穴を埋める。
「お姫様に言われた穴を埋める係の人は、言われたとおり声を出さなかった。
どうしてかというと、実はこの係の人も、偉いお侍さん……お姫様のお父さんがずるだったんじゃないかと思っていたからだ。
それに、自分が人柱の人たちを埋めて死なせてしまうのが、イヤだったんだ。
誰だって人殺しにはなりたくないからね」
校長先生は「ふぅ」っと息を吐いた。
龍には、校長先生の溜息が、ちょっと悲しそうな音に聞こえた。
教室の児童達は、水を打ったように静かに、校長先生の話に聞き入っている。
「それでも係の人は、お姫様がいる穴の中に土を入れた。
目を瞑ってどんどん入れた。お姫様の身体はどんどん土に埋まった。
係の人はもっともっと土を入れた。土がお姫様の肩の上まで来ても、口の所に来ても、土を入れるのを止めなかった。
そして、お姫様の身体は土に隠れて見えなくなった。見えなくなっても、係の人は土を入れ付けた」
龍は目をぎゅっとつむった。真っ暗な目の中に見えたのは、龍みたいにぎゅっと目をつむった「係の人」の顔だった。見たこともない大昔の人の顔は、龍のお父さんの顔みたいに見えた。
龍はもっとぎゅっと強く目をつむった。
目の前にあるはずの机の板目は見えない。
教壇にいる校長先生の顔は見えない。
校長先生の後ろにある黒板は見えない。
前にも後ろにも右隣にも左隣にもいるはずのクラスメイト達の顔も見えない。
目を瞑っているだけじゃなくて、耳の穴に指を突っ込んでいるから、本当はすぐ近くにいるはずの校長先生の声が、龍にはものすごく遠くで喋っている様に聞こえる。
龍には『もしかしたら、今、僕は教室にいないんじゃないか』と思えてきた。
教室じゃない、学校じゃない、ずっと遠くにいるんじゃないか。
そして今は今じゃないんじゃないか。
龍の目の中には、乾いた土が小さな山になった地面を、歯を食いしばって見つめている、お父さんによく似た大人の男の人が見えている。
人柱の穴を埋めた人は、少し土が盛り上がった地面に向かってぺこりと頭を下げ、くるりと向き変えると、そのまま走ってどこかへ行ってしまった。
そこへ溜め池を作って人柱をうめることを考えた、あの偉いお侍さんがやって来る。
お侍さんは少し盛り上がった地面を見て、声を立てないで笑った。
ニヤニヤ笑いながら、土の山を素足に草鞋を履いた足で踏みつけた。
何度も何度も、まるで|毛虫《アメリカシロヒトリの幼虫》か、煙草の吸い殻を踏みつぶすみたいに、何度も何度も土の山を踏みつける。
日が傾きはじめて、神事を取り仕切った神社の人も、溜め池ができたら水を貰える農家の人も、偉いお侍さんに付いてきた部下の人たちも、偉いお侍さんも、全員そこから離れた。
みんな家に帰ってしまった。
乾いた土以外になにもない場所から、誰もいなくなった。
机に突っ伏したままの龍は、体の回りに冷たい土を押しつけられているように思えて仕方がなかった。
暗い穴の向こう側から、校長先生の声が聞こえる。
「自分のお屋敷に帰ったお侍さんは、自分の娘であるお姫様がお屋敷にいないことに気付いた。
家来に訊くと、
『朝早くに溜め池の普請場を見に行くと仰って、お一人でお出かけになりました』
と答えた。
お侍さんは驚いた。お姫様が人柱に反対していたのをお侍さんは知っていたから、ただ見るために出かけたのではないだろうと思った。だから急いで普請場に戻った」
龍の頭の中で、お侍さんは誰もいない工事現場の回りをぐるぐる回っていた。
お姫様を捜しているのか、お姫様の行方を知っている人を捜しているのか。
でも、まだ水を引き入れていない溜め池の工事現場には、だれもいない。
龍は思った。
『……もしかしたら、お侍さんはお姫様が穴の中に埋められてしまったのだということに気付たのかも知れない』
穴を埋めるように命令したのはお侍さん自身だ。それに埋め終わった後を、お侍さん自身が足で踏み固めた。
まだ土が柔らかな間は、もしかしたら穴の中の人生きていたかも知れない。その時に掘り返せば、もしかしたら助かったかも知れない。
でも、お侍さんはその上に乗って、地面を踏み固めた。
自分が人柱を――自分の娘を――殺してしまった!
お侍はそれを認めたくなかった。だから、どうしても、どうしても、まだ水の張られていない池の底へおりて行くことができない。下りていって、穴を掘り返すことができない。
空っぽの溜め池の周囲をぐるぐる歩き回るお侍さんの足元で、カサカサに乾いた枯れ草や落ち葉が、がしゃがしゃと音を立てて粉々になった。
ざりざり、がさがさ。
お侍さんの歩く音だけが響く。
お侍さんは考えた。もしかしたら姫はお屋敷に戻っているかも知れない。そうなったら、お屋敷から家来が来て、自分に知らせてくれるだろう……お侍さんはそう思いながら歩き続けた。
夜になって、真っ暗な空に月が昇った。
月の周りを白い虹のような輪が囲んでいる。
お侍さんは池の周りを歩きながら、時々ちらちらと横目で池の真ん中を見た。
乾いた地面が広がっている。
真正面からそこを見据えることができない。
ぐるぐる、ぐるぐる、お侍さんは池の周りを歩き続けた。
同じところを歩き続けたものだから、そこのあった枯れ草も落ち葉も全部粉みじんになって、とうとう音を立てなくなった。
ひたひた、ひたひた、お侍さんは歩き続けた。
脂汗が乾いた。喉も乾いた。
歩いても歩いても、だれもお侍さんを呼びに来ない。
お侍さんは空っぽの池の真ん中の、自分が踏み固めた場所から離れることができなかった。
でも、そこに近づいくことができなかった。
穴を掘り返して「そこの何が埋まっているのか」を確かめることもできなかった。
だから同じ所を行ったり来たり、ぐるぐるぐるぐる歩き続けた。
月が空の一番高い所まで昇った。
土臭い風が吹き始めた。
池の周りからは、何の音も聞こえない。
でも、空っぽの池の中からは水の音が聞こえて来た。
お侍さんが池の方を見ると、乾いていた地面が黒く湿っていた。
水の音は、その湿った所から聞こえてくる。
最初はちょろちょろ。
それからさらさら。
池の真ん中の、丁度人柱が埋められた場所から、水があふれ出た。
ザーザー。
ザブザブ。
ドブンドブン。
音が大きくなるのと一緒に、溜め池の中の水の量が増えていった。
ゴウゴウ。
一息にあふれ出したその音を、龍は聞いた覚えがあった。
それは雨の降った翌々日のあの川の流れの音だった。
龍は頭を上げた。
前の席に座るクラスメイトの背中と、教壇に立つ校長先生、地図の書かれた黒板。
その上に掛けられた白い大きな時計の針が、びくりと揺れながら目盛り一つ分だけ移動した。