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古城が言うには

 仮面舞踏会の会場は、ベロニカ所有の別荘の城だ。

 アレナスフィル領が国であったときに作られた岩城で、侯爵一族の居城であった頃もあるが古城となった今は誰も住まなくなった。そんな城に、かつて一族から追放された隠者が住んでいたという。


「その隠者の亡霊が孤独を慰めるために夜な夜な歩き回るそうですよ」


 その筋では有名な幽霊城であるらしい。

 どうしてその話を城に到着してから話すのか。フィオリーナがネーヴェを睨むが、彼は平然と肩を竦めた。


「年に一度、こうやってどんちゃん騒ぎに使うんですから、亡霊も迷惑しているんじゃありませんか」


 たしかに仮面舞踏会はこれ以上ないほど盛況だった。

 豪勢なシャンデリアに照らされた大広間は仮装めいたドレスと仮面で賑わい、まるで異世界に迷い込んだような不思議な熱気に包まれている。

 ネーヴェの言うような亡霊なら文句のひとつも漏らしているだろう。


「あなたのような可愛い仮面だと、賑わいに乗じてさらわれてしまいそうですね」


 フィオリーナが身につけている仮面は猫の顔を模したものだ。顔の上半分を覆う仮面で、額の上あたりに可愛い耳がついている。


「そちらはその……さらってしまいそうな仮面です」


 ネーヴェの容姿を隠すためにベロニカが用意したのは、顔のほとんどを隠してしまう黒い仮面だ。目元はガラスで、口元は鴉のようなくちばしで覆われて、表情はほとんどわからない。

 ネーヴェいわく、感染症対策に使われる防護用のマスクがこんな形だという。


「まぁ、あなたをさらうならやぶさかではありませんよ」


 そう言ってくちばしの下で唇が笑う様子が、近くにいるフィオリーナだけに見える。くちばしでほとんど隠れているものの、実はくちばしの下半分は無いので近寄ってみれば、ネーヴェの形の良い唇がわずかに見えるのだ。飲食のために空けられているのだろうが、薄い唇がちらりと見えるだけで妖艶に見えた。

 実際、立ち姿だけでたいへん目立つらしく、会場に入ったときからネーヴェは貴婦人たちの注目を浴びている。フィオリーナだけではこうはならない。

 その視線たちに気付いているのかいないのか、ネーヴェはひとつも気にしていない様子であたりを見回した。


「さて、何をしましょうか」


 この仮面舞踏会は無礼講とあって、招待状さえ確認されれば主催への挨拶はいらない。だからこそ、第三王女殿下が参加することができたのだろう。

 フィオリーナたちが今いる場所は大広間を見下ろす二階のテラスで、階下の大ホールでは大勢の仮面たちが華やかにダンスを楽しんでいる様子がよく見えた。

 やってきたばかりだが、少し休憩をしようと人だかりを避けてひと息つくことにしたのだ。

 ネーヴェは今日も酒気の強いシャンパンを給仕から受け取って、フィオリーナにはぶどうジュースを渡した。


「ここでぼんやり眺めていてもいいですね」


 シャンパンを飲みながらネーヴェがそんなことを言うので、フィオリーナは苦笑する。そういえばいつかラーゴが話してくれたことのある、主催に挨拶もせずに帰ってしまった主人とはもしかしなくてもネーヴェのことだったのだろうか。


「ここでお酒を飲んで帰っただけだとお話したら、お叱りを受けそうそうです」


 フィオリーナとしても、今夜は悪女として目立つというよりも、ネーヴェとこうして過ごしているほうが有意義なようにも思えるが、それではベロニカが納得してくれるとは思えなかった。

 それにベロニカの言っていたとおり、ベロニカ作のドレスが目印となっているのか遠巻きにいくつも視線も感じる。声をかけずに遠巻きになっているのは、近寄り難いほどの存在感があるネーヴェがそばに居るからだろう。


「ここでくだを巻くのもいいですが……踊りましょうか」


「え?」


 思わず声を上げたフィオリーナをよそに、ネーヴェはシャンパンを飲み干して笑う。


「せっかく舞踏会に来たんですから、一曲ぐらい踊りませんか」


 驚いたフィオリーナだったが、ぶどうジュースはすっかり飲んでしまっていた。


「……ダンスはお得意なのですか?」


「いいえまったく。良さもわかりません」

 

