戦友の宝石商が言うには
「──この部屋は、以前私が使っていた部屋なのです」
エルミスの告白に、フィオリーナは目を丸くして部屋を見回した。
「まぁ、そうだったのですね。ではエルミスさまもこの椅子をお使いに?」
そうやって衣装合わせに用意された椅子に触れて、うれしそうに微笑むフィオリーナにエルミスは苦笑する。
「……いいえ。私がいたときの家具はひとつもありません」
衣装合わせのためにこの部屋に入ったとき、愕然とした。エルミスが使っていた家具どころか壁紙やカーテンにいたるまですべて変えられていたのだ。
まるでエルミスの痕跡を消すかのように。
それほどまでに消したかったのだと、うっかり優越感さえ持ってしまった。──女というものは本当に度し難い。
そして、この目の前のお嬢様には変えたすべてが与えられている。
貴族の娘らしい華奢な体に、美しい所作。こちらを見つめる瞳は木の実のようだ。焦げ茶の髪は神秘的な森を思わせて、彼女をまるで妖精のような不思議な雰囲気に仕立てていた。どこか浮き世離れしたその手は汚れもなく綺麗で白い手だったのに、近頃の農作業で少し焼けている。
その手でエルミスの手を重ねて、フィオリーナは静かに微笑むのだ。
「……やっぱり、エルミスさまがうらやましいです」
エルミスの嫉みや妬心を向けられるべきはずのフィオリーナが、エルミスをうらやましいという。
「エルミスさまはその身ひとつで、ネーヴェさんが一番大変だったときに共に居ることができたのですから」
エルミスが滞在していた頃のネーヴェは、オルミ領に暮らし始めたばかりで、いわゆる普通の生活というものに慣れるだけで精一杯だったという。
「カリニさんに伺ったのです。ずいぶんご苦労されたようで」
思えば、ネーヴェは十年も戦場で暮らしていたのだ。
家族の団欒も知らず、親の愛情も知らず、戦場を家として育った彼が、どうして誰もが経験するはずの普通の生活を想像できただろうか。
(困っているなんて、知らなかった)
──そんなことは考えなくてもわかるはずだった。
ネーヴェは子供が大半だった部隊の中でもとくに年少で、隊長でありながら部隊の弟分だった。
戦うこと以外何も知らない彼に、みんなでさまざまなことを教えた。
服のたたみ方。誰かと共に食事をとること。くだらない雑談をすること。くるみの割り方からカードゲームに賭事、女に酒に煙草まで。良いことから悪いことまで、今はそばにいない家族の代わりに、みんなでネーヴェに教えた。当時のエルミスたちには帰る家があって、それをみんな懐かしんでいたからだ。
しかしネーヴェにとっては38小隊が家で、エルミスたちが家族だった。
──家族だった。
身分や年齢が違っていても、毎日誰かが死んでいても、死を悼むことのできる仲間で、大きな家族だった。
ネーヴェはその中でもいちばん小さな弟だったのだ。
どんなことを教えても、頭の良いネーヴェは誰より器用にこなした。
けれど、戦場しか知らない彼がいきなり普通の生活をしろと言われても、何もわからないことだらけだったにちがいない。
(わかろうともしなかった)
庭に手押しポンプをつけたときも、風呂を入れるためにタンクを作って水を引いていたときも、エルミスのために生活を整えているというぐらいにしか思わなかった。
奇病の研究だってそうだ。専門家に任せないで自分で研究する意味さえわかろうとしなかった。
「そんな大変なときにエルミスさまが居てくれたのですから、ネーヴェさんも感謝されていると思います」
フィオリーナはそう言って少し悲しげに微笑んだ。
そんな風に綺麗に微笑まないでほしかった。
彼女を美しいと思うたびに、エルミスの醜い部分が浮き彫りになってしまう。
エルミスはただ、謝ることさえできずにネーヴェが悪いと決めつけてきただけだ。
そうでなければ生きていられなかった。
隣領のクリストフのところへ逃げ込んだのは、ただの意趣返しのつもりだった。
ネーヴェよりも爵位の高いクリストフに見初められさえすれば、今度こそ安泰だという奇妙な自信もあったかもしれない。
けれど、あれだけ女遊びが激しいクリストフでさえエルミスには手もつけなかった。こちらは城も広いし、使用人も多いだけにほとんど接点すら持てなかった。エルミスに好きなだけ滞在させたあと、クリストフは提案したのだ。
──仕事したほうがいいよ。今流行りの職業婦人。かっこいいじゃないか。
そう言って、実家の宝石商で仕事を始めたオネストにエルミスを預けた。
それからは見返してやるつもりで働いた。
働いて。
働いて。
そして、気が付けば四年が経っていた。
フィオリーナとの秘密の会話のあと、階下へ降りるとちょうど応接間にネーヴェがやってきた。
「ネーヴェ様」
隊長とはもうあまり呼ばない。あのときのエルミスにとって、ネーヴェはただの手段と過程でしかなかった。
「二階の部屋、私がいた証拠を全部なくしてしまわれたんですね」
フィオリーナがオネストと話しているのをいいことに、意地の悪い問いかけだったと思う。けれど、ネーヴェのほうは怪訝そうに眉を寄せただけだった。
「古い家具だったから客間用にカリニが入れ変えただけだ。壁紙やカーテンもそのとき模様替えしていたんじゃないか」
何年も前の話だ、とネーヴェはあっけなく答える。
「大体、本当に君の痕跡を断つなら、私が君を生かしておくはずがないだろう」
それが最善と思えば、ネーヴェは迷うことなくエルミスの命を奪ったのだろう。もはや恐ろしいというよりあきれる他なかった。
ネーヴェという男は本当に何もできない男だ。
人に優しくできない。思いやれない。気遣うこともない。
