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茶番劇が言うには

対決回その3(この回で終わり)

 ドレスのスカートをつまんで、腰を落とす。慣れたカーテシーがこんなに重かったことなどあるだろうか。


「……そんな、おまえは……フィオリーナ?」


 顔を上げると、シリウスが愕然とした様子でフィオリーナを見つめている。


「……名前を呼び捨てにすることはやめていただけませんか。婚約は解消されたのですから」


 フィオリーナがそう見つめ返すと、シリウスは隠そうともしないで鼻白む。


「そうか…! おまえがこの男に入れ知恵したということか!」


 彼はまだ怒鳴りつければフィオリーナが怯えて許しを請うと思っている。そういう人だった。


「……都合が悪くなると怒鳴る癖は相変わらずですね。シリウス様」


 フィオリーナの指摘に、シリウスははっとしたように険を無理矢理かみ殺すようにしておさめた。ここがどこで、誰が見ているのかようやく思い出したようだった。


「……こんなことをして……今さら私の邪魔をして何になる? おまえの醜聞はもう一生消えないんだぞ」


 シリウスは努めて穏やかに見えるように、諭すような口調で苦々しく言う。

 ──本当にフィオリーナは愚かだったのだ。

 こういう人だと分かっていたのに、家族のために、家のためにとずっと誰かのせいにしてきた。その結果が、フィオリーナの醜聞にも繋がってしまったのだろう。


「……破談となって良かったことがあるとすれば、あなたと結婚しなくて済んだことです」


 フィオリーナが微笑むように口の端を上げると、シリウスはまるで獣が歯を剥くような顔になった。   

 その顔を眺めながら、フィオリーナはすがすがしいほどの安堵をおぼえた。

 シリウスと結婚することにならなくて、本当に良かった。

 シリウスとあのまま結婚することになっていれば、いつか夢想したように、フィオリーナの人生は知らないうちに擦り切れて霞のように消えてしまっていただろう。


「……やはりおまえは悪女だ」


 うめくような声に、フィオリーナは「はい」とうなずく。


「あなたの所有物でいるより、悪女でいるほうがずっと良いと気付いたのです」


 ですから、とフィオリーナは微笑む。


「……さようなら、シリウス様。二度と会うことがないことを心から祈っております」


 フィオリーナが丁寧に頭を下げると、うなるような声が大きくなった。


「おまえのような女など……男の出世に差し障るような女などこちらから願い下げだ! せいぜい媚びしか売れないことを悔やんで、老いていくがいい!」


 もうどんなに怒鳴られても怯える気にはなれなかった。申し訳ありませんと謝り続けることはもうしない。

 フィオリーナが目を伏せたままじっとしていると、「こちらを見ないか!」と大きな手がつかみかかろうとするような気配がする。

 たとえつかみかかられても顔を上げる気はない。

 衝撃に耐えようと身を硬くしていると、目の前を黒い影が遮った。


「──私をお忘れですか、フィオリーナ」


 場違いなほど穏やかな声に思わず顔を上げると、シリウスの腕がつかみ上げられていた。


「この…放せ!」


 シリウスが暴れるのに任せて彼を放り出すと、影法師のようなその人はあきれたように笑った。


「王女殿下。あなたの犬はどうしてこうも躾が行き届いていないのですか」


 ネーヴェにそう言われて、イズベラは目に見えて怯えた顔をした。


「一度お教えしたはずですよ。犬の躾は丁寧に、と」


 いっそ優しいほど静かな声に、イズベラの顔はますます青ざめていく。


「殿下! やはり抜刀許可を!」


 シリウスが叫ぶと、それすら煩わしそうにイズベラは金切り声を上げる。


「うるさいわね! あなたの元婚約者なんてわたしにはどうでもいいのに! 勝手にすればいいわ!」


 それを了承と取ったのか、シリウスは今度こそ抜刀した。白刃が鬱屈を切り裂くように引き抜かれて狭い部屋で不気味に輝く。だが、ネーヴェは凶刃には見向きもしないでベロニカに言い放つ。


「これで正当防衛成立だな。記録をとってもいいぞ」


 緊迫した場面に不似合いなほど弾んだ声を上げたネーヴェに、ベロニカは「もう録ってるわ」とうんざりしたように言う。


「私闘は御法度なんだけど、もう仕方ないわね」


 こちらも了承と受け取って、凶刃を向けるシリウスにネーヴェはやっと向き直った。

 シリウスの手には長剣があるが、ネーヴェは帯剣を許されていない。しかし素手だというのに長剣相手にひとつも怯まず踏み込んだのは、ネーヴェのほうだった。

 テールコートが翻る。狭い部屋だ。間違っても斬り合いになれば、シリウスやネーヴェ以外も切りつけられる。イズベラはいち早く危険を悟ったのか席から立って壁際に寄るが、フィオリーナは元々扉の前に居たのでこれ以上は避けられない。

