひりする目をなんとか開いた。
目の前に平らな空間があった。地面がキラキラと光っているように見えた。
でもそれは地面じゃなかった。
まん丸い大きな池だ。
雨が降らなくてあちこちが干上がっているというのに、その池は地面の高さまでなみなみと水を湛えている。
龍は立ち上がって、辺りを見回した。
左を向くと、そこはなだらかな坂になっていた。
坂を階段みたいに削った千枚田と段々畑と果樹園が、ゆっくりと山肌を上ってゆく。
階段状の畑は山の途中で終わっていて、山の中腹より上は針葉樹の林で、山頂まで常磐色に塗りつぶされていた。
それよりももっと上には、大きな青空が白い入道雲を抱えて広がっている。
右を向くと、やっぱりなだらかな坂だった。
千枚田と段々畑と果樹園が、ゆっくりと山肌を降ってゆく。その先で、盆地の底を流れる太い川が、キラキラと輝いている。
龍はちょっとだけ池に近づいた。
歩くと、細長い雑草の葉っぱが半ズボンから突き出た向こう臑に当たってチクチクしたけれど、龍は気にしなかった。
池の端の一カ所にコンクリートが打ってあった。あの鉄の柵の向こう側に見えた明るい場所だった。龍がさかのぼって歩いてきた川と、この池とを繋ぐ場所らしい。
コンクリートの場所に大きなハンドルの付いた――龍には何なのか想像もできない――機械のような装置のようなもの据え付けられている。
その機械みたいな装置みたいなよく判らないものには、張り紙がしてあった。
「開放厳禁」
「取水口注意」
「危険」
機械みたいな装置みたいな場所の周囲にはいくつも看板が立てられている。
「危ない」
「入ってはいけません」
「魚を捕らないで」
「池で遊ぶな」
張り紙や看板には、だいたいそんなことが書いてあったのだけれど、この時の龍の目にはちっとも入ってこなかった。
龍の視線は、池の対岸に釘付けになっていた。
輝く水面の向こうに、背の高い木々。
濃い緑色の繁りの下に、緑がかった白の石でできている鳥居。
その奥の暗がりに、ままごとの家みたいに小さな建物。
それがその時の龍の目の中に入る総ての物だった。
龍の足は雑草をかき分けて進んだ。
地面はしっとりとしめっていて、柔らかい。
水草の生臭い風が吹き出す方向へ、一直線に進む。
青葉繁る林と、その下の鳥居と、その下の小さな建物に向かって、まっすぐに――。
何歩ぐらい歩いただろう。龍は、突然足の裏に柔らかい感触がない事に気付いた。
その時にはもう、龍の体は少し濁った池の水の中に落ち込んでいた。