恋人だと他人に思いこまれるほどの関係だったエルミスにも無神経だ。
それでも、慈しむことはできたらしい。
「フィオリーナ」
やわらかな呼び声はいっそ甘いほど優しい。その端正な顔は今まで見たことないほどやわらかだった。
ネーヴェがこんなに整った顔立ちだったことを、今の今まで忘れていた。──彼の顔さえ、まともに見ていなかったからだ。
呼びかけられるまま無邪気にやってきた妖精のようなフィオリーナはネーヴェの前までやってくる。
「あなたの部屋の家具は、気に入らなければいくらでも変えていいですよ。そういうものは気に入ったもののほうが良いんでしょう?」
エルミスからそう聞いた、となんだか適当なことを言われてエルミスはあきれるというのに、フィオリーナは目をまたたかせて驚いている。
「そんな……わたくしの部屋ではなく客間なのですから、模様替えならまずカリニさんにご相談されないと」
そういう話でもないと思うが、ネーヴェは「そうですね」とうなずく。
「まぁ、別に相談なんてしなくてもあなたの好きに変えていいですよ。好きに使ってください」
そんなことをエルミスは言われたことがあっただろうか。
いつでもエルミスが率先して口うるさくしていたことしか思い出せなかった。
「模様替えよりも、エルミスさまにもあの果実を食べていただきませんか」
「ああ、それもいいかもしれませんね」
フィオリーナの提案に、ネーヴェがうなずく。
いつもエルミスが一方的に喋ってばかりで、こんな簡単な会話さえなかった。生来ものぐさなネーヴェに面倒臭いと返されるたびに怒ったものだ。
「エルミスさま、これからお仕事でしたよね。昼食を食べていかれませんか」
準備をしますから、とフィオリーナがなぜか庭へと向かっていく。それをネーヴェがのんびりと追いかけていくのだ。
その様子だけで、彼らがどんな生活をしているのかわかるようだった。
声をかけ、話を聞いて、語らう。きっとこの関係にフィオリーナとネーヴェの容姿や身分も関係ない。どんな姿であっても、フィオリーナは変わらないし、ネーヴェも変わらないのだろう。
静かで、穏やかで──戦場では遠い夢でしかなかった奇跡のように幸せな生活だ。
「……カリニさん」
応接間にやってきたカリニにエルミスが声をかけると、彼も嫌な顔ひとつしないで「はい」と答えた。思えばこの屋敷の人々は小うるさいエルミスに嫌な顔ひとつしなかった。そのことだけでも、思い返しても本当にありがたかった。
「フルボディの赤ワインがあれば、譲っていただけませんか」
今のエルミスの立場はもはやカリニと同じだ。敬う必要などどこにもないのに、老齢の執事は「かしこまりました」と目を伏せて一礼する。
「昼食時にお持ちいたします。多少良いワインを空けても旦那様は怒らないと思いますので」
熟練の執事は軽やかにそう答えて、昼食の準備へと向かった。
かたわらでやりとりを見ていた同僚のオネストが首を傾げて訝る。
「隊長とまた何かあった?」
オネストはエルミスがネーヴェと恋人だったと思いこんでいるひとりだ。商売人の彼はクリストフと違ってうっかりと喋ったりはしないが。
エルミスは「ふふ」と笑って、大きく伸びをする。
「なーんにもない!」
ネーヴェとエルミスとのあいだには、本当に何もなかった。
あるとすれば、それは暗く悲惨で、それでも共に戦場を駆けた、戦友であるという事実だけだ。
昼食の席で出されたのは、ネーヴェたちが畑で育てているという果実の料理だった。生で切ってチーズを挟んでみたという赤い果実はいかにも甘そうだったが、
「……酸っぱい」
果実はまるで思い出のように青臭く、酸っぱかった。
屋敷の貯蔵庫の中では最高級だという赤ワインで流し込んだ。
▽
昼食でまるまる一本の赤ワインを空けたエルミスは、平然とした顔で笑った。
これから仕事でランベルディ領へ向かうという。さすがに酔っているのではないかと思ったが、彼女は平気だと微笑む。
「ランベルディでも性悪領主からワインをせしめようと思います」
エルミスはだいぶクリストフのことを怒っていた。そのまま出陣でもしそうな雰囲気だったので、フィオリーナはほっと息をつく。ワインをクリストフから強奪するぐらいなら、きっと誰も傷つかない。
「ほどほどにな」
フィオリーナのとなりで見送っていたネーヴェが声をかけると、エルミスはあきれた顔をした。
「私を印象操作に使わないでください。他人に言えるようなきれいな関係でもないのですから」
「何のことだか」
こうやって軽口を言い合える関係はやはり親密に見えて、フィオリーナはうらやましい気持ちになる。それでも、エルミスは憑き物が落ちたようなさっぱりとした顔で笑うので、彼女が元気でいてくれさえすればいいような気がした。
「せいぜい隣で見張ることとします」
そう言って苦笑するオネストとともに、エルミスはランベルディへと発っていった。
彼らを見送るネーヴェはいつもと変わらない。
「……エルミスさまと何かお話になりました?」
フィオリーナの問いに、ネーヴェは少し首を傾げると何か思い至ったように苦笑する。
「特に何も。……まぁでも、彼女が元気ならそれでいいと思いませんか」
まったくフィオリーナと同じようなことを考えたらしい。
「そうですね」と微笑むと、ネーヴェも笑う。
エルミスとネーヴェのあいだにあるものは複雑だ。友愛か、親愛か。
それでも、名前のつかない関係はきっと大切なものだ。
部外者のフィオリーナでは名前のつけられないそれを、フィオリーナも大切にしたいと思った。
それもきっと、ネーヴェの大切な何かなのだから。




