その人の名は。
目次のページを端から端まで見て、龍はその本を閉じた。
そして同じ棚から別の本を取り出して開いた。
また目次の文字だけを追いかける。おしまいまで見終わると閉じる。
龍は探していた。
探しているけども、探している物は見つからなかった。
もしかしたら心の奥底で、探している文字列が見つからないことを願っているのかも知れない。
何冊取り出して、何ページの目次を見たのか、わからない。
龍また同じ棚から別の本を出して、目次のところを開いた。
茶色く変色した紙には柔らかさがなかった。ページの端っこは、触ったらぱりぱりと割れそうな音を立てた。
紙の上には、細くて少し凸凹した文字が印刷されている。
なんだかとても読みづらい文字だった。
龍の目玉は文字の上を滑って行く。
たまに読めない文字に引っ掛かって、つまずきながら、龍の視線は目次のページを三分の二ほど滑っていって、突然止まった。
『姫ヶ池』
龍はその文字を口の中で読んだ。
その三文字の下には「……」がいくつも、一直線にページの下の端の二CM手前まで並んでいて、その最後のところに数字がちんまりと書いてある。
龍はその本を持って、自分が図書袋を置いた席に戻った。
椅子に座ると、龍はものすごい勢いでページをめくって、さっき見付けた数字と同じ数字が隅ッコに書かれているページを探した。
古い本は所々破けかけたり、外れかかったりしているページがあった。そういうページにさしかかると、龍の手は止まった。段々ページをめくる速度がゆっくりになる。
ページをめくり過ぎたり、戻りすぎたりしたけれど、龍はそのページを見付けた。
『○○平は降水量が少なく、古より旱魃に苦しんできたが、××氏が領有していた時代に盛んに普請された溜池が功を奏して、現在では水田地帯となっている』
龍は何度もまぶたを閉じたり開けたりした。
文字が龍には読みづらい形をしている。
使われている漢字は難しくて、フリガナもついていない。
文章の中に知らない言葉がたくさん出てくる。聞いたことのない言葉使いもある。
行間は狭くて、改行も段落も少ない。
まるで、茶色い紙の上に真っ黒な四角が乗っかっているみたいに見える。
何が書いてあるのかちっとも解らない。だから龍は慎重に文字を追いかけた。
頑張って一文字ずつ文字の形を見分け続けて、やっと目次で見付けたのと同じ文字にたどり着いた。
『……以上がよく知られた姫ヶ池の伝承である。尚、異説も数種口伝されており、姫が埋められて直ぐに池に水が満ちたと謂う話もある。此に依ると、池中央より白龍が現れて、姫を抱きて昇天したという。池端の社が辰寅神社と呼ばれているのは、この伝承と、姫の名がその生年から「寅姫」と呼ばれたものが融合したものか……』
龍の目玉は抜け出せないくぼみにはまったようにぴたりと止まった。
お姫様の名前が、読めない。
そこまでは、読めない文字は全部読み飛ばして済ませていたのだけれど(だから文章の内容は全然わかっていない)、この文字は読まないワケにはゆきそうもない。
龍は辺りを見回した。
この中で難しい漢字の読めそうなヤツは……クラス委員の女子か、すぐ側にいるスネ夫か。
女子に声を掛けるのは、少し気恥ずかしい。
スネ夫に聞くのが一番早そうだった。
龍がスネ夫に声を掛けようとしたとき、龍はドリルとノートをばたばたと図書袋の中に押し込んでいるところだった。宿題は終わったのか、それとも諦めたのか、龍には解らない。
ともかくスネ夫は、静かにしないといけない図書室でパタパタと大きな足音をさせて、温和しく本を読んでいた他のクラスメイト達に睨まれながら、児童書の棚に向かって駆けて行った。
スネ夫は翻訳物の児童文学のハードカバーを幾冊も取り出して、本棚の前にペタンと座り込んだ。
それきりその場から動かない。取り出した本は床に直接、散らかし置いた。その中から一冊取り上げると、半分ぐらい読んで床に置き、別の本を手に取って読み出す。