 おずおずと尋ねたフィオリーナのグラスを引き取ると、ネーヴェはあっけらかんと答えて近くの給仕に渡した。

「でも」とネーヴェはフィオリーナを見つめてくる。


「うらやましそうに見ていたでしょう?」


 仮面越しにどうしてフィオリーナの表情がわかるのか。じっと大ホールを見ていたことはお見通しだったらしい。


「では──1曲お相手願えますか。お姫様」


 ネーヴェは左手を背中に回して、右の黒い手袋を差し出すと軽く礼の姿勢をとる。教本から抜け出てきたような正式なダンスの誘い方だ。

 受ける場合は手を差し出して、淑女の挨拶を受けなければならない。

 ためらうように差し出したフィオリーナの手を、ネーヴェはすくうようにして大きな手に載せる。そして、手袋越しに唇が近づけられた。

 指先を甘くくすぐるような吐息が触れたのはほんの一瞬だ。けれど、フィオリーナは思わず身を引きそうになった。

 こんなことは初めてだった。挨拶を受けているだけで逃げ出したくなってしまう。

 指先の上の唇が淡く微笑む。

 こんなに妖しい挨拶はマナーの教本にも書かれていない。ネーヴェはフィオリーナを指先から手繰り寄せるようにして引き寄せた。

 普段はいっさい触れないフィオリーナの腰に手を回して、指先を恭しく引いたまま長い腕で囲ってしまう。   

 これではまるで恋人を片時も離さない嫉妬深いパートナーのようだ。


「あの…これは…」


「ん?」


 耳元でささやくように返事をされて、フィオリーナはますます縮こまってしまう。

 そんなフィオリーナに、不埒な鴉面は忍び笑いを送ってくる。


「最近は、悪女も板についてきたと聞いていましたが──ずいぶんと可愛い悪女ですね」


 悪女うんぬんよりも、フィオリーナが緊張から抜け出せないのはあきらかにネーヴェのせいだ。それを分かっているくせに、ネーヴェはからかっている。

 フィオリーナが悪女というのなら、ベロニカが仕立てたようにたしかにネーヴェは人ではない悪魔だ。

 ゆるく螺旋を描く階段で大ホールに降りると、ちょうど前の曲が終わったところだった。

 踊り終えてひと休みしようという人々と、次の曲で踊ろうという人々がいっせいに入れ替わる。

 その参加者たちに混じって、フィオリーナはネーヴェにエスコートされるままダンスホールへと踏み出した。

 古めかしい大きなシャンデリアがきらきらと大広間を明るく照らし出す。陽光とは違う明かりに、フィオリーナのドレスが紫に輝いた。

 指先は捧げるように、腕はホールドの形に、硬い腕に指先を添えて、顔を上げる。

 そして、視線を上げたことを後悔しそうになった。

 フィオリーナを見下ろして、形の良い唇が微笑んでいる。仮面の奥に隠れた菫色の瞳がやわらかく細くなっているのが見えた。

 しかしフィオリーナをじっと見つめたまま何も言わないので、ますます居心地が悪くなる。


「あの……わたくし、どこか変ですか?」


 つい小声でフィオリーナが尋ねると、唇がまぶたにかかるほど近づいた。


「……あなたがあまりにも綺麗で、見惚れていただけですよ」


 思わず指先に力が入りそうになってしまう。その指先を逃がすまいとつかんで、ネーヴェはフィオリーナの腰を抱き寄せる。

 曲が始まる。

 ワルツだ、と分かったのはほんの一瞬だった。

 距離が近すぎて足を踏んでしまう──そうひやりとしたのに次の瞬間にはステップを踏んでいた。

 ステップを踏めば、体がふわりと浮く。

 くるりと回るとドレスとテールコートがゆるやかに翻る。

 リードされているのはたしかなのに、フィオリーナにぴったりと寄り添うようにして、ステップが続く。

 回って、体をひらくように指先だけで繋がって、広がる。

 人が多い会場でこんなに綺麗にターンが決まることはほとんどなくて、思わず微笑んで見上げると鴉面の下の唇も微笑んでいた。

 指先が引き寄せられて、体ごと抱き寄せられる。

 やわらかく抱き留められるようにして、次のステップを踏む。

 フィオリーナはステップを踏みながら「ふふ」と笑みがこぼれていた。

 ダンスの何が楽しいのか良さもわからないと言っていたのに、ネーヴェのリードは完璧だ。この人は本当にあまのじゃくだ。


「何か楽しいことでも見つけました?」


 ささやきに応じて顔を上げると、唇が思いのほか近い。でも離れるわけにもいかない。


「……ダンス、お上手ですね」


 小さく答えると、フィオリーナの吐息が唇にかかったような気さえした。すると、唇がフィオリーナにキスを落とすように答える。


「父の厳しい教育の賜物ですね。アクア相手に特訓させられたので」


 おかげで舞踏会は苦手です、とこの期に及んで言うので、恥ずかしいほど近いことを一瞬忘れてフィオリーナは思わず笑ってしまう。

 そんなフィオリーナと、唇同士がかすめるほど近くなって──そのまま耳元に寄せられた。


