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標本が言うには

 ネーヴェの部屋は屋敷の反対側、屋敷を囲む林が見える突き当たりだという。

 もっと聞き出すことに苦労するかと思っていたら、カリニはあっさりと教えてくれた。


「一度、ゆっくりお話合いをされたほうが良いと思いますので」


 夜に男性の部屋を尋ねることが、どれほどはしたないことかカリニにも分かっているはずだ。けれど、カリニは苦笑しながらもフィオリーナを送り出してくれた。

 あとはネーヴェ次第だと主人に判断を任せたのだろう。そしてそれはフィオリーナも同じだった。ネーヴェに嫌いになってもらうために、彼のもっとも嫌う行動をとろうとしているのだから。

 この屋敷の一階は応接間から廊下が貫いている。食堂のとなりはサンルームで、その先に浴室と洗面所、厨房などがある。一番奥は裏口になっていて、直接畑に出ることが出来る。裏手には厩舎があってマーレが馬の世話をしている。馬車用の馬なので、フィオリーナは様子を見に行ったことはない。

 それが屋敷の構造のすべてだと思っていたというのに、サンルームからもう一つの廊下が延びているという。

 物置かと思っていたサンルームのドアを開けると庭を臨む廊下が続いて、屋敷の反対側へと出る。その先が、ネーヴェの部屋だった。

 古びたドアのとなりには本棚があるが、その手前にも本が積み上げられている。本棚に入りきらないのだろう。

 ドアの隙間からはうっすら明かりが漏れていて、主の在室を告げていた。

 フィオリーナは覚悟を決めてきたものの、やはりためらってしまう。


(嫌われに来たなんて)


 初めてネーヴェの部屋まで辿り着いたというのに、これから追い出されようとしているのが滑稽で悲しかった。

 でも、このままではいられないのだ。

 フィオリーナは意を決してドアを叩いた。


「──ネーヴェさん。フィオリーナです」


 返事はなかった。

 代わりにゆっくりとした足取りの靴音が響いてくる。

 静かにドアが開かれると、不機嫌そうな顔が現れた。


「……カリニめ。裏切ったな」


 フィオリーナがカリニに聞いてここまでやってきたことをすぐに察したらしい。ネーヴェは、そう言って溜息をついた。

 煙草を吸っていたようだ。煙の匂いが漂っている。ネーヴェ越しに見えた部屋は雑然としていて、所狭しと標本や本が並べられている。


「……私の部屋が見たいだけなら、出直してください。昼間ならいくらでも見せて差し上げますよ」


 フィオリーナがネーヴェの部屋を見ていたこともすぐ分かってしまったらしい。そんなにわかりやすいのだろうか。

 フィオリーナは当初の目的のために、ネーヴェを見上げた。


「……ネーヴェさん」


「……はい」


 怪訝そうでも律儀に返事をしてくれるネーヴェを、これから怒らせなければならない。そう思うと心の底が炙られるように痛い。

 それでもやらなければ、フィオリーナはきっとどこにも行けなくなってしまう。


「……わたくしのことが邪魔で、追い出したいとお思いなら」


 声が震えている。それはそうだ。こんなことを口にしたことなど一度もない。


「……わ…わたくしと一晩過ごしてください…」


 ネーヴェの顔は当然見ていない。目を合わせたらもう口を開く気力もなくなりそうだった。


「ネーヴェさんの言うように、傷だらけになってから、ザカリーニへ帰ります……」


 とどのつまり、フィオリーナから一晩だけの男女の関係を迫ったのだ。

 どういう傷付き方をするにせよ、これを口にしたフィオリーナはネーヴェとの約束を破った。

 もうフィオリーナにはネーヴェを嫌うことができなかった。

 だからネーヴェのほうからフィオリーナを嫌ってもらうことしか、方法を思いつかなかったのだ。

 ネーヴェに嫌われれば、フィオリーナはきっと彼の望み通りザカリーニへと帰ることができる。


(言ってしまった)


