水滴が言うには
「……冗談ですよね?」
残されたフィオリーナが尋ねるが、ネーヴェは至極真面目に答えた。
「墓守にしては薬品棚に薬が豊富でしたよ。何の実験をしていたんだか」
危ないので回収しておきましたが、と平気な顔で言うネーヴェが信じられない。
二の句がつげないフィオリーナを横目に、ネーヴェは指笛を鳴らした。すると森の外で草をはんで休んでいた馬が戻ってくる。
「調査用に坑道をいくつか残しておいたけれど、塞ぐことも検討しないといけないなぁ」
ネーヴェはぼやくようにアクアに言って、足下の猟犬を撫でながら溜息をつく。頭を撫でられていた猟犬は満足したようにとろりと溶けて姿を消した。マーレの元に戻ったのだろう。
「人目につきそうなところには、人除けの魔術を施してありましたが」
そう言うアクアにネーヴェはうなった。
「人除けは一度でも綻びが見つかると、効果がなくなるのが欠点だな。もう少し改良してみるか」
大人の目線では綻びがないように見えても、小さな石などを投げ入れて空間があると認識できてしまうと、人除けの効果が半減してしまうのだという。
「とくに子供の遊びは大人では見当が付かないものですからね」
そう言ってネーヴェは流れるようにフィオリーナを馬上へ抱き上げる。これが彼なりのエスコートなのだともう抗議はあきらめることにした。
「あの、せめてコートをお返しします」
横乗りに乗せられたフィオリーナがコートを脱ごうとするが、ネーヴェはコートをしっかりと合わせた。
「着ていてください」
当然だがネーヴェのコートはフィオリーナには大きい。袖は余るしコートの裾はふくらはぎまで覆っている。
ネーヴェは今度は鐙に足をかけて馬に乗ると、フィオリーナを腕に抱くようにしてかかえた。
「今の格好……人前で言いにくかったんですが、ドレスのスカート部分を切って、足に巻き付けたんでしょう?」
ネーヴェは困ったように苦笑して、フィオリーナに視線を落とした。コルセットと分厚いペチコートも着ているから大丈夫かと思っていたら、しっかり見破られていたようだ。
「乗馬用の服がなくて……」
「まったく。また無茶をして」
ネーヴェの苦笑に、ふたりを見上げていたアクアも苦笑いする。
「今度はフィオリーナ様もランベルディ領へ買い物へ参りましょう」
「そうします……」
既製品のドレスは仕立てるよりも安くつくが、それでもドレスは高価だ。実家からの次の送金はまだ先なので、もう少し考えてやりくりしなくてはならない。
「資金繰りについては、また相談しましょう。──とりあえず私たちは先に帰るよ」
ネーヴェの言葉にアクアはうなずいた。
「わたくしは他の坑道を見て参ります」
アクアはそう言って、山へと戻っていってしまった。
つい心配になって見送っていると、ネーヴェは「大丈夫ですよ」と言う。
「山はアクアたちの庭のようなものです。気が済んだら帰ってきますよ」
そうネーヴェに言われて、アクアは妖精なのだと思い出す。
「アクアたちは普段どのように過ごしているのですか?」
ぽくぽくとゆっくり馬を進ませて、ネーヴェは「そうですね」と答えた。
「屋敷の庭で休んでいるときもあれば、山や湖に行っていることもありますよ。鉱山は封鎖していて人間がいないので居心地がいいそうです」
彼らが休むときはたいてい姿を消していて、見つけられるのはネーヴェぐらいらしい。
「まぁ、休んでいるときは私も見つけないようにしていますから」
緊急のとき以外は、基本的にネーヴェは彼らの自由にさせているという。屋敷での手伝いも彼らの気分に任せているらしい。
「手伝いの報酬は何でもいいと言われているので、カリニの作ったお菓子で手を打っています」
アクアたちは食べることを必要としないが、人間の嗜好品、とくに甘いものが好物らしい。
「では、カリニにヌガーをたくさん用意してもらわないと」
あのマーレもヌガーが好物だったのを思い出してフィオリーナが微笑むと、ネーヴェは苦笑した。
「あれはカリニが作ったからですよ。マーレたちはカリニに餌付けされていますからね。……私は、マーレたちはずっと酒が好きなんだとばかり思っていましたから」
ネーヴェが甘い物をあまり食べなかったこともあるだろう。アクアたちへの報酬はずっとお酒にしていたという。
そもそもマーレたちが従者のまねごとを始めたのはカリニとホーネットの影響らしい。