 シリウスはそれを分かっているのか、容赦なく横薙に斬りかかる。ネーヴェが避ければ確実にフィオリーナの鼻先をかすめる距離だ。

 シリウスはネーヴェごとフィオリーナを斬るつもりなのだ。

 しかし影法師のほうが速かった。

 長剣の横薙が宙で止まる。

 黒の手袋がシリウスの手元をとらえている。

 長剣の手が弾かれると同時に、シリウスの顔にしたたかに拳がえぐり込まれていく。

 骨がくだけるような嫌な音と共に人が倒れるのをフィオリーナはまともに見てしまった。 

 倒れるだけならいい。黒手袋が体勢を崩したシリウスの背中を床へ押し込んでいる。片方の手で宙に放り出された剣をとる。

 そしてそのまま、ひどい音と共に靴底でシリウスの頭を床へと沈めた。

 ほとんど一瞬の出来事だ。

 かろうじて頭だけでもあげようと抵抗したシリウスの眼前に、長剣が突き立てられる。

 切っ先で石床をいとも簡単に穿って、その人は軽やかにひと笑いした。


「どうですか? 人に侮辱される気分は」


 軽やかだというのに、ひどく冷たい声だった。


「……こんなことをして…ゆるされると…っ」


「侮辱が足りないようですね?」


 ひんやりとした声のまま、ネーヴェはイズベラに視線を向けた。彼女は青ざめた顔のまま、シリウスを見下ろした。


「……こんなバカな男、どうなっても知らないわ」


 シリウスが息を呑む音が聞こえた。


「知らないほうがおかしいのよ。……シリウス、この男がなんて呼ばれているか知らないの?」


 ネーヴェが足を上げると同時に、シリウスは愕然とした様子で殴られて腫れた顔をイズベラへ向ける。


「……その男はね、わたしの近衛を全員殺しかけたのよ」


 イズベラはそう言ってネーヴェを睨むが、睨まれたほうは溜息をついた。


「あなたが舞踏会で恥をかかされたとご自分の近衛に吹き込むからですよ。王城で襲われるとは思いませんでした」


 ネーヴェはそう言って床から長剣をすんなりと抜くと、ほこりを払うようにひと振りする。その手慣れた様子はあきらかに長剣を使い慣れている者のそれだった。


「あなたがいけないのよ! わたしを侮辱したりするから!」


 かみつくように言うイズベラを、ネーヴェは静かに見返した。


「──やはりあなたはお分かりにはならなかったようですね」


 氷のような声が静かに言う。

 ほとんど無造作に長剣を手で提げていたネーヴェから、剣を奪い返そうとしていたシリウスの顔をためらいもなくまた蹴りつける。ネーヴェは床に転げたシリウスを捕まえて、剣帯から鞘をむしり取った。そしてそのままゆっくりと長剣を鞘におさめる。


「私にとって侮辱とは、暴力で蹂躙することなのですよ?」


 シリウスは気を失ったようだ。

 人が暴力を振るわれる姿など見たことがなかったフィオリーナは、扉にへばりつくように青ざめるしかなかった。

 ベロニカは顔をおさえて大きく溜息をついている。彼から見てもやりすぎなのだろう。


「なによ、こんなことをして……何度も許されると思ったら大間違いよ!」


 もはや顔を蒼白にしたイズベラがそう言って噛みつくが、ネーヴェはもう一片の興味もないのか肩を竦める。


「私が投獄される法があるとしたら、あなたは幽閉されるでしょうね」


 どうして、と問い返される前に、ネーヴェは続けた。


「一応、私も五侯のひとつであるカミルヴァルト家の実子ですからね。今回の噂をもみ消そうとしたあなたの近衛が私を殺そうとした。──そう証言すれば、醜聞まみれのあなたに王家はどういう判断を下すのか。考えてみたことはありますか?」


 ネーヴェの答えは幼い子供に教えるように丁寧だった。イズベラは、本当に今まで誰にも何の指摘もされずにここまで来てしまったのだ。

 グラスラウンド王国にとって五侯と呼ばれる侯爵たちは臣下であり、今の王国の形を作った盟友でもある家だ。だから五侯はその権力を王国のためにふるい、王家は彼らを手厚く遇することで王国を保っている。その長い年月で培われた信頼と力関係は、どの家の何が欠ければどのような事が起こるのか誰にも予想ができないほど、強固で繊細な加減で均衡を保っている。

 これを分からない無知が罪になるというのなら、イズベラの罪は重いだろう。


「……わたしに政治のことなんかわからないわ。そんなこと、お兄さまもお姉さまも教えてくれなかった」


 がんぜない子供がよくするようにイズベラは口を歪ませる。


「婚約者がいるからって何よ? そこにいるようなつまらない女より、わたしのほうが魅力的だったってだけの話でしょう!」


 それだけのことなのに、とイズベラはとうとう涙ぐむ。自分がかわいそうでたまらない。全身でそう訴えているようだった。


「そこのシリウスだって、つまらない婚約者よりわたしのほうが美しくて、賢い女性だって言っていたのよ!」


「奇特なご趣味なんですね」


 ネーヴェは溜息をついてぼやくように肩を竦めた。


「人間が二本足で立って歩いていることを賢いと呼ぶとは知りませんでした」


「わたしがそこの女よりも馬鹿だって言いたいの!? 信じられない!」


 イズベラがほとんど泣きながら叫んだ。

 すがすがしいほどネーヴェとイズベラの相性は悪いらしい。

 扉の外から大勢の足音が聞こえて、ノックが響く。


「──お迎えにあがりました。イズベラ王女殿下。ご同行願います」


 この茶番劇の終わりを告げられ、イズベラは放心したように床に座り込んだ。

 




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