毛布が言うには
温かい手にキルトを掛けられたのを感じて、目を開けると見覚えのあるふくよかな顔が微笑んだ。
「……ホーネット?」
「はい。おかえりなさいませ、お嬢様」
起きあがることはできなかったが、声は出るようになっていた。
まさかザカリーニ領にホーネットまでついてきたということはないだろう。
「……ここは、オルミなの?」
フィオリーナにホーネットは「はい」とうなずく。
「先ほどアレナスフィル領から旦那様とお帰りになったのですよ」
着替えはすませましたから、とホーネットはキルトの端をフィオリーナにかぶせて手を置く。
「ご実家に帰られたいだろうと旦那様は仰っていらっしゃいましたが……それはもうすこしお元気になられてからのほうが良いと思いますよ」
柔らかいホーネットの声が撫でてくれるたびに母を思い出すというのに、ここがオルミだということを実感してフィオリーナはほっと息をついた。薄情な娘だ。でも、今ここがオルミではなければまた泣いてしまったかもしれない。
「……ありがとう、ホーネット」
かすれた声で言うと「ゆっくりおやすみなさいませ」と声が聞こえてそれきりまた眠った。
▽
オルミに戻ってから、フィオリーナの体調はゆっくりと回復した。
声の調子も体力も戻り、ようやくひとりで起きられるようになった頃には強い日差しを残していた夏の残り香すら消えていた。
涼しい初秋の空気は軽く、フィオリーナは久しぶりにひとりで庭へと出た。
もう昼に近い時間だから、家事や仕事に忙しいネーヴェたちは庭には出てこない。
すっかり弱った足で慎重に小径を歩く。日付をたしかめれば、あの舞踏会から一週間しか経っていなかった。もう一年ぐらいはベッドの上で過ごしているような気分だったのだ。
それほどまで、この静かな庭とあの恐ろしい夜は遠かった。
フィオリーナが解決しなければならないことのほとんどはあの夜に一応決着された。
悪い噂も悪意も、きっとこれからも消えないのだろう。けれど、フィオリーナ自身が出来ることはもうほとんどない。
(元からそれほど多くはないけれど)
ティエリ領との訴訟に問題が移った今、ザカリーニ家との生きた契約書という意味でも、もうフィオリーナがここに居る意味は薄い。
あとは、招待が決まったという王家主催の舞踏会に参加するぐらいだろうか。
これ以上、悪女として認知されるために夜会や園遊会に参加する必要もない。
秋になったというのに、屋敷の庭はあいかわらず季節感がなかった。春に咲くはずの花が咲き、夏の盛りに芽吹く葉が青々と繁り、冬の前にできるはずの種が落ちている。秋らしいといえば、色づき始めた落葉樹ぐらいだろうか。ザカリーニにあるのは常緑樹がほとんどなので、紅葉は珍しかった。
この多様な庭にいつか見た妖精たちが今も遊び回っているのだと思えば、少しだけ気分が晴れた。
「……フィオリーナ!」
焦ったような声に振り返ると、ここ数日姿すら見なかった人が血相を変えて駆けてくるところだった。
仕事中だったのだろうか。いつものようにワイシャツにベスト、スラックス姿だ。足早にやってくるその手には毛布がかけられている。
「ネーヴェさん」
葡萄色の髪が日差しを浴びている様子を見るのはずいぶんと久しぶりのような気がした。
ネーヴェはフィオリーナの前まで来ると、少しためらうように視線を合わせた。
「……もう起きても大丈夫なんですね」
もしかしたら、フィオリーナが大丈夫ではなかったら手にしている毛布にくるんで家の中へ持って帰るつもりだったのだろうか。
「大丈夫です。……ひとりで歩けます」
ネーヴェはフィオリーナを簡単に抱き上げ過ぎなのだ。女性の身であるとはいえひとりの大人を抱き上げるなんて、子供を抱き上げるとはわけが違うはずだ。
言いたくはなかったが、注意するつもりでフィオリーナは渋々口にすることにした。
「……その……重いでしょうから、わたくしをすぐに抱き上げようとしないでください」
本当に言いたくなかった。けれど、ネーヴェにはこれぐらいはっきりと言わなければ伝わらない。しかし意を決して見上げたというのに、ネーヴェは意味のわからないことを言われたという風に首を傾げている。
