理科準備室が怖い。
「君にとって、図書館は鬼門なのかも知れないわね」
養護教諭はちょっと困った顔を無理ににっこりと笑わせて言った。
龍には「キモン」の意味がわからなかったのだけれど、多分あまりよい意味の言葉ではないんだろうと想像した。
今回はおでこに頭瘤が一つできただけで、この前のような派手な怪我じゃない。でも、気を失ったとか怪我をした、といえば、同じ事になる。
それは間違いなく「よいこと」ではないし、それが起こった場所を指していう言葉なのだから、やっぱり「よい意味」であるはずがない。
授業時間中の保健室は耳が痛くなるほど静かだった。静かすぎて、保健室から見て学校の敷地の反対側の端にある体育館で弾むバスケットボールの音まで聞こえてくる。
おでこに湿布を貼ってもらった龍は、
「先生、お願いです。家には連絡しないでください。こないだの怪我で、お母さんは心配しているし、お父さんは怒っているから」
蚊の鳴いたような声で言った。
保健室の先生は、やっぱり困ったような笑顔をして、それでもうなずいてくれた。
「教室に戻った後、具合が悪くなったら、直ぐに戻って来なさい。いいですね?」
養護教諭に念を押された龍はうなづいてから立ち上がって、忍び足でドアに向かった。それから振り返って、
「ありがとうございました」
ぺこりと養護教諭にお辞儀をした。お辞儀をしたまま後ろ手にドアを開けて、後ずさりで廊下に出て、頭を上げずにドアを閉めてから、龍は回れ右をした。
顔を上げると、目の前には四角い管のような廊下が、まっすぐ続いている。
保健室は図書室のある一番新しい第三校舎とは別の、ちょっとだけ古いコンクリートの校舎の、一階の端っこにあった。
同じ階には養護学級以外に「生徒が常にいる教室」はない。
あるのは職員室と校長室、応接室に事務室、鍵の掛かった倉庫、滅多に使われない理科準備室だから、子供の姿はあまりない。
このフロアの空気がひんやりとしていて、重たいほど静かなのは、きっと児童というある種の「熱源」と「音源」が極端に少ないからだろう。
なんとなく暗い四角いチューブの中を、龍はぽつぽつと進んだ。
煙草の匂いのする職員室の前を抜けて、何となく怖い校長室の前を抜けて、電話のベルが聞こえる事務室の前を過ぎると、理科準備室がある。
新しい校舎ができる前、ここは「理科準備室」ではなくて「理科室」だった。
天板が真っ黒で大きな机は、床に固定されている。一つの大きな机には、背もたれのない木の椅子が四つずつ添えられていた。机には流し台と水道の蛇口が付いていて、ガス管も引かれている。
教壇の所の黒板は二枚の黒板を上下にスライドさせられる大きなやつだ。黒板の窓側の横には大きな画面のテレビが置いてある。そういうのは他の教室にはない設備だった。
黒板の反対側の壁と廊下側の壁には、鍵の掛かったガラス戸の棚と、鍵の掛かったスチールのロッカーが並んでいる。
棚の中には茶色や透明の瓶、ビーカーやフラスコや試験管、顕微鏡やアルコールランプなんかがしまわれている。ロッカーの中には大きな物や、日光に当たっては困る物が入れられていた。
この学校の児童の大半は、この旧理科室を「怖い場所」だと思っている。
原因は二つ。
一つは、黒板の窓側の横にある、隣の部屋……薬品保管室への扉だった。
実験用の薬品は教室の棚の中にもしまってある。でもそれは「安全な」薬品だけだ。
危ないものは、薬品保管室に保管されている。
たとえば、亜鉛とかマグネシウムとか硫黄とかアルコールとかの爆発するものや、アンモニアとか硫酸とか水銀とかの毒になるものだ。
もう一つは黒板の廊下側の横にあるガラスケースだ。
これはずいぶん古いものらしい。
枠は木製で、大きさは小学校六年生の背丈よりちょっと高いぐらい。
茶色く日に焼けたカーテンがガラス戸の内側に掛かっていて、中に何が入っているのかまるで見えない。
壁との間の「裏側」をのぞき込むと、枠に南京錠の掛かった掛金が螺子止めされているのが見えた。
そっち側が「扉」で、つまり本当は「前」なのだ。最低でもガラスケースをぐるっと九〇度回して、扉を壁のない方向に向けてから、鍵を外して扉を開け、中のカーテンを開かないと中は見られない。
昔はちゃんと扉の方が前になっていたのだけれど、何年か前に前後をひっくり返したらしい。
わざと扉が開かないようになっているには理由がある。
龍はまだ低学年だった頃に、誰かから……多分スネ夫あたりだと思う……そのわけを聞いた。
ガラスケースの中身は、人間の子どもサイズの骨格標本なのだ。
それも、作り物ではなく、本物の子供の骸骨だ。
鍵は昔からこの学校にいる年寄りの理科の先生が個人的に管理しているらしい。他の先生でも開けることはできないんだそうだ。
なぜならそれはその先生の私物で、実は標本にされたのは先生の子供だからだ。
この先生も龍達が小学校に上がるずっと前に亡くなった。
身よりのない先生は、遺言で自分の死体を大学に献体した。
それで先生の骨は骨格標本にされて、この学校に寄付された。
大人である先生の骨格標本は大きいので、薬品倉庫の中にしまわれている。
ある夜中、理科室から変な物音がした。
ガタンとガラス戸が開いたみたいな音、カタカタと歩く音、カラカラと固い物が当たる音。
その日、職員室に一人の先生が居残って、テストの採点をしていた。
その先生が、音を不思議に思って、懐中電灯を持って理科室を見に行った。
教室の扉を開けて、中を懐中電灯で照らすと、木枠のガラスケースの扉が開いているのが見えた。
不思議に思って、先生は中に入って電気を点けた。すると薬品保管室のドアも少し開いているのが解った。
カタカタという音が、ドアの向こうから聞こえる。
先生はドアの隙間から保管室の中を覗いた。
たくさんの棚が並んでいる中に、大人の骨格標本が入っているはずの大きなケースがある。
それも、扉が開いていた。
先生は懐中電灯で中を照らしたけれど、棚がいっぱいあるから中の様子がよくみえない。
そこで、保管室の電灯のスイッチを入れた。
明るくなった薬品保管室の真ん中で、親子の骸骨が仲良く顎の骨をかたかたと鳴らしていた。
驚いた先生は気を失ってばったりと後ろに倒れた。コンクリートの上にリノリウムの板を貼っただけの硬い廊下に、先生は頭を打ち付けた。
それで先生は大けがをして、入院したっきり、学校には戻ってこなかった。
そんなわけだっだからで、子供の骨が外に出ないようにケースはドアを壁に付けるように置かれ、大人の骨が動かないように薬品保管室には鍵が掛けられている――。