愛妻家の侯爵が言うには
夕食後にベロニカが何となくシガールームに足を向けたのは、もはや癖なのだろう。
当然のようにネーヴェがいると分かっていた。
戦場では毎晩のように仲間たちとネーヴェの自室に集まっていたのだ。
談話室と化したネーヴェの部屋で、さまざまなことを話して騒いでいたように思う。
そして翌日、肩を叩いて笑い合った仲間が死んでいくのだ。
戦場から帰った今、シガールームでひとり酒を飲んでいることのほうが不思議に思うこともある。
「──訴訟のほうはどうなの。捕虜の引き渡しはもう終わったんでしょう?」
フィオリーナの兄の助力で、ネーヴェは奇病についてティエリ領を訴えることにしたと聞いている。今までのあまりに長い確執を思えば、ようやく踏み出した一歩だった。
「ここへ来る前に全員ティエリ領へ送ってきた」
ネーヴェは何でもないことのように言うが、百人近くをいったいどこに隠していたのか。煙草を吹かしていたネーヴェについ疑問に思って尋ねたが、すぐに後悔した。
「魔術で拘束したまま湖の底に沈めていたから、逃亡はなかったよ。風邪ぐらいは引いたかもな」
たとえ棺桶の中で目覚めても、冷たい湖の底から脱出しようという者はほぼ皆無だろう。長年の付き合いで慣れているが、ネーヴェの人心を忘れたような行いは今でもあきれるほどおぞましい。
そのおぞましさにもすっかり慣れてしまったのだから、八年の兵役は長かったのだ。
兵役はベロニカの人生において、大きな傷と共に様々なものを与えた。
ベロニカは侯爵家の次男として生まれてから騎士となるべく育てられてきたが、十一歳の年、とうとう隠してきた趣味が父に暴露されてしまったのだ。
昔からドレスや宝石が好きで、密かに姉と共に愛でていたことをお節介な世話役が父に告げ口したのだ。
そして、その性根は侯爵家には相応しくないとして当時貴族の義務として奨励されていた兵役を課された。
大貴族といえば聞こえはいいが、王国に従う形でグラスラウンド王国に吸収された五侯は正確には王家の庇護下にはない。領土を保証されているだけだ。そのくせ常に王家への忠誠を求められている。その忠誠の証としてベロニカは人身御供に差し出されたのだ。
38小隊に集まった者たちの大半はこういった半端者ばかりだ。軍人の家系でも直系ではない者、他に従軍できる者がいなくて差し出された者、そして戦場に接する領地の領主の息子だからと出征を命じられた者。
誰よりも暗闇を歩くようにして戦場を歩いていた男は、当然のように煙草を吹かして酒を飲んでいる。
「どうしてこんな風に育っちゃったのかしらね。可愛い美少年だったのに」
ベロニカがそううそぶくと、ネーヴェは心底嫌そうな顔で短くなった煙草を灰皿に放り込んだ。
「今も昔も、私はぬいぐるみじゃないのでね」
今でもその容姿は整っているが、ネーヴェはそれは美しい少年だった。
白磁の肌に絹のような黒紫の髪、そして宝石のような紫の瞳。
常に美しい男女の従者を連れたその少年は、戦場にあって異質な存在感を放っていた。
実家の爵位の序列だけで副隊長として着任したベロニカも、自分よりも年下の隊長に一瞬見とれてしまったほどだ。けれどそれは本当に一瞬で、その酷薄な光を放つ瞳に肝が冷えた。彼が人間ではないと言われれば、その場で信じていただろう。
それほどネーヴェは異質だった。
十一歳で兵役を課された少年はすでにわずか二年のうちに戦功を上げていた。ベロニカが新兵だった頃にはもう部隊の隊長として大人の部下たちに囲まれていたのだ。
彼ほど姿と功績の似合わない子供もいなかった。
そして、ネーヴェが受ける嫉妬や羨望も尋常ではなかった。
男女問わずネーヴェに欲望を向けては、場違いな子供を支配しようと魔手をのばした。
ベロニカが知るだけでも、その顔ぶれは書記官や看護師、同僚兵士などと多岐に渡る。
ほとんどの魔手は侯爵家の嫡男、師団長の息子というネーヴェの立場や常に護衛していた優秀な従者に潰されて、おいそれと手出しも口出しもできない様子だったが、あきらめない輩も大勢居た。
