涙が言うには
王城からやってきたという騎士たちは、所属を第一王子の近衛だと名乗った。
体格の良い騎士がネーヴェたちに一礼すると、イズベラとシリウスは彼らが引き取るという。
「今回の件は、第一王子殿下も憂慮されております。第三王女殿下の独断で騒ぎが拡大してしまったことを改めてお詫びされるそうです」
そう伝えてくる騎士のうしろで倒れたシリウスが引き起こされるが、意識は戻らなかったらしく二人の騎士に抱えられてそのまま運ばれていった。
「そちらのフィオリーナ嬢への舞踏会招待はすでに決まっているとのことです」
ご安心ください、と騎士は言うが、それは招待というよりただの口止めとしか受け取れなかった。
「では、改めてアタシからも殿下にご報告とご相談申し上げるわ」
ベロニカがそう言って笑うと、騎士は一瞥してうなずく。王子殿下に伝えるということだろう。
「くれぐれも、よろしくお伝えください」
ネーヴェがそう念を押すと騎士はネーヴェを睨んだ。
「……貴殿はやりすぎなのだ」
控えられよ、と苦言して騎士は今度こそ踵を返す。ネーヴェのかたわらで様子を見ていたフィオリーナと視線が合うと黙礼した。それはどこか気の毒そうな様子だった。
騎士たちが去っていった狭い部屋はひどい有様だった。石造りの床には剣で穴が空き、整えられていた家具類はぐちゃぐちゃになっている。
そんなソファの背もたれにネーヴェは腰を下ろすと、テールコートの内ポケットから見慣れたシガレットケースを取り出した。
「……まったく、本当に肝が冷えたわよ」
ベロニカは溜息をつくように言って、フィオリーナに向き直った。
「アタシも一服つきたい気分だわ。吸ってもいいかしら?」
彼の城の中なのだ。フィオリーナに遠慮する必要はない。うなずくと、ベロニカはネーヴェに煙草を寄越せと手を突き出した。
「仕方ないな」
そう言いながらネーヴェは手のひらで球体を作り出すと、それは一瞬のうちに広がって部屋を包んだ。
フィオリーナが部屋を見回していると、ネーヴェが煙草に火をつけながら答えた。
「盗聴防止用の魔術ですよ」
火をつけ終えると、今度はベロニカにシガレットケースとマッチを投げる。
難なくケースとマッチを受け取ったベロニカは、煙草を取り出しくわえると慣れた手つきで火をつけた。
「あなたが近衛を殺しかけたのは知っていたけれど、全員だったとは知らなかったわよ」
「勲章を王都の本家に預けに行くところを襲われたんだ。正当防衛だよ」
ネーヴェの防衛は攻撃だ。過剰防衛になっているのは想像に難くなかった。ベロニカはそれをフィオリーナ以上に理解してるからか、大きく溜息をついて煙を吐いた。
「……あなたが王女の近衛を全員病院送りにしたから、後任がすべて入れ替わったのね」
前任がいない状態でシリウスたち後任が決まったのなら、よほど訓戒を重んじる良心的な引き継ぎが行われない限り、ネーヴェとの惨事は語られなかっただろう。シリウスの不幸は、ネーヴェのことを知らなかったことだ。
──そしてきっと、その惨事がネーヴェが考えるすべての始まりなのだ。
「……ネーヴェさん」
フィオリーナが呼びかけると、菫色の瞳がこちらを見据えて静かに待った。
「……わたくしを助けてくださったのは、あなたと近衛の諍いでシリウス様が近衛騎士になったからですか?」
もしもネーヴェが近衛騎士全員を殺しかけていなければ、シリウスは少なくとも第三王女の近衛騎士にはならなかったかもしれない。
もしもの話だ。けれどそのもしもがなければ、少なくともフィオリーナはシリウスに裏切られることはなかったかもしれない。
すべては憶測と偶然でしかないことで、運命は奇跡のようなものだ。それがどんなに最悪なことでも。
ネーヴェはフィオリーナをじっと見つめると、やがて溜息のように煙を吐いた。
「……少なくとも、私が第三王女の近衛騎士をすべて殺しかけていなければ、あなたはここにいなかったでしょう」
震える腕を押さえるようにして、フィオリーナはドレスのスカートをつかんだ。
「では……ネーヴェさんは最初から分かっていらしたのですね。──噂を流したのが、シリウス様だと」
