仮面が言うには
対決回その2
思い切り顔をしかめたイズベラに、ネーヴェは子供のわがままを宥めるように笑う。
「オルミ卿と呼んでくださいませんか。名前を呼ぶことをあなたに承諾した覚えはありませんよ。王女殿下」
王女相手に不遜に笑って、ネーヴェは皮肉げに目を細める。
「先ほどのお話で、この茶番がどなたの入れ知恵かよくわかりましたので、後日あらためてお話を伺おうと思います」
そう言ってフィオリーナの腰に手を回して部屋を出ようとしてしまう。
「待ちなさい!」
イズベラは金切り声を上げて細い眉を跳ね上げた。
「証拠もないのにどうやってわたしを告発するつもり? この部屋にはわたしたち以外にいないのよ!」
イズベラの発言は、あの告白がすべて真実だったと認めたようなものだ。ネーヴェもそれがわかったのか、笑って肩を竦めただけだった。
「今夜、私たちに接触してきたのは、いよいよ自分たちの首が締まってきたからでしょう?」
ネーヴェは説いて聞かせるようにして丁寧に、しかし敬意のかけらもない声で冷淡に続けた。
「このシーズンで本物のフィオリーナ嬢が現れて、噂が真実ではないと突き止める者が続出した。そして以前からあったあなたの噂こそが本当だと明るみに出て焦ったのですよね?」
ネーヴェの指摘にイズベラは紅唇を噛んだ。ネーヴェの話が本当なら、イズベラはこのシーズンでこの国の社交界にはとうてい居られないほどの醜聞を抱えてしまったことになる。
「私に直接接触をしてきたのは、さすがの行動力ですね」
ネーヴェが皮肉げに目を細めると、イズベラは忌々しそうに顔をしかめて唇を歪めるようにして無理矢理笑みの形を作った。
「……あいかわらず賢い女は嫌いなのね? 失礼だけど、噂のフィオリーナさんのような頭の弱い女性のほうが好みだとは思わなかったわ。あなたのような頭が切れる男って、女の趣味が最悪ね」
イズベラのおそろしい皮肉にも、ネーヴェは吐息を吐き出す程度に笑っただけだった。
「フィオリーナ嬢にお会いしたことが?」
ネーヴェの問いに、今度はイズベラのほうが鼻を鳴らす。
「シリウスの話だと、わたしとデビュタントが同じだったとしか聞いていないわ。世間知らずで目立たない娘のほうが身持ちが悪いことなんてよくある話ね」
そう吐き捨てるように言って、イズベラは人を皮肉った笑みを浮かべる。
「それとも、あなたも本物のフィオリーナにまんまとたらしこまれたのかしら。頭の弱い女性はそういう手管だけは一流だというから」
もはやフィオリーナはここに立っているのがやっとだった。倒れそうなフィオリーナの背に、大きな手が添えられる。それは支えるというよりも、ここから逃げ出さないように阻んでいるようだった。
「シリウス殿はどうしてフィオリーナ嬢を身持ちの悪い女だと?」
ネーヴェに問われると、シリウスは困ったように溜息をつく。
「何度も言っているはずです。彼女は男性の機嫌しかとれない女性なのです」
「それはどのような?」
ネーヴェに深く尋ねられるとは思ってもみなかったのだろう。シリウスは驚くほど素直に答えた。
「いつも私のうしろを歩くよう言いつけていたのですが、社交の場になればパートナーのとなりに並ぶのが当たり前でしょう? でも、彼女はいつも私が社交場で友人や同僚と挨拶するときでさえ私のうしろで黙って突っ立っていたのです。そういった配慮がまったくできない女性なのですよ」
シリウスの答えに、ネーヴェは首を傾げる。
「それでは奔放どころかいっそ貞淑な女性だ。あなたはどうして彼女が身持ちの悪い女性だと思ったのですか?」
ネーヴェの疑問に、シリウスは「彼女が貞淑なものか」と眉をひそめた。
「彼女はね、婚約者の私にはいつもつまらなさそうな、苦しそうな顔ばかりするくせに、私の同僚や友人たちには笑みを向けていたんです。これが貞淑な女性のすることですか?」
そう言って、シリウスは憤懣を吐き出すようにして口元を歪める。
「だから、同僚に言ってやったんです。私の婚約者は君のほうが好みのようだから、結婚前に相手をしてやってくれないかって」
ぞっと背中から氷が滑り落ちる音を聞いた気がした。
今にも気を失ってしまいたいのに、フィオリーナの背を大きな手が支えて離してくれない。
「彼女が粉をかけていた何人かに声をかけてやりました。でも、やっと彼女の希望を叶えてくれる男が見つかったというのに、彼女は拒否したどころか被害者面して彼を訴えてしまった。……気のいい同僚だったのに、彼は失意のうちに地方へ飛ばされてしまいました」
ひどい吐き気と寒気がフィオリーナを襲って、気を失わないのが自分でも不思議なほどだ。
