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元軍人の宝石商が言うには

 それを聞かされたエルミスは、うららかな午前に似つかわしくない殺意を覚えた。


「……帰りはランベルディ領へ向かいますのであのクズとよく話し合いたいと思います」


 自分でも久しく出していなかった冷たい声が出て、目の前の白い顔が真っ青になってしまった。


「も、申し訳ありませんでした、エルミス様……」


 かわいそうなほど青ざめたお嬢様は、本当に申し訳なさそうに眉を下げて今にも泣きそうだった。これがまったくの演技で心の中で舌を出しているような女なら、エルミスはいくらでも悲劇のヒロインになりきることができたかもしれない。


(それはないか)


 次の夜会に向けてベロニカからの依頼でオルミ領を訪れた。いつものように衣装合わせをしていたが、フィオリーナの様子が何となくぎこちなくて、つい様子を探ってしまったのだ。

 そうして出てきたのが、エルミスがネーヴェと一時同居していたことをクリストフが喋ってしまったという最悪の暴露話だった。あの性悪貴族とは一度よく話し合わなければならない。


「フィオリーナ様は何も悪くないのですから、お気になさらないで……」


 そう言い掛けて、言葉に詰まった。ネーヴェに関することでフィオリーナが気にならないはずがないのだ。

 フィオリーナは自分のことを世間知らずというが、それだけではないことをエルミスも知っている。

 彼女は家のために自分の気持ちを押しとどめるような、美しい貴族の女性なのだ。

 エルミスは自嘲して膝の上で頬杖をついた。

 このフィオリーナの部屋には今はエルミスとふたりきりだ。

 暴露ははなはだ腹立たしいが、いつか話すときが来るとどこかで思っていた。


「本当に私のことは忘れてください。──私は、恋人ですらありませんでしたから」


 あのころのエルミスを振り返って感じるのは、自責と後悔だけだ。愛情ですらない。

 対面に座るフィオリーナは、もうエルミスを心配そうに見ている。


「……隊長から私の実家のことなどをお聞きになりました?」


 フィオリーナは迷うように目を伏せたが、やがてまっすぐにエルミスを見つめ返した。


「……申し訳ありません。わたくしがネーヴェさんから無理に聞き出してしまいました」


 言いたくないことだったはずなのに。

 そう呟いて唇を歪めるフィオリーナは美しかった。エルミスでは同じ立場でもこうはならなかっただろう。きっとネーヴェを悪し様に詰るだけ詰って、自分は悪くないのだと訴えた。

 ネーヴェは何でもできる優秀な男だが、何もできない男だ。

 優しくできない。思いやれない。気遣うこともない。──人を愛せない。

 そしてそれは、あの頃のエルミスも同じだった。



 十六歳で従軍し、五年の兵役を経てようやく戦争から生還したエルミスを待っていたのは、家族からの絶縁状だった。

 もう家の門扉をくぐらないでくれという手紙を、一張羅の軍服を着たまま受け取った。

 何かの間違いではと王都で問い合わせると、エルミスが受け取った勲章はすべて実家に没収され、すでに戸籍も除籍されていた。実家はエルミスの功績だけを奪って、娘本人はいらないからとゴミのように棄てたのだ。

 それからは本当にどうしようもなかった。

 優しいだけの悪い男に引っかかり、国から受け取った報償金をすべて奪われた。生活に困ったものの女だからと難癖をつけられて借金を重ね、気がつけばあっという間に売春窟に売られる寸前だった。

 大人の女になったのだと、絶縁された程度のことなどどうとでもなると高をくくっていたのだ。

 本当は何も知らない貴族の娘でしかなかったというのに。

 どうしようもないほどエルミスは世間知らずで、バカな女だった。

 そんな娼婦寸前の惨状をどこから聞きつけたのか、自暴自棄になっていたエルミスを引き取ったのがネーヴェだった。

 ネーヴェはエルミスのひどい様子を見ても眉ひとつ動かさなかった。戦場にいたときと同じように「忙しくて遅くなった」と言い訳して、オルミ領へとエルミスを連れ帰ったのだ。

 ネーヴェがオルミ領を分割されて領主となったことは知っていた。

 だから、領主のくせに古い家具だけを押し込めたような小さな屋敷に住んでいる有様に、驚いたものだ。

 老齢の使用人ふたりと庭だけを愛でるような隠遁とした生活は、戦場での活躍からは信じられない質素な暮らしぶりだった。戦場での天才もここまで落ちぶれるのかと思ったほどだ。

 ネーヴェは一日の大半を領地の視察と整備、奇病の研究に費やし、使用人に追い立てられてようやく慎ましい食事をとる。

 人形遣いと恐れられた魔術師の生活とは思えない、本当に静かな生活だった。

 屋敷に住むようになって体力が回復してからというもの、エルミスはネーヴェたちに何くれと口を出した。

 領地は小さくとも領主となったのなら社交界へ出て人脈を築き、領地を豊かにしていかなければならない。それが一般的な領主の仕事であるし、それが貴族の娘として育てられたエルミスにとっては当たり前だった。

