自習の時間。
「夜が明けても戻ってこないお侍さんたちを探しに家来の人たちが池に行った。
そこにはお侍さんの姿も、お姫様の姿もなかった。
そこにあったのは、水だけ。
まだ水を引き込む工事をしていないはずの池に、なみなみと、澄んだ水が満ちていた……とさ」
校長先生の声が止んだ。
水を打ったような静けさの教室に、授業の終わり時間を知らせるチャイムの音が響く。
チャイムが鳴り終わると、校長先生は教室の出入り口のドアを開けて廊下に首を出して、
「もう終わったよ」
と、廊下に声を掛けた。
トイレに行っていた女子達がそっと教室の中に入った。
女子達が静かに自分の席に戻り着くよりも前に、校長先生は教室を見回して言った。
「さて、社会の時間は終わりだ。次の時間は……そうだねえ、図書室で自習にしようか。
三時間目が始まる前ぐらいにはI先生も戻ってくる予定だから、そうしたら普段通りの時間割に戻るよ。
先生が帰ってこなかったら、それはその時に考えればいいからね。……はい、日直!」
校長先生が今日の学級当番を指さすと、その子は、
「起立っ!」
声を張って号令をかけた。
スチールの椅子の脚と木の床がぶつかり、こすれる音が教室中で鳴る。
龍は頭を机の上に突っ伏したまんま、膝だけを少し伸ばした。
頭が下がってお尻が持ち上がった格好になったから、他の人には、日直が、
「礼!」
と叫ぶる前から、お辞儀をしているように見えたかも知れない。
龍はその変な体勢で、ちょっと固まった。
「着席!」
の声を聞いても、龍は座る気になれない。だからといって逆に立ち上がることもできない。
中腰で、しかも中途半端に膝を伸ばした、まるきりつまずいて転んだみたいな格好のまま、しばらく彼は机に顔を埋めていた。
『僕は頭をぶつけたセイで、変になっているのかも知れない。校長先生の話を本当の風景みたいに想像してしまうし、想像のお姫様の顔は「トラ」の顔に思えてしまうし』
このごろ雨が降らなくて、本物の「トラ」に会えないのがいけないのに違いない……そう考えると龍はなんとなく納得できた。というか、納得しようとした。
無理矢理に納得して、ようやく龍の腰は椅子の座面に落ちて、頭は机から離れた。
誰かが、
「図書館に行けっ言われても、次の時間、他のクラスが使っていたりしないのかな?」
といって、別の誰かが、
「校長先生が行けって言ったんだから、大丈夫なんじゃないの? 他のクラスがいたって、元々図書館では私語はいけないんだから、話さなきゃいいんだよ」
と答えた。
静かだった教室は、また騒がしくなっていた。
教室の後ろの壁際の棚や、机の横のフックから、児童達はそれぞれに図書袋を引っ張り出した。それを肩にかけたり、頭に引っかけたり、手に持ったりして、ぞろぞろと教室から出てゆく。
龍も机の横のフックから袋をとって、袈裟懸けにして立ち上がった。
廊下では、学級委員と日直が、生徒達を二列に整列させようと躍起になっている。
「背の順の二列! 小さく前へ倣え!」
普段、龍のクラスはわりと行儀が良い児童が多い方だ。でも今日は先生という大人の箍が外れている。子供達はいつものようにまっすぐには並ばないし、きれいな二列にもならない。歩き方もだらだらとしている。
それでも始業のチャイムが鳴るギリギリ前には全員が図書室にたどり着いていた。
若い女の司書さんは、一クラスまとまってガヤガヤ言いながらやってきた生徒達の顔を見回した。そして声を立てず、ただ唇の前に指を一本立ててみせた。
児童の列の先頭が、司書さんの真似をして指一本で唇を押さえて、後ろに振り向いた。後ろの子供達も同じようにして振り向く。
司書さんの真似が列の一番後ろまで伝わると、子供達はそれぞれだまって本棚の間に散っていった。
しゃべらずに普通に歩けば、それで充分静かなのに、男子の中にはテレビで視るような泥棒の忍び足みたいに歩く者がいた。忍び足はあっという間に男子の中に広まって、真似をする泥棒達がドンドン数を増やした。
真似しない子供達は、笑いを堪えて肩をふるわせていたり、不真面目な泥棒達を怒った目で睨み付けたり、全然そっちを見ないようにしている。
ともかくみんなは、思い思いに好きな本を手にとって、思い思いに好きな席に着いて、思い思いに読書を始めた。
中に一人、書架から本を取り出さずに長い机の端っこに座る者がいた。
スネ夫だ。
最初のうちは「ふう」とため息を吐いたり、ぼりぼりと頭を掻いたり、しばらく椅子の上で落ち着きなくソワソワしていたけれど、しばらくして、図書袋から算数のドリルとノートを取り出した。
『あ、算数の宿題』
龍は頭の中でつぶやいた。スネ夫は四時間目に答え合わせをする予定の分数の足し算を、今から解こうとしているらしかった。
校長先生は「自習にする」と言ったのだけれど、「何の科目をやったらいいか」を言わなかった。本を読めとも言っていない。だから算数ドリルを解いてもいいことになる。
さすがに体育の自習だと言って縄跳びをしたり、音楽の自習だといってリコーダーを吹いたりしたらダメだろうけれども。
スネ夫は一所懸命に数字の世界に入り込もうとしている。でも、どうしても集中できないみたいだった。握りしめている鉛筆の芯はノートの端っこに止まったままで、ちっとも答えは書かれない。
『なんだ、あいつ宿題を忘れてたのか。でも運がいいや。自習の時間ができたんだもの』
龍はそのスネ夫の近くの椅子に自分の図書袋をおいて、書架に向かった。
低学年用の絵本や、絵本ではないけど同じくらい絵の多い本が詰まった低い棚の向こうに、伝記や感想文の課題図書に選ばれた本なんかが並んだ棚があって、そのまた向こうに百科事典が並んだ棚がある。
龍の足は、厚くて重たそうな百科事典の棚の向こう側に進んでいた。
そのあたりの冷たい空気は、少しほこりっぽくて、ほんのりと甘い匂いがする。
棚の柱のところに「地方史(ふるさとの歴史)」と書かれた、茶色にくすんだシールが貼ってあった。
天井までぎっしりと詰まっている本は、どれもこれも古くさい。背表紙には難しい漢字の並んだ題名が書いてあった。
龍は、住んでいる町の名前が書かれていて、できるだけ薄くて、できるだけ新しそうな本を選って、ぎゅうぎゅうの棚から抜き出した。
算数ドリルを開いているスネ夫の近くの椅子に座った龍は、持ってきた本の一冊の、目次のページを開いた。
算数ドリルの回答ページよりも小さな文字がズラズラ続いている。
龍の目は、その読みづらくて読めない文字の上を直滑降で滑っていった。