──フィオリーナが襲われたあの事件は、すべてシリウスの虚言が原因だったのだ。
彼にそそのかされた同僚のひとりが、フィオリーナを身持ちの悪い女と思いこんで及んだ凶行だった。
それを、シリウスはフィオリーナの態度が嘆かわしいと首を横に振る。
「いくら男性と知り合いになることが少なく、友人も少ないからと私の同僚をたぶらかしておいて平気な顔でいるような女性です。イズベラ殿下の近衛騎士として、そのような女性とそのまま結婚するわけにもいきませんでした」
だから、シリウスはフィオリーナが悪女だと率先して噂を流した。
イズベラの噂をフィオリーナの噂にすり替えた者は、このシリウスの一方的な言葉をそのまま利用したのだ。
そして、シリウスはそれを知っていた。
つまり彼はイズベラの覚えをよくするために、自らの出世のためにフィオリーナを利用したのだ。
フィオリーナを利用したことを悪いとすら思っていない。それどころか、思い通りにならないフィオリーナが悪いのだと今も考えている。
体の奥の震えが収まらない。けれど、心の底ではどこか安堵していた。
そして、ネーヴェはこれを聞かせるためにフィオリーナをここに連れてきたのだ。
いっそ逃げ出してしまいたいというのに、ネーヴェはそれを許さない。
ひどい人だ。けれど、実際にシリウスの言葉で聞かなければフィオリーナは素直にこんな話を信じられなかっただろう。
それに、フィオリーナ自身が問いただしたところで、シリウスは先ほど口走ったようなことまで答えなかったにちがいない。
シリウスにとってフィオリーナは都合のいい所有物であって人間ですらなかったのだ。
物も言わないはずの所有物に、言い訳などしようとも思わなかっただろう。
シリウスの告白を黙って聞いていたネーヴェは、うんざりしたように溜息をついた。
「……君の言い分はよくわかったよ」
ネーヴェのうなずきを同意だと見たのか、シリウスは当然だといわんばかりに笑みさえ浮かべた。
「分かっていただいて良かった。女性は男性に従うものであって、邪魔になるようではいけませんからね」
ネーヴェはそれを無視して「あなたが言ったことを繰り返すようですが」とネーヴェは溜息混じりに続けた。
「フィオリーナ嬢は、男性と話すことも苦手で友人も少なかった。そうですね?」
ネーヴェの確認に、シリウスは何を今更といわんばかりにうなずく。
「彼女は私と婚約するまで身内の男性以外とほとんど話すこともなかったようです。だから、私のような男と話して舞い上がっているようでしたよ」
女性に人気のあるシリウスに気後れしたことは確かだが、舞い上がったことなど一度もなかった。
悲しいほどにフィオリーナとシリウスは乖離していたのだと思い知らされる。
ネーヴェはフィオリーナを腕で支えたまま、あきれたように溜息をついて問い返す。
「それほど生来引っ込み思案の女性が、どうやって男性を誘うのですか?」
「……どうやって?」
ここにきてようやくシリウスは首を傾げた。
「それは……男性に笑顔を向けて」
「あなたは女性に笑顔を向けられたら、すべて自分に好意をもたれていると思うのですか? シリウス卿」
だんだん面倒臭そうに質問を投げるネーヴェに対して、シリウスは心底不思議なことに出会ったように怪訝に眉をひそめた。
「そんなバカな。そんな男はよほどの自信家か頭のおかしい変態だけだ」
「あなたのような考えを、あなたの同僚も持っていたと思いますか?」
「もちろん」と答えて、シリウスは顔を強ばらせた。
矛盾に気付いたのだ。
彼の論じるところでいうのなら、笑顔で応じただけのフィオリーナを襲った同僚を、シリウスは頭のおかしい変態として扱ったことになる。
それでもネーヴェは淡々と続けていく。
「では、そんな引っ込み思案なフィオリーナ嬢に笑顔を向けられただけで凶行に及んだ同僚はどうやって仕立てられたのでしょうね?」
ネーヴェの答えに、シリウスは隠しもしないで彼を睨んだ。
「……何が言いたい」
「何を言いましょうか」とネーヴェはうそぶく。
「あなたがフィオリーナ嬢を自分のおもちゃとしてないがしろにしていたことですか? 頭のおかしい同僚を差し向けて襲わせたことでしょうか? それとも、出世に利用して捨てたことですか?」
ネーヴェは首を傾げて、シリウスを眺めて笑った。
「──フィオリーナ嬢を独占できなかったことがそんなに悔しいですか」
「黙れ!」
シリウスは弾かれるようにして声を荒げて、王女殿下のそばから進み出た。
「あれがいけないんだ! 私にだけ笑みを向けていれば済むものを、婚約者のくせにそれもできない欠陥品だった!」
