声が言うには
幾度も目を覚まして、フィオリーナは重たいまぶたを開けたような気がする。
けれどアクアの優しい手に介助されて水を口にしても、それはすぐ涙となって消えてしまった。
頭痛がするほど涙が出てすでに枯れたと思うのに、壊れてしまったように涙が止まらなかった。
そのたびに、煙草の匂いをまとった人の手がやってきてフィオリーナのまぶたを大きな手で覆うのだ。
「おやすみ、フィオリーナ」
そう繰り返し、優しい声が落とされるたびにフィオリーナはいつのまにか眠りについていた。
悲しいことがあふれすぎたのだ。
眠れることがありがたかった。
けれど、目を覚ましていつも大きな手の持ち主がいないことがどこか物悲しかった。
▽
夢うつつに声が聞こえることがある。
「フィオリーナ嬢の様子は?」
「まだ満足に起きられない。食事もとれないからアクアが医者を呼ぶように言っている」
「医者を寄越すわ。……あなた、少しは寝たの?」
「仮眠はとってる」
「……フィオリーナ嬢のそばにいていいから、少しは寝なさいよ」
いいわね、とベロニカの声が遠ざかる。
澱を吐き出すように長く息をついた長身が遠い戸口でわだかまるようにして、こうべを垂れた。きっと煙草に火をつけたのだ。
部屋の中は清浄な空気で保たれているが、独特の薬草のかおりがする。食事もろくに取らず煙草ばかりを吸っているのかもしれない。
それではいけない、と半ば反射的に思って、喉を無理矢理起こす。
けれど、吐息だけが漏れて声にはならなかった。
それでも、どういうわけか戸口にいたはずの人がゆっくりと慎重な足取りで近づいてきた。
まるで足音すらフィオリーナを傷つけるとでも思っているように静かに近づいて、手を差し出すと大きな手がためらいがちに包む。
ちゃんと休んでほしい。そう言えたかどうかフィオリーナ自身にもわからなかった。
「……自分の心配をしてください。フィオリーナ」
言葉が通じたのか、やわらかな声が降ってくる。
こうして優しく守られなければならないほど弱い自分がひどくうとましく思えた。
弱くてごめんなさい。
そう言うと、大きな手は苦笑する。
「弱くて何が悪いんですか?」
優しい声がさみしくて、今にもここから消えてしまいそうだ。
弱くては、あなたを守れない。
フィオリーナは守られてばかりでは嫌なのだ。この人のさみしい心を守れるだけの、強さが欲しかった。
「……もう守られていますよ」
少し冷たい手が互いの温度をわけあって温かく和らぐ。
その心地よい気持ちが少しでも伝わればいいと思った。
「……あなたを守れなくて、すみませんでした」
泣き出しそうな声を聞きながら、フィオリーナは温かい眠りに落ちていく。
泣いて欲しくない。
けれど、今は眠ってしまうしかできなかった。
起きてしまえば、きっと悲しいことが待っているようにしか思えなかった。
▽
「様子は?」
仕事の合間を縫ってやってきたベロニカにラーゴは首を横に振る。
アレナスフィル候の居城へと夜半に帰ってきたネーヴェたちはひどい有様だった。行きはこれ以上ないほど楽しげだったというのに、帰りは葬式帰りのように静かだった。
ネーヴェは泣き疲れたフィオリーナを抱えたまま黙り込んで、終始無言で彼女を客間のベッドに寝かせたのだ。
それから三日、フィオリーナは起きては泣いてを繰り返して一向に容態は改善しない。
フィオリーナに怪我はない。ネーヴェがついていながら怪我をさせることなどありえない。けれど、知らされた事実の衝撃があまりにも激しくてフィオリーナは受け止めきれなかった。
ベロニカは今日も完璧なスーツドレス姿だが、いくらか疲れたように溜息をついた。
「フィオリーナ嬢は医者に診せたけれど……ネーヴェはどう?」
「ほとんどああしていますよ」
半開きだったドアを少し開いてみせる。今はアクアがフィオリーナのベッドのシーツを替えている。そのあいだ、ネーヴェはフィオリーナを抱えたまま窓際の椅子で動かないのだ。
それはまるでネーヴェのほうが物言わぬ人形になったようだった。感情が漂白されたような顔でぼんやりと外を見ている。
「……あんなに傷つくぐらいなら、嘘なんかつかなければいいのに」
ベロニカの悪態も今日は冴えない。ラーゴも仮面舞踏会の当日に何があったのかは聞いている。ネーヴェがとったであろう言動も手に取るようにわかる。
ネーヴェがフィオリーナを囮にしようなどと考えるはずもない。ただ彼女の希望を叶えようと不器用にふるまった結果だ。
ネーヴェのついた嘘は、すべてネーヴェの計画だったことにしたこと。
ただ楽しんでいただけのフィオリーナが自分のせいで最悪の事実を招いたと思わせないためだ。
今回の事態はいくつか予想したことの中でも、最悪の想定だった。
事態を想定してベロニカと話し合ったネーヴェが、証拠を揃えるために容赦などしなかっただろう。その結果が、どれほどフィオリーナを傷つけることになったとしても。
ラーゴたちはネーヴェの分身であり、一番近い存在だ。同じ人格から分かたれた身であるから、もしかしたらネーヴェ自身よりも彼の気持ちを理解しているのかもしれない。