その中でもひどい変態が魔導師団の中将だった。幾度も年端もいかない少年に無理難題を押しつけては関係を迫っていたのだ。
もっとも、こういう手合いは非日常である戦場にはいくらでもいて、体格の良いベロニカにも迫ってきた命知らずがいたほどだ。
しかしある日、戦闘中に中将が死んだ。腹から下を断ち切られてまっぷたつにされるという陰惨な姿で。
報告を聞いたネーヴェは何の感慨もなく紙面を一瞥して呟いたのを、一番近くにいたベロニカは聞いてしまった。
──始末されたか。
その頃、ネーヴェに関係を迫っていた者たちは次々に消えていた。
これをネーヴェの魔性といえばそうなのだろうが、彼の災難は実家であるカミルヴァルト家も味方ではなかったことだ。
それは、ことあるごとにネーヴェを庇っていた、実家からついてきたという騎士が死んだときに分かった。
その騎士が、ネーヴェにまとわりついていた男女を次々と戦死に見せかけて殺害していたことが発覚したのだ。そして、その騎士の悪行を告発したのは、ほかでもないネーヴェだった。
崇拝だか何だかで曇った目であなたのためにやったのだと主張した騎士を、ネーヴェは父の許可も得ているとして冷ややかに切り捨てた。
──おまえを踏んでやるほど私は愚かでもお人好しでもない。
屈折した性癖を軍法裁判で暴露された騎士は失意の中で獄中死した。
不幸な戦死などよくあることだが、ネーヴェはこのように平時でさえも血にまみれていたのだ。
十四歳を越えた頃になると、ネーヴェは女の恋人を常に作るようになった。
大抵の者は兵士用に用立てられた娼婦に癒しを求めていたが、ネーヴェの相手は兵舎勤めの看護師や書記官などで、部下や同僚などの兵士とは決して関係を持たなかった。
恋人との関係もほとんど没交渉のひどく冷めた関係で、男女の関係を持ったとしても毎回避妊薬を飲まされるのだと、酒の席で元恋人の看護師が漏らしていたのを聞かされたことがある。
堕胎はつらいものだからと言われたのだという書記官もいた。その書記官はそれで良かったのだと笑っていた。彼女たちも戦場で子供を持つことは望んでいなかった。妊娠したからと軍属を解かれるほど甘い戦況ではなかったし、戦場は子供がいていい場所ではないと誰もが身にしみて知っていたからだ。
ベロニカも付き合いで将校専門の娼婦に相手をしてもらったこともあるが、ネーヴェはそういう付き合いにもほとんど参加しなかった。
今考えれば、戦場での処世術として女性たちと共生していたのだろう。
それに、ネーヴェは人造の妖精を作っては日々体中を激痛に苛まれていた。たとえ恋人にせがまれたとしても、女を抱くことすら苦痛だった日も多かったはずだ。
ベロニカがネーヴェの代償について知ったのは本当に偶然で、激痛に苦しむ彼を抱えて死地から命からがら帰営したことがあったからだ。ネーヴェは当時の恋人たちにすらもそれを悟られないよう周到に隠していたように思う。
ようやくネーヴェが隊長としてその地位も立場も盤石としたのは、十五歳になってからだ。
休暇中にベロニカが婚約者であったコルネリアと結婚したのもこの頃で、その頃からネーヴェはベロニカを後方部隊の指揮へと回すようになった。ネーヴェの代償の秘密を堅く守っていたベロニカへの、怪物なりの報いだったのだろう。
信頼や親切に応えるような善良な心が保てなくて当然の戦場だった。だから正常のまま渡り歩いていたベロニカのほうこそきっと異常だった。
逃げ場のない戦場は毒の沼のようなものだ。ベロニカもネーヴェのことを揶揄できないほどには、怪物であったにちがいない。
戦場にあっても善良な大人もたくさんいたが、それ以上に戦場であることを言い訳にして鬱憤をはらそうとする者のほうが多かった。
その誰もがごちゃまぜになって死んでいくのが戦場だ。
うんざりするような死ばかりに溢れていた。