「五年前まではマーレたちも私について戦場で過ごしていましたからね。私と同じで、兵士のふるまいしか知らなかったんです」
そんな彼らを、ネーヴェに仕えるのならとカリニとホーネットに教育されたのだという。
「生まれてからの年齢だけならマーレたちのほうが遙かに上ですが、人間と暮らすにあたってはカリニたちが彼らの教師なんですよ」
マーレたちがカリニたちに教えを請うたのは、ネーヴェのためでもあるだろう。カリニとホーネットが本家からやってくるまでネーヴェの生活はひどいものだったと聞いている。
フィオリーナがそれをカリニから聞いたというと、ネーヴェは苦笑いした。
「……生まれてからこのかた、自分の家というものを持ったことがありませんでしたから。寝る部屋さえあればいいと思っていたんですよ」
カリニたちがやってきて、ネーヴェはようやく屋敷の内装や持ち物を整えたという。それまでは空き家だった屋敷でろくにホコリも払わず暮らしていたというから、ネーヴェの無頓着ぶりは相当なものだ。
「馬などは必要ないと思っていたんですが、カリニに領主用の馬車を用意すると言われて必要になって……ツテを頼って軍馬をもらい受けてきたんです」
そう言ってネーヴェは馬の首を撫でる。
「そういえばよくこの馬に乗れましたね。気性の荒い馬で、オルミに来てからはマーレと私以外を乗せたことがないんですよ」
そうだったのか、とフィオリーナがたてがみを撫でても馬は嫌がるそぶりは見せなかった。
「わたくしも、これからは厩舎に……」
そう言いかけて顔を上げ、固まってしまう。菫色の瞳が思いのほか近かった。当然だ。フィオリーナはネーヴェに抱えられるようにして乗っている。それに、ネーヴェも馬を撫でるのにすこし身を傾けていた。
まつげに唇が触れるほど近くで、ネーヴェが吐息をもらす。
「……フィオリーナ」
見る見るうちに真っ赤になっていくフィオリーナの後頭部に大きな手が添えられた。うなじにかすかに指が触れるだけで、甘くしびれるような緊張が走る。
何か言いたげに唇が揺れたが、長い腕がフィオリーナの頭をかかえた。
驚いたフィオリーナをそのまま自分の胸に押しつけて、ネーヴェは深い溜息をつく。
「……厩舎へは自由に出入りしてかまいませんから」
かすれるような声は、ネーヴェが緊張しているのだと如実に知らせてくる。
「……ネーヴェさん?」
顔を赤くしたままフィオリーナが胸元で身じろぐが、ネーヴェは右腕から放そうとはしなかった。
「……すみません。今はこのままで」
きっと顔を見られたくないのだ。それはフィオリーナも同じだった。
ネーヴェの胸元に顔を押しつけたまま、小さくうなずく。
──やっぱりフィオリーナは間違えたのだ。
こんな風にネーヴェを困らせたくはなかった。あの夜に戻ってやり直したいが、それは叶わない。
どちらのものとも知れない鼓動が聞こえる。
肌が触れ合わなくとも、こうして近くにいるだけでお互いの体温を分け合っている。
緊張を孕んだそれがどういうわけかひどく心地いい。
山から広い草地を貫く道を進む。草地をわたる風が音を立てている。馬に乗ったふたりきりしかいない草原の上を雲が足早に過ぎていく。
いつの間にか山のほうから暗い雲が流れてきていた。
すみません、と苦笑が降ってくる。
「……あなたを守ると言いながら、私にはそれがひどく難しいようです」
まるでネーヴェ自身が害となるような言い方だった。
「……わたくしを無理に守ろうとなさらないでください」
フィオリーナはネーヴェに守ってほしいわけではないのだ。
どこかさまよっていた指先が、フィオリーナの頬に触れる。誘われるように顔を上げると、見つめる先の顔はもう笑っていなかった。
「……本当に?」
幾度となく見つめ返した菫色の瞳がひどく澱んで見えた。眼鏡越しの瞳にうずまくそれが、そのままネーヴェの感情にも見えて目が離せなくなる。
ぽつり、とネーヴェの手を水滴が打った。
見上げれば、いつの間にか暗い雲が空を覆っている。
「──雨ですね。早く帰りましょうか」
ネーヴェはそう言って苦笑すると、馬を走らせた。
フィオリーナは早くなった心臓の音を聞いたまま、火照った頬をネーヴェの胸元に押しつける。
──やはりあの夜、フィオリーナはとんでもない間違いを犯すところだったのだ。
危うい感情の一線を踏んでしまった。
早くこの醜い気持ちが消えてほしかった。
次第に強くなる雨の中で、フィオリーナは目を伏せた。




