ビスケットが言うには
その日、フィオリーナは久しぶりに食堂で夕食をとることになった。
食べやすいものを用意すると言われた夕食は、野菜や肉を細かく刻んで煮たスープだった。赤い野菜は、あの酸っぱい果実だろう。
思ったとおり、酸味のあるさわやかなスープだったがホーネットの調理のおかげか果実はほんのりと甘くなっていた。
食後には季節はずれのアイスクリームが用意された。体を冷やし過ぎないようにとビスケットまでついている。紅茶といっしょに食べると、甘みがやさしく溶けていった。
対面ではネーヴェは白ワインを飲みながら、ビスケットをかじっている。
こうしてふたりで食卓を囲むのはずいぶんと久しぶりだ。アレナスフィル領ではフィオリーナはほとんどベッドで過ごしていたし、あの城での晩餐は前菜からデザートまで続くフルコースなのでゆっくり話す場所ではない。
フィオリーナがこのオルミに来てからずっと、こうして食事をしていたはずなのにそれがひどく懐かしい。
「──ふたりでの食事は久しぶりですね」
同じことを考えていたのか、ネーヴェが苦笑する。そんな風に笑う顔も、久しぶりに見たような気がした。
最近浮かぶのは、痛みに耐えるような悲しげな顔ばかりだった。
「……アレナスフィルで、ずっと付き添ってくださったのはネーヴェさんだったのですね」
ほとんど意識もなかったが、ネーヴェの煙草の匂いがずっとしていたように思う。
「……起きていたんですか」
ネーヴェは困ったように笑って眉を下げた。その顔がやさしくて、フィオリーナも頬をゆるめる。
「ほとんど眠っていました。……でも、わたくしを勝手に抱き上げるのはネーヴェさんだけなので」
「人聞きの悪いことを言わないでください。──睨むな、カリニ。誤解だ」
食堂の隅で給仕のためにそばに控えていたカリニにネーヴェは弁解して、苦笑する。
「フィオリーナも誤解を招くようなことを言わないようにしてください。あなたの世話のほとんどはアクアがしていましたよ。私はそばにいただけです」
ネーヴェの調子は以前のように自然だ。
その様子に、今なら話せるのではないかとフィオリーナは切り出すことにした。
「あの……わたくしは、いつまでここに置いていただけるのですか?」
アイスクリームは食べ終わった。
紅茶の入ったカップをお守りのように指をそえたまま、フィオリーナがネーヴェを見つめると、彼は菫色の瞳を細めた。
「……いつまで、とは?」
少しだけ冷めた声は以前のようには軽くなかった。やはり変わってしまったのだ。
フィオリーナの立場も、ここの居る意味も。
それでもいつまでも尋ねないわけにはいかない。
「……わたくしの問題やネーヴェさんの目的はほとんど達成されました。ですから…」
いつまで、と期限を切れるものなのだろうか。
フィオリーナひとりのわがままで変えられるものなのだろうか。
「……あなたはどうしたいですか? フィオリーナ」
ネーヴェは白いワインに視線を落として、そういつものように口にした。彼はいつもそうだ。フィオリーナの意見をかならず聞こうとする。
「……テスタ卿は私にあなたを守るよう言いましたが、離れていてもあなたを守るすべはあります」
ですから、とネーヴェはフィオリーナと視線を合わせないで続ける。
「……いつでも、あなたをザカリーニ領へ送り届けることはできますよ」
今すぐ帰れと言わないところがネーヴェらしい。
彼はきっとフィオリーナが本当に邪魔になっても、突き放すようなことは言わないのだろう。エルミスが怒って自分で出て行ってしまうまで、放り出さなかったように。
(ずるい人)
出て行けというのなら、そう口にしてほしかった。
フィオリーナは自分が弱いと痛いほど知っている。いつでも意志を強く持てるわけではないのだ。
「──滞在については、いつまで居てもらってもかまいません。……あなたの答えが出るまで」
そう言ってネーヴェはワインを飲み干すと、席を立つ。
仕事に戻るのだろう。一週間もフィオリーナのためにオルミ領を空けていたのだ。不在のあいだマーレが屋敷を預かっていたとはいえ、領主の決済が必要な書類は溜まっているはずだ。
食堂からネーヴェの気配がなくなるまで、フィオリーナは紅茶の水面を見つめていた。
ホーネットが言っていたように体力がもっと回復してから、ザカリーニ領へ帰ることが一番いい選択だろう。
ネーヴェと親密であるように見せることも、彼の親族に関係することも、もうフィオリーナの手から離れている。
あとは悪女と呼ばれたフィオリーナが残るだけで、王家主催の舞踏会へ参加すればその噂も風化していくだけだろう。それほど舞踏会への参加は社交界の復帰に大きな意味を持っている。
(終わったんだわ)
帰らなくてはならない。
(いったいどこへ?)
ネーヴェはフィオリーナをオルミ領へ連れ帰ってきた。眠ったままのフィオリーナをザカリーニに送るだけなら、簡単ではないだろうが手間も少なかったはずだ。彼が必ず付き添う必要はないのだから。
(こんな風に放っておかれるぐらいなら、いっそ嫌われたほうが良かった)
どうしようもないほどネーヴェに嫌われて泣いて帰ったほうが、このどうしようもない気持ちも落ち着くのではないか。
ほとんど思いつきだった。
フィオリーナは席を立つ。
そして、食堂でフィオリーナの様子を見守っていたカリニに詰め寄った。
「……ネーヴェさんの部屋を教えてください」