 すっかり口にしてしまって、フィオリーナには足下から這い上がるような後悔が押し寄せてくる。

 疲れを吐くような溜息が聞こえた。


「……こういうことになるから、教えるなって言ったんだ」


 ネーヴェはこれまで、こういう風に女性に部屋へ押し掛けられることなどしょっちゅうだったのだろう。


(嫌われた)


 ここで泣いてしまうのはいかにもずるいので、なんとか涙は目元で留めた。

 それでもうつむいてしまうのは止められなかった。


「……フィオリーナ」


 かすれた声が降ってきた。

 フィオリーナは身を堅くする。

 追い返されないということは、ネーヴェはフィオリーナを女性と認めたということだろうか。


(きっと軽蔑された)


 フィオリーナは戦場でネーヴェと共生していた女性でもなく、エルミスのように家族同然の仲間でもない。

 ただ同居していただけの、貴族の娘だ。

 傷つけてはならないフィオリーナを女性として見るのなら、ネーヴェはもう生きた契約書すらいらないということだ。

 フィオリーナをただの慰みものとして扱うのか。それとも、表面上でも貴族の娘を気遣って優しくベッドへ招くのか。

 ──いずれにしても、ネーヴェの顔を見るのは今日で最後になる。

 覚悟を決めて顔を上げると、傷ついたような菫色の瞳がフィオリーナを見下ろしていた。

 そしてそれはきっと、フィオリーナも同じだった。


「……こんなことをしなくても、あなたが望むなら明日にでもザカリーニへ帰します」


 フィオリーナが傷ついたように、ネーヴェを傷つけた。

 その事実がじわじわとフィオリーナを埋めていく。苦しくなって、何か言わずにはいられなくなった。


「……生きた契約書のわたくしがもう不要なら、そう言ってください……」


 こんなことを言うつもりはなかった。

 口をついて出た言葉はもう戻らない。ネーヴェの顔が見る見るうちにしかめられていく。


「誰がそんなことを……っ」


 ネーヴェがフィオリーナに声を荒げることなど初めてだった。それが怖いと思うのに、フィオリーナも後には引けなかった。


「……誰も言いません。……ですが、それが事実でしょう?」


 フィオリーナはザカリーニの娘という契約書だ。それはネーヴェも承知のはずだった。


「……馬鹿なことを……」


 ネーヴェは額にかかる髪を手でぐしゃりとむしるようにかき上げる。狼のような目が苦痛に耐えるように歪められていた。

 嫌われた。軽蔑された。

 そう思うだけで泣きそうになる。 

 ネーヴェは肺から空気を追い出すようにして長い溜息をついた。


「……フィオリーナ」


 名前を呼ばれることがあと何度あるだろう。顔を上げると、観念したようにネーヴェが苦笑していた。


「……私は、あなたがザカリーニに帰りたいんだとばかり思っていたんです」


「え……?」


 意味を飲み込めずに聞き返して、フィオリーナは止まりかけていた思考をもうすこし懸命に動かす。

 ネーヴェは、フィオリーナがザカリーニに帰りたいと望んでいると思っていた。

 フィオリーナは、ザカリーニに帰らなければならないと思っていた。

 非常に似ているようで、根本がまるで違う。


「……わたくしは、ここに居ても良いのですか?」


 半ば呆然と訊ねると、ネーヴェはためらいながらもうなずいた。


「……王都に行くにしても、まだオルミに滞在していたほうが便利でしょう」


 ザカリーニへ戻ってから王都に行くとなると、その旅程だけで日数がかかる。

 でもそういう話ではないのだ。

 ネーヴェは苦笑いを浮かべて、あきらめたように口を開く。その頬がすこしだけ赤い気がするのは、気のせいではないだろう。


「……私は」


 ネーヴェは吐き出すようにして言葉を切って、フィオリーナを見つめた。


「──あなたが居たいと思うあいだは、ずっとここに居てほしいですよ」