フィオリーナに触れているすべてから痛みだけが全身に回るようだというのに、手にしたぬくもりを決して手放せないのだ。
「主はこのままフィオリーナ様をオルミ領へ連れ帰るつもりです」
ベロニカはあきらかに眉をひそめた。
「正気なの? ……こういっては酷なようだけど、今はザカリーニ領に返してあげていいと思うわよ」
ラーゴはベロニカの提案に首を横に振る。
「フィオリーナ様の兄であるテスタ卿に頼まれていることもありますが……どんなに恨まれようと手放せないのだと思います」
たとえフィオリーナをどんなに不幸にしたとしても、ネーヴェは彼女を連れ帰るつもりだ。憎まれようと恨まれようと──もしかするとフィオリーナに殺されようと、その手を離さないのだろう。
その執着を手放すことが、フィオリーナを幸せにするとわかっていても、今はまだ手放せないのだ。
「……我らが主ながら、不器用な人です」
ラーゴを造ったときも、まるで償いでもするようにネーヴェは様々なことを教えてきた。戦闘、魔術、立ち振る舞いにマナーまで。ネーヴェには著しく足りていない人あしらいはラーゴが勝手に覚えたものだが。
ラーゴが何かをできるようになるたびに、その日のネーヴェは始終機嫌が良かったことをおぼえている。
アクアに呼ばれたのだろう。ネーヴェがフィオリーナを抱えたままゆっくりと椅子から立ち上がる。
腕の中の壊れ物を壊さないように慎重に運ぶその足取りは、ひどく重かった。
▽
あまり力の入らない体にアクアによってドレスを着せられたことはわかった。
「帰りますよ、フィオリーナ」
フィオリーナを毛布でくるんだ人は、すっかり慣れたようにフィオリーナを抱き上げる。
ずいぶんと長いあいだアレナスフィルに滞在していたように思えた。
ようやく帰るのだとフィオリーナは息をつく。
──きっとザカリーニに帰されるのだ。
こんな状態のフィオリーナをオルミ領に置いていても、もう何の役にも立てない。
王都の舞踏会への招待はもう決まっているのだ。フィオリーナの役目は終わったも同然だった。
それなのに、眠りに落ちていくフィオリーナのまぶたに映るのはオルミ領のふしぎな庭だった。
かろうじて目を覚ましたフィオリーナは、またしても腕の中に抱えられていた。
今日も完璧な昼用ドレスのベロニカとコルネリアが心配そうに覗きこんでいる。
申し訳ありません。
ちゃんと声として言えただろうか。話すことをもうずいぶんとあきらめてしまったように思う。
「また遊びにいらっしゃい。歓迎するわ」
ベロニカが苦笑するように言い、コルネリアもうなずいた。
「またお会いしましょうね。フィオリーナ様」
これから先、ベロニカたちと会うことができるのは、おそらく王都の舞踏会ぐらいだろう。きっとザカリーニ家から参加することになる。遠目から挨拶するぐらいはできるだろうか。
フィオリーナがかすかにうなずくと、ベロニカとコルネリアは口元をほころばせた。
「──じゃあ、あなたも気をつけて」
ベロニカが視線を上げて、気遣わしげに眉をひそめた。
「子供じゃないんだ。仕事に戻るよ」
いつもと変わらないというのに、どこか疲れたような声が聞こえる。ベロニカはますます眉間にしわを寄せた。
「そうじゃなくて……まったく、本当に子供みたいなんだから」
あきれたように肩をすくめるベロニカのとなりで、コルネリアも心配そうに顔を曇らせている。
「あなたのことも心配よ。フィオリーナ様とちゃんとお話になってね」
「……わかっています」
そう短く答えたかと思えば、ベロニカとコルネリアが遠ざかる。手を振る彼らを見つめていると、いつのまにかフィオリーナは馬車の中に乗り込んでいた。
そうしてようやく、自分を抱えているのがネーヴェだったと気付いた。
菫色の瞳が近い。普段ならば萎縮してしまうような距離だというのに、フィオリーナはぼんやりと見返しただけだった。
「……寒くありませんか?」
毛布のあわせを長い指が整える。小さくうなずくと、ネーヴェはぎこちなく微笑んだ。
きっとこのままザカリーニ領に帰るのだ。
オルミ領ほどではないが、アレナスフィル領もザカリーニ領とは遠く離れている。
まともに動くこともできないフィオリーナを連れたままでは何日かかるかわからないというのに、ネーヴェはそれに付き合うつもりなのだろうか。
それも、フィオリーナを抱きかかえたまま。
せめて座席に寝かせてほしい。そう伝えたはずだが、これだけは聞き入れてくれなかった。
「あなたの椅子から役割を取り上げるつもりですか」
恨みがましく言われることでは無い気がする。それに、菫色の双眸をうっすらと隈が縁取っている。ネーヴェは疲れているはずだ。
ではせめて、あなたも眠ってほしい。
そう小さく言ってフィオリーナがおとなしく体を預けると、ネーヴェはようやく体の力を抜いたようだった。
「……人の心配ばかりしないでください」
長い腕がフィオリーナを支えて、さらさらと葡萄色の髪が頬にかかる。
まるでフィオリーナに頭を預けるようにして、小さな溜息が聞こえた。
「どうか……私に優しくしないで」
痛みに耐えるような声は眠りの中に溶けるようにして消えていった。