図書室の司書さんが怒ったような困ったような顔をして、入り口のカウンターの中から出てきた。
司書さんは足音を立てずにスネ夫に近づいた。すごく小さな声では注意されたスネ夫はものすごくびっくりしたらしく、飛び上がるようにして立ち上がって、慌てて本を近くの机の上に置き直した。
スネ夫が音を立てないようにして椅子を引き寄せて座ると、司書さんはうなづいて、元のカウンターの中に戻りかけた。
龍は立ち上がって、足音を立てないようにそぉっと司書さんを追いかけた。司書さんが受付のカウンターの中に入ったすぐ後に、龍は、
「すいません、国語の辞書はありますか? 難しい漢字が調べられるような……」
ようやっと聞こえるくらいの小さな声で訊いた。
司書さんはちょっと嬉しそうな顔をして、龍の顔と龍が座っていた席のテーブルの上で広げられている本を見比べ、ちょっと考えた。
司書さんは龍に、指先をぴったりそろえた掌を見せた。
『ちょっと待っていて』
という意味だと、龍は思った。
龍はチョットだけ待った。図書館の司書さんはカウンターの中の棚から、一冊の辞典を取り出した。
それからものすごく小さいのによく聞き取れる声で、
「君は難しそうな本を選んでいるみたいですね。だから、小学生用の漢和辞典には載っていない文字も調べられるものの方が良いと思います」
言いながら、龍の片手では背表紙を掴みきれないぐらいに分厚い辞典をカウンターの上に置いた。
分厚い辞典はものすごく重たくて、運ぶのは大変そうだった。龍は自分の席に戻って辞典を引くのを諦めて、その場でぺらりとページをめくった。
ものすごく薄い紙に、ものすごく小さい文字がびっしりと並んでいる。
龍が普段使っている、文字が大きくて時々説明の挿絵の入った辞典とは、まるで違った。
大人用の辞書だ、と、龍は思った。大人用だから文字が小さいのは仕方がない。でも、難しい漢字の意味を、もっと難しい漢字で書いてある理由が解らない。
龍は顔を挙げた。その不満そうな顔を見て、司書さんは苦笑いをした。
「どんな文字を調べたいのですか?」
言いながら、司書さんは先生はメモ用紙と事務用のボールペンを龍に差し出した。
龍は滅多に使わない筆記用具に緊張してたけれど、透明でギザギザの付いたペン軸をギュゥっと握って、頭の中に残っていた文字を書いた。
ボールペンの先はメモ用紙の中にめり込みながら、黒い線を引いてゆく。
初めて見た文字で、形だけをぼんやり覚えただけだから、たぶん書き順は合っていないし、形も変だった。あんまり変な形になったので、書いている途中から、龍は「間違っているかも知れない」と思い出した。
席に戻って本を持ってきた方が早かったかも知れない。そうすれば難しくてまるきり解らないあの本の内容そのものを、先生に教えてもらえたのに――。
龍は後悔しながら、それでも漢字を一文字書き上げて、メモ用紙から顔を上げた。
司書さんは分厚い辞典のページをめくった。
文字はすぐに見つかった。司書さんは辞書を龍の方に向け直してページを広げてくれた。
「干支を知っていますか? 年賀状に今年は何年です、みたいに動物とかの絵が描いてあったりしますけれど、見たことはありませんか?」
龍は目をパチパチさせた。司書さんが突然訊いてないことを言い出した、と思ったのだ。
それでも、龍は干支という言葉をちょっと知ってた。
両親は商売をやっているから、毎年お客さんに年賀状を出す。そこには毎年違う動物の絵が書いてあって、それが干支というものだと、母親が説明してくれた。
だから龍はコクリとうなずいた。
すると司書さんはにっこりと笑った。
「それで『寅』は干支の三番目のことで、動物は『トラ』が当てはめられています」
『とら』
司書さんの言葉を聞いた途端、龍の耳が急にきーんと鳴った。目の前が白くかすんだ。
その白い霞の中に、見たことのある大きくて黒目がちな瞳と赤い唇が、微笑みながら浮かんでいた。