 本当は、ネーヴェもこんなことを言うつもりなどなかったのかもしれない。

 ひねくれ者のネーヴェから聞き出せた言葉は、ひどく素直だった。

 素直過ぎて、フィオリーナは否が応でも先ほどの自分の思い詰めた言動を思い出してしまう。

 フィオリーナは自分から男女の関係を迫ったのだ。

 もうどうやって弁解しても、どうしようもなかった。

 顔が熱い。きっと全身が茹だったように真っ赤になっている。

 ここに居てほしいと言われて嬉しいというのに、恥ずかしさに襲われて喜びも霞んでしまう。

 何とか言い訳をしようと口を開いてみるが、結局何も出てこなかった。


「……これに懲りたら、もう自分を生きた契約書などと言うのはやめてくださいね」


 ネーヴェは腕を組んで戸口にもたれかかると、困ったように微笑んだ。


「たしかに私は、あなたに契約のようなものを持ちかけましたが、あなた自身が契約書などではけっして無いんですよ」


 落ち着いた声に、フィオリーナの波立った気持ちもすこし落ち着いてくる。


「も…申し訳ありません。その……わたくしはなんてことを……」


 今さら弁解しても仕方のないことだが、言わずにはいられなかった。

 ネーヴェも何か口にしていなければ落ち着かないように顔をしかめた。


「……混乱させてすみませんでした。そこまで思い詰めているとは思ってもみなくて……」


 お互いに弁解を言い合っているようだ。どちらからともなく苦笑が浮かぶ。


「……あなたを傷つけるのは、もう懲りたはずなのに」


 ネーヴェはそう言って溜息をついた。あの夜のことをネーヴェは、自分がフィオリーナを傷つけたと思っているのだろうか。


「……わたくしは、ネーヴェさんに傷つけられたのではありません」


 フィオリーナが傷ついたのだとすれば、残酷な事実に耐えられなくてネーヴェに半ば八つ当たりしたときだ。フィオリーナは自分から傷つきにいったようなものだった。


「……それでも、傷つけるつもりはありませんでした」


 いつの間にか伏せていた視線を上げると、菫色の瞳が静かにフィオリーナを見つめていた。


「本当に、私はあなたを傷つけてばかりですが……私はこれ以上あなたを傷つけたくないんです」


 ですから、と柔らかな声が穏やかに言う。


「これから先、大切な人ができるまで、あなた自身を大事にしてください」


 それではまるでフィオリーナの大切な人はネーヴェ以外であるような口振りだった。

 フィオリーナを大切だというその口で、フィオリーナには大切な人を見つけろと言う。

 フィオリーナに恋の仕方などわからない。

 大人の恋が男女の関係から始まるということもあるとは話に聞いているぐらいで、耳年増もいいところだった。

 もしもネーヴェとそんな関係になってしまったら、他の関係を知らないフィオリーナはきっと引き返せない。欲望の泥沼に引き込まれれば、そのまま沈んでしまうだろう。

 ──やはりエルミスのようにはなれないのだ。

 醜い嫉妬とも悲観ともとれるような気持ちが降ってきて、フィオリーナは自嘲する。

 家のことや家族のこと、自分の将来についてばかりフィオリーナは考えている。

 フィオリーナにはエルミスのように自分の心ひとつでネーヴェにぶつかるような勇気はなかった。

 結局、フィオリーナはどこまでいっても貴族の娘なのだ。


「……ネーヴェさん」


 菫色の瞳を見上げると、ネーヴェは腕を組んだままこちらに視線を落とした。


「……王都へ行くまで、よろしくお願いいたします」


 ネーヴェがフィオリーナを大切にしてくれるのなら、せめてフィオリーナも彼の意見を大切にしたかった。フィオリーナもネーヴェを大切にしたいのは変わらない。

 ネーヴェはゆっくりとうなずいて、


「こちらこそ」


 短く言って今度こそ微笑んだ。




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