解らないがいっぱい。
意味はわからなかったけれど、養護教諭は「トラ」の容態が良くないと言うことを救急隊員に告げたのだろうことを、龍は理解した。
隊員達は横たわる「トラ」の体を運んできた滑車付きのパイプ製の細長いベッド(それがストレッチャーという名前だと龍が知ったのは、ずっと未来の話だ)にそっと乗せた。
細長いベッドに寝かされた「トラ」は、少しも動かない。
救急隊員はストレッチャーを素早く、そおっと、救急車の中に運び込んだ。
あのお年寄りは廊下にペタンと座っていた。目玉がうろうろしている。さっきあれほど強く抱きしめていた「トラ」が救急車に乗せられたというのに、座ったきり立ち上がろうともしない。
養護教諭がお年寄りの肩を抱きかかえた。なにか一言二言、小さな声をかけて、養護教諭は優しくお年寄りを立ち上がらせた。そして二人して救急車に乗り込んだ。
後ろのドアがばたりと音を立てて閉まった。
赤いランプがぐるぐる回って、サイレンが鳴る。
救急車はゆっくりと校門から出て行った。
アイスクリームのコーンみたいな形に渦を巻いた土埃が、校庭の中をグルグルと巡っていた。
新校舎の二階と三階の全部の窓から、二年生と三年生の児童達の頭が突き出している。
体育館の戸口にも、第二校舎や旧校舎への連絡通路の出入り口にも、昇降口にも、一年生と四年生と五年生と六年生が、鈴なり集まっている。
カッコイイ救急車を間近で見られて喜んでいる子供もいるし、何が起きたのか解らなくて不安そうにしている子供もいる。
校門や校庭のフェンスの向こう側から、近所の大人達が様子をうかがっている。
皆、何かを喋っている。全員がそれぞれ銘々好き勝手に喋っているから、言葉はごちゃごちゃに混じっていて、一人一人が何を言っているのかはまるでわからない。
龍はみんなの言葉がごちゃ混ぜに聞こえていて良かったと思っていた。
もし一つ一つの言葉がちゃんと聞き取れていたら……誰かが『あの子は死んでいる』と言ったのが――それがその人の勝手な想像で、本当のことでなくても――聞こえたとしたら、自分はショックでまた昏倒してしまうに違いない。
救急車が二つ向こうの四つ辻を左に折れてゆくのを見送ったとき、龍は自分のすぐそばに校長先生が立っていることに気付いた。
他の先生方は職員室に戻っているか、自分が受け持つクラスの騒がしさを沈める為に校舎中に散っているかどちらかで、すでにその辺りにはいなかった。
「よく見付けてくれたね」
校長先生は龍の顔を見て優しく笑った。
安心したような笑顔は、龍を褒めるために浮かべたと言うよりは、「トラ」が見つかったことに対する安堵から、自然に浮かんだものだったろう。
龍が返事をせずに黙り込んでいるので、校長先生は彼の顔をのぞき込んだ。
龍は下を向いた。校長先生になんと言って答えればいいのかさっぱり判らない。
解らないことが多く過ぎる。
あんなところに「トラ」がいたのはなんでだろう。
外側から鍵がかかっていたのはなんでだろう。
自分があそこに誰か――「トラ」――いるように思ったのはなんでだろう。
だいたい、なんでこの学校に「トラ」がいたんだろう。
龍は心の中でつぶやいた。
『「トラ」に逢うのは川原だけで、学校で見かけたことなんて一度だってないのに』
それだから龍は『「トラ」は自分とは別の学校の児童だ』と思っていたのだ。
『あれ? そういえば、「トラ」本人からあいつの学校のことを聞いたことがないぞ。それに名前……名字のことも聞いたことがなかった』
龍の頭の中では言葉と謎がグルグルと回っていたけれど、実際は黙り込んでいる。
校長先生はちょっと心配になったらしい。龍の肩に手をかけて、優しい声で、
「ああ君は、ちょっと前に図書室で倒れて、あの子と同じように救急車で運ばれたのだったね。怖かったことを思い出してしまったかな?」
龍の背筋が、ギュンと縮んだ。
頭の奥で「トラ」の声がする。
『龍と同じだよ』
頭の奥の「トラ」は、嬉しそうに笑っている。
龍は急に恐ろしくなった。「トラ」の顔を思い出すのも、声を聞くのも、全部が怖くなった。
下を向いて、拳を握る。上履きの中で、足の指もグーにする。
龍は「トラ」の事を考えないようにした。
耳の中で、うわぁんという音が鳴っている。
遠いところから、ブラスバンドが練習している音が聞こえる。ずいぶんと上手だから、道路一つ向こうにある中学校の生徒が演奏しているのだろう。
もっと向こうから、野球の試合の音が聞こえる。甲子園に出場することが決まったという近くの高校の生徒が、市営球場を借りて練習試合をしているのかもしれない。
もっともっと向こうから、大きな機械の動く音が聞こえる。線路の向こうにある煙草工場が生産量を増やしていると父親が言っていたから、多分たくさんの大人が一生懸命働いているに違いない。
『もっと遠くのことを考えるんだ。ずっと遠くのこと。この学校の事じゃないこと』
奥歯をかみしめて、唇を力一杯結ぶ。まぶたもピクピクするくらい力一杯閉じた。
「Y君のことは、やっぱりY先生から聞いて知っていたのかな?」
校長先生の質問は、できるだけ遠くの音を聞こうとしている龍の耳には、よく聞こえなかった。
校長先生は、返事をしないどころか、そこから一歩だって動きそうもない龍がかなり心配になったらしい。
動かない龍の肩から、校長先生は手を放した。それからその手を彼の背中へ回した。
「一緒に麦茶を飲まないかい? 砂糖を溶かした甘いのが、校長室の冷蔵庫に入っているんだよ」
そう言うと校長先生はちょっと強引に龍の背中を押して、歩き出した。