学校の階段。
よくあるタイプの『学校の怪談』だ。多分、どこの小学校にも似たり依ったりの話が伝わっている。
こういった「怪談」の大概は「根も葉もない無責任な噂」や「怖がらせるための作り話」に過ぎないのだけれど、子供達の中には――時々大人の中にも――あっさりと話を信じてしまう者もいる。
他人に「お話を正しく伝える」というのは、とても難しい。
たとえ大人達が、
「幽霊は存在しない」
「動力源がない物が動くはずはない」
「怪現象が起きる理由は、温度差や磁場やプラズマなんかで説明できる」
みたいなことを、大人の言葉で説明をしたところで、大人の言葉が理解できない子供からすると、
「見たことが亡いから幽霊は怖い」
「自分が見ていない間に動いてるかも知れない」
「難しいことは解らない」
ということになってしまう。
知らない、見えない、解らないというのが、とても怖いと思えるのは、大人も子供も同じのはずだ。
一時間目の校長先生のお話をコワイと感じて「聞かない」ことを選んだ子供達は、溜め池の人柱伝説の中に紛れ込んでいる嘘の部分まで含めて信じそうになってしまったからこそ、聞かないことにしたのだろう。
逆に「聞く」ことを選んだ子供達の中には、あの伝説の中の本当の部分まで嘘の話だと思い込んで、信じないと決めた者がいるかも知れない。
では龍はどうなのかと言うことだけれど……龍は怪談の類いを「信じない」ことにした。
『怖いと思っちゃうから怖いんだ。怖いと思わなければきっと怖くない。だから怖い話は信じない』
この時も龍はそうやって自分の心に言い聞かせた。背筋を伸ばして、廊下の西の端の、旧校舎への連絡通路の入り口を、まっすぐに見た。
そうすれば、誰もいない理科準備室の、普段は閉まりっぱなしのドアが「見えない」と考えたからだ。
龍は運動会で行進するときみたいに、まっすぐに歩いた。
そして、途中で気付いた。
人間の「視野」というのは、ぼんやり見えるというところまで入れれば顔の前の左に百度、右に百度ぐらいまである。つまりは、真正面を見ていても、横のチョット後ろぐらいまでは「なんとなく見える」ようになっているのだ。
人間の目はそういう仕組みになっているから、第三後者の東の端っこにある保健室を出た龍が、西向きにまっすぐ前を向いて進んでも、理科準備室に近づいたら、横方向にあるそのドアはどうやったってなんとなく見えてしまう。
なんとなく見えてしまった方が、ちゃんと見えているよりも怖い。
だから龍は、ドアの上から横に張り出している「理科準備室」という看板の文字が読める位にはっきり見えた瞬間から、のある方向の反対側に首を向けた。横を向いて歩くことになるけれど、人間の視野は左右に百度ずつあるから、前は「なんとなく見える」。だからちゃんと前に進んで行けた。
そうやって横向きの前歩きで進んで、身体が理科準備室の前まできた。横を向いている龍には、理科準備室と廊下を挟んで反対側が見えている。
そこには階段がある。上り階段が少し明るい。
昇っていく途中の踊場に大きなガラス窓があって、そこから、中庭に植えられたサルスベリの、もうチョットで開きそうなつぼみがたくさん付いた枝が見えた。
階段を上って二階にゆくと、そこには二年生達の教室がある。そこにはたくさんの人間がいる。そう思うだけで、龍はホッとできた。
ホッとした龍の目の、右の下側に、四角い影のような物が見えた。
階段の下のスペースだ。
そこは、廊下から降り段が三つ付いている。三段下がったその先に、掛け金の下りた鉄のドアがあった。
階段下の無駄空間を利用した、掃除用具倉庫だ。
倉庫には、一年のうちでもほんの数回かしか使わないようなワックス掛け用のモップだとか、落ち葉掃除用の籠や熊手だとかの他に、普段使う掃除用具の予備、それと、何年も使っていないのかも知れない工具のようなものがしまってある。