38小隊はそんな戦場で畏怖と共に栄光もつかんだが、部隊の誰もが血にまみれていた。
ネーヴェが部隊の軍服を作るときに黒を基調としたのは、血の跡を目立たなくするためだ。
血塗れの軍服は、今でもベロニカの衣装箱の奥深くで眠っている。
「──大体、この顔の何がいいんだか。未だにわからないよ」
そう言って新しい煙草に火をつけるネーヴェは、過去の彼に惑わされた人々が歯噛みするほど整った容姿のまま成長した。しかし自分の悪評の原因が、その容貌だけでなく素養や功績への嫉妬や羨望にもあることをネーヴェはいまいち理解していない。持って生まれた美貌がただ褒められることよりも、人間性を剥き出しにした欲望ばかりにさらされてきたからだろう。
愛されているというよりも、欲情の対象として見られることにネーヴェはうんざりしているようにも見えた。
「その顔のおかげで得したこともあるでしょう?」
そう問うベロニカにネーヴェは嫌そうな顔をしただけだった。
「昼夜問わずつけ回されて、踏んでほしいやら罵詈雑言でなじってくれやら、いっしょに死んでほしいやら縛ってほしいやら、そういう類のことなら実名で暴露本でも出してやりたいほどには経験がある」
ベロニカも人のことは言えないが、情操教育には最悪な場所で十代を過ごしたのだ。愚問だった。
「フィオリーナ嬢はお気に入りみたいだけどね」
ネーヴェの内情など知らないお嬢様は、ことあるごとに着飾ってやるネーヴェに見惚れているのは知っている。もっとも、フィオリーナはネーヴェの顔がどうであろうとあまり関係はなかったにちがいない。
フィオリーナの名前を出した途端にネーヴェは頭痛をこらえるようにして、こめかみを指でもんだ。
「……どうして舞踏会に行けだなんて言ったんだ? 月鉱石の奇病を議会に認めさせたいならいくらでも手段はあるはずだ」
これほど嫌がるネーヴェも珍しい。ブランデーを注ぎながらベロニカは首を傾げた。
「まるで舞踏会に行くこと自体が不都合みたいな言い方ね。行きたくない理由が他にもあるの?」
ベロニカの言葉にネーヴェはますます顔をしかめた。
「……言いたくない」
往生際が悪いとはこのことだ。だがもうこれ以上は口を割りはしないだろう。ベロニカはブランデーをもうひとつのグラスに注いで、ネーヴェの前に置く。
「エルミスとのことがフィオリーナ嬢にバレたんですって?」
グラスを受け取りながら、ネーヴェは溜息をつく。
「クリストフが口を滑らせた。……まぁ、いつか話すことになったから、気にしてない。制裁はもうやった」
どんな制裁だったかは聞かないほうがいいだろう。ネーヴェは口元を歪めてブランデーを舐める。
「お姫様は、こんな話はお嫌いだろうからな」
まるでフィオリーナに嫌われてもいいといわんばかりの口振りだ。
ネーヴェの悪い癖だ。嫌われても自分に都合が良ければ、どんな手段を使っても繋ぎ止めておこうとする。
クリストフでなくとも、絶対にフィオリーナには見せてはならないと思うネーヴェの悪い一面だ。
「……フィオリーナ嬢にあんまりそういうどうしようもないところを見せるなよ。愛想を尽かされるぞ」
久しぶりに男の口調に戻して諭せば、ネーヴェはブランデーを飲んで溜息をついた。
「毎日悩んでる」
そう言ってむくれる様子にベロニカは思わず笑う。
人の形をした怪物が、ただの男に見えたからだ。
「──私なんかに恋をしてほしくないんだよ」
そう小さく呟いて煙草をくわえる男は、フィオリーナにどれほど優しくしても自分は心を開かないつもりなのだろう。
それでも、どうしても冷たくできない。大切にしたい気持ちは変えられない。
それを人は何と呼ぶのか、この怪物は知っているのだろうか。
奪った命は戻らないし、戻せない。
ベロニカもその血塗れの手で家族を守ると決めたのだ。
だから、
「せいぜい悩みなさいよ。お姫様に逃げられないようにね」
誰より血塗れの怪物は、滑稽なほど幸せになればいいと思うのだ。




