鉄の梯子。
龍の左足が川の中に落ちた。
バシャリと音がして、澄んだ水が跳ね上がる。しぶきの一滴が龍の顔のあたりまで跳ね飛んだ。
足首はあたりまでが水に浸かっていた。靴が濡れて、水がしみこんでくる。足の先がじわじわと冷たくなってゆく。
龍は慌てて足を持ち上げた。なま暖かい何かが、踝の上にぺたり張り付いている。
白っぽいものだった。
龍には見覚えがあった。
人の形に切り抜かれた紙。
難しい文字がぎっしり書かれている真ん中に、自分の名がある――。
「ひゃっ!」
龍の口から変な声が出た。くっついたお札は、足を振り回しても取れない。
仕方なく、恐る恐る、大急ぎで、つかみ取った。
すると今度は、それがてのひらと指にまとわりついた。
まるで、小さな白い人間が龍の手にしがみついているみたいになった。
「うわぁー!」
叫びながら、龍はそれを投げた。できるだけ遠くへ投げ捨てたつもりだったけれど、水に濡れた紙は以外と飛ばない。
狭い川の反対岸へ、ぺちょりと落ちた。
龍はしばらくそのお札を見ていた。それが動かないことを確認したかった。
当然、くちゃくちゃに濡れた紙切れは動かない。ぬるい風が吹いても、それはそこにあり続けた。
不意に、龍は気付いた。
「一昨日も昨日も今日も、雨なんかこれっぽっちも降ってないのに、なんであれが川の中にあったんだろう?」
今まで、龍はお札が「雨の降った翌々日に川岸に打ち上げられている物」として拾っていた。
それ以外のタイミングと場所で目にすることはなかった。だから、それ以外の時と場所にあるはずがないというのが、龍の頭の中での常識だった。
確かにそれは川上から流れてくるのだろうとはぼんやりと想像してはいた。
そこから前のことは考えたことがなかったけれど、川上のどこかにそれが流れ始める場所があるということになる。
「もしかして、この向こうが出発点?」
ゆっくりと、恐る恐る、龍は「川上」に目を向けた。
鉄の柵で塞がれた、暗い穴。
龍は唾を飲み込もうとした。でも、口の中がカラカラに乾いていて、へんてこな空気が喉の奥を通っただけで終わった。
気持ちが落ち着かない。胸のあたりまでがひりひりと痛くなった気がする。心臓がドキドキする。
そのドキドキが、体中に血液を運んでいる。
頭のてっぺんから足の先まで、大動脈から毛細血管まで、ドキドキと鳴り、ビクビクと騒ぐ。
カラカラの喉から熱い息を吐き出しながら、龍はもう一度鉄の柵に近づいた。近づいたけれど、今度は鉄の柵にしがみつくようなことはしなかった。
鉄の柵には触らないで、柵の周りを注意深く見ることにした。
龍はすぐに、鉄の柵の脇の壁に蔓草が巻き付いた鉄のはしごあるのを見付けた。壁にぴったり取り付けられて、まっすぐ上に続いている。
少し古い感じのはしごだったけれど、白い塗料がきれいに塗られていて、さびても汚れてもいなかった。
壁の高さは龍の目には自分の信条の三倍くらい高いように見えた。そこに据え付けられているはしごも、やっぱり同じくらいの高さがあるんじゃないかと思った。
龍の足は自然に壁に向かい、手は当たり前のようにはしごを掴んだ。
鉄のはしごの、蔓草の葉っぱの影に隠れていたところはひんやりと冷たかった。日の当たっているところはほんのりと熱い。
腕で体を引っ張り上げ、足で体を持ち上げて、彼ははしごをよじ登った。
下から見上げていたときは、壁と同じぐらいの高さに思えたはしごだったけれど、壁の天辺から三十センチメートルぐらいのところで途切れていた。
龍は途切れた先の、上の方に手を伸ばした。指先にが触った。まさぐると土があるのが解った。
龍ははしご段の一番上まで昇り切った。地面に手を突いて、しっかりと掴んで、体を持ち上げる。
熱い汗が額から流れ落ちて、目玉にしみこんだ。龍はあわてて目を閉じた。