そういう物を出し入れできるのは、先生方や、五年や六年生のような年長の児童達だ。四年生である龍は、まだその中に入ったことがないから、物がしまってあるということも知らない。
それもあって、半地下で電灯も付いていないその場所が、龍には、真っ暗で寒い場所に感じられた。
そうして、ほんの一mか二m先のその場所が、遠くて深い洞穴のように思えた。
入り口は封じられている。出口は見当たらない。
真っ暗でどこまでも続いている、そんな深い穴。
進むほどに道が狭まって、壁がミシミシと迫ってくる、細長い穴。
龍は、背筋に冷たくて長いものがヒタっと張り付いたような気がした。
寒くなって、自分で自分のの体を抱きしめる。
怖くなって、目を閉じた。
目を閉じれば、明かりは見えない。
まぶたの裏に赤い闇が広がる。
その闇の中に、白い顔が浮かんだ。
大きな瞳がまっすぐ自分を見つめている。
「『トラ』!」
実際に声を上げたかどうか、龍は覚えていない。けれど、あわてて目を開けたのは確かだった。
赤い闇は一瞬で払われた。
ところが、まっすぐに自分を見る視線だけは残った。
『違う、違う。大体、「トラ」は多分ウチの学校の児童じゃないんだ。いるはずがないんだから、見えるはずがない』
それなのに、目の前の暗がりの奥に確かに「誰か」がいるような気がしてきた。
龍は生唾を飲み込んだ。
身体がゆっくりと右を向く。つま先がゆっくりと持ち上がる。
自分が「そうしよう」と思ってやっているのか、それとも「誰か」がそうさせているのか、そんなことは解らない。
解らなかったのだけれど、足は前に進んだ。
段差を三つ降る。
冷えたコンクリートの上の冷たい冷たい空気が、足首の周りに絡みついた。
暗がりに手を伸ばす。指先が掛け金に触れる。
キチリ、と小さな音を立てて、それは簡単に外れた。
龍は鉄のドアノブに手を伸した。
指先がノブに触れる直前、蝶番が「ギィっ」と悲鳴をあげた。
龍は見えない何かに突き飛ばされたみたいに、後ろへ飛び退いた。
三段の段差の真ん中の出っ張りが、彼の踵にぶつかった。
「うわぁ!」
尻餅の音と叫び声が、静かな廊下でうわんうわん反響した。
少し遅れて、硬いものが硬いものにぶつかる大きな音と、柔らかくて重いものが硬い床に落ちる音がした。
直後、事務室と職員室の引き戸が立て続けに開いた。
幾人もの大人達の視線が、この時間には人気のあるはずのない廊下で泳いでいる。
大人達の視線は、やがて廊下で尻餅をして座り込んでいる一人の男子児童に集中した。
何人かの事務員と教師とが、廊下に飛び出して、その子に駆け寄った。
男子……つまり龍は、声を掛けながら近づいてくる大人達の方を見ようとはしなかった。
彼の目は、目の前の四角い穴の底に注がれていた。
白と黒の固まりが床の上にあった。
しばらく見つめてからようやく、その白は長袖のシャツの色だと言うことが解った。
黒いところは、刈上げた頭の毛と、長ズボンなのだと言うことも解った。
倒れているのは、よく見たことのある……でもここしばらくは見かけなかった……人の形、だった。
「『トラ』!?」
龍は、自分の口から出た声と、それと同じ音の別の人の声との二つを、同時に聞いた。
自分の声ではない方は、聞いたことはある気がするけど耳慣れない、しわがれた女の人の声だった。
何処でその声を聞いたのか、彼はすぐには思い出せなかった。ただ、その声の主が、先生方の誰でも、事務の人でも、給食室の人でもないことは間違いなかった。
彼は顔を倒れている「トラ」の方に向けたまま、目玉だけ声のした方へ動かした。
先生達と事務の人たちの後ろに、校長先生と、急用で出かけているはずの龍のクラスの担任と副担任の先生がいた。
その隣に、薄い緑の混じった灰色のきれいな着物を着た、白髪頭で、目玉と目の回りと鼻の頭の真っ赤になった、お年寄りが立っている。