最初から分かっていなければ、ここまで的確に対処はできなかっただろう。ネーヴェにとってほとんどのことは自分のしでかしたことへの後始末であって、フィオリーナを助けるのはそのついでだったのだ。
「……今夜、わたくしと踊ってくださったのは、王女殿下にわたくしたちを見つけやすくするためだったのですね」
社交が好きではないネーヴェがダンスを踊ってくれるなど思ってもみなかったことだ。
細く吹き出すようにして煙を吐いて、ネーヴェは「ええ」と答えた。
「大広間に出れば、あなたが嫌でも目立ったでしょうから」
イズベラがいるとわかっていたからこそ、ネーヴェはフィオリーナを恋人のようにエスコートしたのだ。
そうやって見せつければ、あのイズベラなら必ず声をかけてくるとわかっていたから。
舞踏会でネーヴェとダンスを踊れることにすっかり舞い上がっていた自分が、ひどくちっぽけに見えてくる。
どういう理由であれ、フィオリーナはダンスを踊れたことが嬉しかったというのに、楽しかった真新しい記憶がひどく色褪せて見えた。
いつの間にか下がっていた視線を上げる。菫色の瞳と視線が交差する。静かに見つめる瞳を細めて、ネーヴェはためらうように口を開いた。
「──私がいなければ、きっとあなたは悪女と呼ばれることもなく、幸せになっていたはずです」
それはどうだろうか。
あのシリウスと結婚する未来を迎えていれば、フィオリーナはただシリウスのための動く人形として所有されて一生を終えていた。
それとも、自分が人形だと気付かないふりをしていれば幸せだっただろうか。
(いいえ)
いつか気付いたはずだ。フィオリーナはシリウスの言うとおり、彼の理想の人形ではなかった。
それでも、ネーヴェを許してはいけない気がした。
この人は冷酷で、めちゃくちゃで、──優しい人なのだ。
「……あなたには私を恨む権利があるんですよ。フィオリーナ」
優しい声がただ温かいというのに、恨んでもいいというネーヴェが憎かった。
いっそ憎んでくれるなと言われたほうが、素直にそうしたかもしれないというのに、ネーヴェはそうはしないとも分かっている。
いい加減で、言動はめちゃくちゃなのに、責任感だけは人一倍ある人だ。
フィオリーナの人生まで背負わなくてもいいというのに、それを彼は良しとしない。
ネーヴェのすぐ前までフィオリーナが進み出ると、彼はひとつも逃げなかった。
物騒なこの人のことだ。きっと殺されたって逃げないに違いない。
何もかも吐き出しそうになる衝動のまま、フィオリーナは腕を振り上げていた。
ぺちん、と白皙の頬に手のひらが当たる。先ほどネーヴェがシリウスに拳を当てたような鈍い音などしない。
痛みなどないに等しいにも関わらず、菫色の瞳が痛みに耐えるように鈍く、細くなる。
フィオリーナは人に暴力をふるったことなどない。きっとこれからも無かっただろう。それなのに、まったくこの人はひどい人なのだ。
ひどい人だとわかっているのに、決して嫌いになれない。
もうネーヴェを嫌いになる方法がわからなかった。
「……すみませんでした。フィオリーナ」
柔らかい声が本当に優しくて憎たらしい。
彼の頬から離した手をどうしたらいいのかすらわからなくなって、フィオリーナは顔を歪めた。滑り落ちる手を大きな手が捕らえる。壊れ物でも扱うようなその手は、暴力に慣れているとは思えないほどしなやかで優しい。
わき出した涙はどこにも行けずにただ流れて落ちていく。
「…ネーヴェさんのバカ…っ」
バカという暴言だって初めて口にした。この言葉が愚か者という意味だとは知っている。だから、口にした言葉がそのままフィオリーナに返ってくる。
愚かだったのはフィオリーナのほうだ。
フィオリーナがもう少し強ければ、ネーヴェにこんな真似をさせなくて済んだ。
すがる場所などどこにもなくて、目の前の硬い胸元に額をつけると、大きな手がためらうようにしてフィオリーナの頭を引き寄せて髪を撫でた。
「……すまない。フィオリーナ」
もう一度優しい声がフィオリーナの額に落とされる。
それきり、熱に浮かされるように泣いたあと、何もわからなくなってフィオリーナの意識は消えた。