「……あまり、可愛らしく笑わないでください」


 飛ぶようにステップを踏んで、ターンで離れる。

 仮面の下で顔を真っ赤にしたフィオリーナを眺めて、鴉面が苦笑する。

 わけもなく引き寄せられるのが怖くなって一瞬震えたフィオリーナを、長い指がからめとるように手繰り寄せる。

 腕の中にフィオリーナを閉じこめるようにして迎え入れて、ステップを踏む。

 このままフィオリーナをさらってしまいそうなネーヴェが怖いと思うのに、このまま腕の中で過ごしていたいとも思う。

 正反対の心がワルツといっしょに揺れる。

 関係に名前のないただの同居人のネーヴェとフィオリーナは、永遠にワルツを踊っているようなものだ。

 つかず、離れず、それでいて曲が終われば元の距離に戻る。

 気付けばワルツが終わって、入れ替わりの集団に紛れていた。

 エスコートをするネーヴェを見上げると、彼もフィオリーナを見つめていた。

 一曲だけという約束だ。

 フィオリーナが微笑むと、ネーヴェはいつものように苦笑する。

 それでも、指先だけは離れなかった。



 ダンスが終わった途端に、貴婦人たちが囲むようにして集まってきた。

 ネーヴェにダンスを申し込みに来たのだとすぐに分かった。正式な舞踏会ならダンスは男性から申し込まれなければならない。しかし今夜の舞踏会は無礼講で、女性からダンスを誘ってもはしたないとは思われない。だから、控えめにも先を争うようにネーヴェに声をかけにきたのだ。


「先ほどのダンス、素敵でしたわ」


「パートナーの交換も今夜は認められていましてよ」


「ぜひわたくしとも」


 華やかだが口々に貴婦人がさえずってくるというのに、ネーヴェのほうは困ったように首を傾げただけだった。


「申し訳ありません。お誘いはありがたいのですが、パートナーに嫌われないよう懸命に努めている最中なのです」


 お察しください、とフィオリーナの手を離しもしないでのたまった。

 そんな風に言われては、どういう場でもよほどのことでも無い限り誘うことなどできなくなってしまう。

 案の定、貴婦人たちも「まぁ」と黄色い声を上げて去っていってしまった。


「……わたくしを断りの材料にしないでください」


 あきらかにフィオリーナを囮にして貴婦人たちの誘いを断ったのだ。それぐらいはフィオリーナにも分かる。

 けれど、ネーヴェは心外だと言うように肩をすくめた。


「私があなたをこんな場所でひとりにするはずがないでしょう」


 そう言って、ネーヴェは腕の中に仕舞うようにフィオリーナの腰に手を添える。


「牽制が大変な身にもなってください」


 周りを見て、と言われて視線だけで見回すと、パートナーと分かれて談笑している男性も大勢いる。


「遠巻きにあなたに声をかけようと狙っている者が多いんですよ」


 まったく、とネーヴェはフィオリーナのつむじに溜息をついてくる。


「悪女となるのはいいですが、余計な男まで引き寄せるのは考え物ですね」


 それを言うならネーヴェのほうが会場中の注目を浴びている。反論したいが、フィオリーナからはネーヴェの顔が見えない。

 長い腕の中から見上げようとすると、溜息のような笑い声がわかるほど近かった。


「これでは、ネーヴェさんしか見えません……」


 ネーヴェの胸に手を置いて突っぱねようとするが、彼は吐息のように笑うだけだった。


「私だけを見ていてくれるなら、心配はいりませんね」


 本当に仕方のない人だ。フィオリーナが困ったように笑うと、ネーヴェは満足したように微笑んだ。

 すこし休憩をしようとネーヴェにエスコートされるまま、大広間の脇まで来たところで声をかけられた。


「──少しよろしいかしら」


 扇子で口元を隠しながら声をかけてきたのは、淡い白磁の生地に黒に近いレースを胸元からスカートまであしらったドレスの女性だった。高く結い上げた髪は美しいブルネット。その白い顔の目元を覆う仮面はダイヤやルビーなどをあしらっていていかにも豪奢だ。

 その彼女のとなりには、すらりとした長身のマント姿の男性が寄り添うように立っている。軍服の礼装のような装いで紺色の生地と黒い飾り紐が華やかにあしらわれていた。目元は女性とそろいの豪奢な仮面で覆われている。そして髪色は、シャンデリアを照り返す明るい銀髪。

 息が止まるのではないかと思った。

 うまく息のできないフィオリーナを見て取ったのか、大きな手が優しく背中に添えられる。気遣うような温かさで、どうにか息を整えた。

 舞踏会で従者に帯剣が許されるのは、王族しかいない。

 女性はこちらが従者の装いまで確認したと知ったのか、扇子の奥から笑みをこぼした。


「お話があるの。ついてきてくれるわね?」


 紅い唇が余裕をたっぷり含んで微笑んだ。




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