今にもかみつきそうなほど怒鳴られても、ネーヴェはあきれ顔をしただけだった。
「笑顔は社交の基本だそうですよ。あなたの友人や同僚を気遣って挨拶をしただけではないのですか」
「ちがう! 私を侮辱するつもりか!」
シリウスは頭に血がのぼると手がつけられなくなる。あっと思ったときにはシリウスは剣の柄に手をかけていた。しかしネーヴェは逃げもしないで、笑みを浮かべて無造作に踏み出す。
「侮辱してほしいのなら、始めからそう言ってくれないと」
いつの間に間合いに踏み込んだのか。
ほとんど足音も聞こえなかった。
ネーヴェが今にも抜かれそうだった剣の柄頭に手のひらを置いている。
それだけでシリウスは剣を抜けなくなっていた。かちかちと耳障りな金属音が鳴っているので、シリウスは力ずくで剣を抜こうとしている。それでも騎士である彼が抜けないのだ。
「やめたほうがいい。今夜は無礼講だとしても、荒事は主催も見逃してくれないよ」
ネーヴェが笑うと同時に、奥の緞帳がゆっくりと開いた。
「──不本意ながらお話はすべて私も聞かせていただきましたよ、殿下」
溜息をついて現れたのは、ベロニカだった。彼にしては地味な黒に近いチャコールグレイのドレス姿だ。
「記録は?」
「録ったわ」
ネーヴェの短い問いかけに、ベロニカが手の平をさらした。そこに、部屋の中を丸ごと包んでいたような光の枠が収まっていく。人差し指ほどに収まった結晶をベロニカは自分の手のひらに載せた。
「軍で使われている記録用の魔術です。今の会話はすべてここに収められています」
急展開についていけないのか、イズベラもシリウスもベロニカを凝視して声すら出ない。
「このお話を持って、この件について第一王子殿下にお話させていただこうと思います」
ネーヴェはそう言ってシリウスの剣から手を離して、フィオリーナのそばに戻った。
「こんなこと……お兄さまがお許しになるはずないわ」
イズベラがどうにか絞り出すようにして声を上げるが、ネーヴェはのんびりと笑っただけだった。
「それはどうでしょう?」
ネーヴェの言いたいことがわかったのか、シリウスは思い切り顔をしかめた。
もうこの事態はネーヴェやフィオリーナだけが知る事柄ではないのだ。噂を通じてほとんどの貴族が概要を知るところとなっている。
そして噂の真相にたどり着いた貴族たちは王家の対応を冷静に観察しているのだ。
王国と名前のつく限り、グラスラウンド王国は王家が絶対の力を持っている。だが、貴族たちは彼らに次ぐ権力を持つことで王国を支えている。貴族たちに見限られれば、王族といえど無傷では済まないのだ。
フィオリーナの噂は、こうしてシーズンにフィオリーナ自身が姿を現したことですでに終わっていたとも言える。
姿が見えなかったからこそ憶測で飛び交っていた噂が、現実に生身の人間が現れたことで真実が方向を変えた。
人の口に戸は立てられないと言われるとおり、誰の手にも──イズベラに入れ知恵をしたのであろう第一王子殿下にも噂が広がることを止めることはできなくなった。
彼らはフィオリーナを領地に押し込めておくことができなかった時点で、すでに後手に回ったのだ。
そして、誰であろうフィオリーナに社交場へ出ることを勧めた人は、菫色の瞳を細めた。
「──私は賢い女性のほうが好みですよ。話していて楽しいですから」
けれど、と言葉を続けてネーヴェは口の端を上げた。
「あなたが賢い女性だとは思ったことはありませんね。イズベラ王女殿下」
自分を睨むイズベラに世が世なら不敬罪に問われそうなことを平気に口にして、ネーヴェは興味もなさそうに笑った。
「……殿下。抜刀許可を」
イズベラの前に立ったシリウスは再び剣の柄に手をかける。
「ここに居る者たちを排除します」
シリウスのいつのない殺気だった声に、イズベラは明らかに慌てるように顔色を変えた。
「だめよ! そこの身分も知れない女だけならまだしも、アレナスフィル候とその性悪魔術師に刃向かっては…っ」
浴びせかけられ続ける冷水の下限はないのだろうか。夢のほとぼりが醒めていくように、フィオリーナは冷たくなった指先で自分の仮面に手をかけた。
その様子を振り返った菫色の瞳がじっと見ている。
ずっとこの人に導かれるまま、ここまで来た。──来てしまった。
どのようなきっかけや思惑であれ、自分で決めてここまで来た。
幕引きはフィオリーナであるべきだろう。
仮面を取ると、シリウスの青い瞳が瞠目していく。
シリウスもこんな風に驚くこともあるのだと頭の隅で思った。
「──お初にお目にかかります。イズベラ王女殿下。わたくしは、フィオリーナ・テスタ・ザカリーニ。ザカリーニ家の末娘でございます」