 けれど、毎日のように領主について説いて聞かせたが、ネーヴェはすこしも考えを改めない。

 ちょうどそのころネーヴェは月鉱山の閉鎖や領民の移住を進めていて、エルミスはそのことにも当然のように反対した。

 わけのわからない奇病は治療法を見つければいいだけだと思っていたのだ。領民を増やし、領地が豊かになることこそが幸せだと思いこんでいた。

 あまりにもエルミスの思い通りにならなくて、まずはネーヴェを攻略しなければとますます見当違いな努力も重ねた。

 不摂生なネーヴェを教師のように諭してせっつき、良妻の真似をして台所で料理を作り、領主のそばにいるならふさわしい格好をしようとネーヴェにドレスまで作らせた。

 拒否されないことをいいことに、エルミスはいっぱしの領主夫人になった気になっていたのだ。

 だからある夜、この鬱屈した領地でくすぶっているネーヴェを焚きつけたくて、自分を女として抱けと脅した。

 たとえ愛情が無くても、ネーヴェと子供を作ればいいとさえ思っていた。貴族の結婚は元来そういうものであるし、子供さえできれば、このオルミを豊かにしていくエルミスは功績を認められる──エルミスは幸せになれると思っていたのだ。

 このときの、ネーヴェのさすがにあきれた顔をよくおぼえている。

 ベッドの上で待ち構えて裸でみだらに誘ったエルミスに向かって、まるでくだらない踊りでも見せられたように深い溜息をついたのだ。

 ネーヴェが戦場であっても女を切らしたことなどなかったことは知っているが、誰ひとりとして一晩以上を共にしなかった。そんなことを思い出しても後の祭りだ。

 気付いた時には、ネーヴェは見る者を凍りつかせるような冷笑を浮かべていた。


 ──ご高説を垂れるわりに、金の次は男が欲しいのか。


 彼の言葉に冷や水を浴びせられた。

 ネーヴェはたとえエルミスを抱いても愛さない。そのことをまざまざと示されたようだった。

 いくら行為だけに耽ったとしてもこの冷たい目を向けられれば、どれほど熱した体も心の底から冷えていくだろう。まるで裸で冬の雪道に立たされたほうがマシに思えるほどの冷たさだ。たとえ恋人と公言しても、この冷たさに耐えられる者などいなかっただろう。

 ネーヴェとの温度差をやっとわかった瞬間だった。

 ネーヴェはエルミスを愛しているのではなく、戦場を共にした部下を親切心から保護しただけだったのだ。

 そして、エルミスはネーヴェの親切を自己満足に利用しようとしていただけだった。

 このどこまでもむなしく、歪な関係をネーヴェは始めからわかっていたのだ。

 わかっていなかったのは、エルミスのほうだった。

 それでもこのときはまだ希望を持っていたかもしれない。

 とにかくネーヴェを欲情させればいいと、エルミスは彼の身体に触れようとした。

 それをあろうことかネーヴェはシーツで簀巻きにすると、そのまま抱えて風呂場に放り込んだ。

 呆然となった。

 何せそれまでは元部下という立場で、比較的信頼を寄せられていると少なくない自負があったのだ。他の女たちとは違うのだと優越感さえ持っていた。その優越感が醜いものとは知らないまま、女としてかわいいとさえ思っていた。

 そして、失意の中で風呂から上がったエルミスが見たのは、裏庭でベッドを解体しているネーヴェだった。ベッドには見覚えがあった。エルミスが客間で使っていたベッドだ。

 ネーヴェは解体するだけは飽きたらず、ベッドを寝具ごと燃やした。

 黒い燃えかすが吹き上がり、燃えさかる炎がベッドを丸ごと消し炭にしていく。

 その光景を唖然として見た。

 どうしてこんなことをするのか。

 こんなことをしたって、エルミスはまたネーヴェに誘いをかける。

 男なんて結局裸の女の前では獣といっしょだ。

 そんな風に口汚く罵った。しかしネーヴェは皮肉げな笑みを浮かべて煙草を吹かしていた。


 ──男を招くならこのベッドでは狭いだろう。


 今度は新しいベッドを買ってやろう、とネーヴェは煙を吐いて紫の目を細めた。それは戦場でよく見せた、獰猛な狼の目だった。


 ──君が望むなら、女衒の真似事でもしてやるさ。


 背筋が凍った。

 ネーヴェは男も調達してやると言うのだ。

 その前準備としてエルミスのベッドを処分したのだ。男を招きやすい広いベッドに変えるために。

 エルミスのふるまいにこんなに怒るとは思ってもみなかった。

 けれど、このときのエルミスにはネーヴェがどうしてこれほど怒ったのか理解できなかった。

 エルミスは悪くないはずだ。

 それがエルミスの都合をどれほどネーヴェに押し付けていたとしても、許されるはずだった。

 それでも、ネーヴェがこれまでにないほど怒気をあらわにしているのは明白で、これ以上エルミスの横暴を許さないであろうことだけは分かった。

 エルミスがネーヴェを利用しようとしたのと同じく、ネーヴェはこれから先もエルミスを女として抱かないどころか愛そうともしないのだろう。

 何事も決断の早いネーヴェがやることだ。彼が断言するのなら、きっと明日にでも男を調達してきてエルミスのベッドに放り込む。

 このときようやく、エルミスは屋敷を出ていくことを決意した。


 自分で逃げ出すようにしてオルミ領を飛び出したというのに、エルミスは自分ばかりが被害者だとネーヴェばかりをなじっていたように思う。あんな冷血漢を一時でも更正させようと体まで差し出そうとしたのは間違いだったと。

 エルミスの認識が間違っていたのだと気付いたのは、本当に最近のことだ。




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