「あなたを重いと思ったことなどありませんが」
珍しく戸惑ったようにネーヴェは眉をひそめている。心底意味がわからないというその顔が演技なら、ネーヴェの演技力は役者並みだ。フィオリーナはつい口を尖らせてしまう。子供よりも体重が重いことぐらいは自覚がある。
「……お気を使っていただかなくて結構です」
「こんなことに嘘なんてつきません」
「わたくしは子供ではないのです。……無理をしていただくほうが心苦しいのです」
かたくななフィオリーナにネーヴェは考え込むようにしてこめかみに指をあてた。
「──今は、どこへ行こうとしていたんですか?」
質問を変えられて今度はフィオリーナのほうが戸惑ってしまう。庭へは散策にやってきただけだ。目的地はない。
「では……畑の様子を見に行こうと思います。果実はもう成っては…っ」
最後まで言い終える前に、フィオリーナの体が浮いた。
気付いたときには足から掬われるようにして抱え上げられている。まるで腕を止まり木にでもするように、腕一本で支えられている。フィオリーナは思わず硬い肩にすがった。
ひと息に近くなった菫色の瞳が眼鏡の奥からフィオリーナを見つめる。
「行きましょうか」
「降ろしてください……!」
フィオリーナの抗議など聞き入れるつもりはないのか、ネーヴェは庭を平気な顔で歩いていく。
すぐに屋敷裏の畑が見えてきた。フィオリーナが歩くよりも倍は速い。
「……降ろしてください」
もうすぐ畑にさしかかろうかというところで、ネーヴェはぴたりと止まる。その顔は憎たらしいほど平然としている。
「嫌です。このまま半日過ごすので」
本当にこの人はめちゃくちゃだ。
「……何が気に入らないのですか。ネーヴェさん」
フィオリーナはネーヴェを気遣ったはずだ。それなのに、ネーヴェは頑固にフィオリーナを降ろそうともしない。
「あなたを重いと思ったことなど本当に無いんですよ。アレナスフィル領でもずっとこうしていました」
時々フィオリーナの体がひとりでに浮いていたのはネーヴェの仕業だったようだ。ほとんど意識のないときのことなので、恥ずかしさを感じる暇もない。
「……もう自分で歩けますので、降ろしてください」
「半日抱えて証明しなくてもいいんですか?」
「証明なんてしないでください…!」
自分の体重の証明などしたくもない。
フィオリーナの機嫌がいよいよ悪くなってきたと察したのか、ネーヴェはようやく降ろしてくれた。
「危ないと思ったらすぐに抱えますから、ご心配なく」
これはつまずくことも許されないと、フィオリーナはより慎重に歩くことにした。
久しぶりに踏み入れた畑はきれいに手入れがされていた。
これから採れるという根菜の葉は地面を這うように繁っていて、すっかり収穫を終えた赤い実の苗には果実が放置されていた。
「種を採ろうと思って、果実を残しているんです」
ネーヴェの説明で、そうだったと気付く。植物が実をつけるのは種を残すためだ。種を育てるためにしぼんだ果実は水気を失って、腐りかけているようにも見えた。
「こちらはいつ採れるのですか?」
まだ葉が繁る根菜類をフィオリーナが指すと、ネーヴェはそちらへと誘導する。
「芋の収穫はもうすこし先ですね。芋掘りの経験は?」
「ありません。芋が成っているところも見たことがないので…」
楽しみです、と言い掛けてフィオリーナは言葉を止めた。フィオリーナはいつまでここに居られるのだろうか。
フィオリーナの言葉を気にしていないのか、ネーヴェは「そうですか」と続ける。
「芋類は食べ過ぎると太るそうですが、もういくらか太っても私は平気ですよ。フィオリーナ」
抱えるネーヴェが平気でも、太ったフィオリーナは耐えられない。
「……わたくしが樽のように太れば、さすがに抱えられないでしょう?」
「ワイン樽ぐらいならいくらでも抱えますが」
何の気負いもなくまっすぐにこちらを見つめる菫色の瞳は、嘘をついているようには見えなかった。
フィオリーナはこの奇妙な説得をあきらめることにした。ネーヴェはどんな手段を使っても抱えようとするのだろう。それが悲しいのか嬉しいのかはわからなかったが。




