堅物の兄が言うには
アーラントは戦場の光景をよく覚えている。
送られた配属場所は後方支援とは名ばかりで、敵の魔術攻撃にさらされる古びた拠点だった。前線へ物資を届ける輸送部隊では、連日誰かが死んでいた。
救援も物資も滞りがちなその場所で、誰もが自分だけ生き残ろうと必死だったように思う。かくいうアーラントもそのひとりであったからだ。
(あの頃はこうして庭を眺めていることなど、想像もできなかった)
書類を確認しながら、対面する若者を盗み見る。
アーラントよりも四歳年下のこの領主は、調査によれば十一歳の頃からあの戦場で暮らしていたという。
十年続いた長い戦争と共に成長し、戦場で天才とも怪物とも呼ばれた魔術師は、魔術師の研究機関である“塔”にも入らず、この片田舎で奇病の研究をしている。
「──どうかされましたか?」
アーラントの視線に目敏く顔を上げる彼の立ち居振る舞いは、魔術師というより歴戦の武人のようだった。実際、彼に接近戦を挑んで生きていた敵はいないという。魔術を使えば、彼は率いていた部隊名通り戦場の死神として君臨していた。
そんな物々しい異名や実績を持つとは思えないほど、彼の容姿は整っている。停戦に湧いた当時の社交界でひときわ騒がれたほどだ。だが今こうして対面している彼は、アーラントの目にはただの学者然とした若者にしか見えなかった。
「……少し懐かしく思っただけです。私も、あなたが活躍された同じ戦場におりましたので」
アーラントの答えに「ああ」とネーヴェは困ったように苦笑する。
「テスタ卿も従軍されていたのですね」
「ええ。三年ほどですが」
そう言ってアーラントが書類をテーブルに置くと、ネーヴェは不思議そうに首を傾げる。その様子はどこにでもいる若者で、人形遣いと呼ばれた戦場での悪名とは結びつかない。
その様子に、アーラントは家族にも話したことのない思い出が口をついて出た。
「……私は、あなたに助けられてここにいるのです」
三年の軍役期間の終了間近、アーラントは輸送部隊にいた。その部隊が例に漏れず敵の襲撃を受け、部隊は壊滅状態となった。
それを救ったのが、死神小隊と呼ばれていたネーヴェの部隊だ。
噂には聞いていた。揃いの黒い軍服はまさしく死神で、敵はもちろんのこと味方からも忌避されていた。
けれど、死を覚悟したアーラントはその死神に救われたのだ。
──その光景をよく覚えている。
部隊仲間が次々倒れていく中、わずか数人でやってきたかと思えば、あっという間に魔術で敵を制圧してしまった。長い裾の軍服を爆風が舞い上げて、隊長と呼ばれた彼が手もかざさずに魔術を展開させたのだ。
魔術でその場を圧倒的に支配しながら、彼はまるで散歩にでも来たような気軽さで、それでいて世界で一番つまらない場所にいるような顔で戦場に立っていた。
「その軍服でしたら確かに私の部隊ですが、私とは限らないですよ」
ネーヴェは苦笑しながら答えるが、アーラントは軽く首を横に振る。
「私も最初はわかりませんでしたよ。──今のあなたは以前と似ても似つかない」
アーラントが覚えている以前のネーヴェはまるで狼のような男だった。間違っても日当たりのいい応接間で談笑している学者にはとうてい見えなかった。
ネーヴェの弁解に、アーラントがにやりと笑うと若者は苦笑に相好を崩す。
「……そのことは秘密にしていただけますか」
フィオリーナの様子からして彼が隠したがっていることはわかっていたが、アーラントにはいまいち解せない。
「フィオリーナはあなたにとても懐いているようです。どうして隠したいのですか?」
「……できれば、一生明かしたくないので」
その必死な様子に思わず笑ってしまうと、ネーヴェはますます顔をしかめた。
「……まったく、どうかしていますよ。まさか、戦場で助けられたから妹御を私に預けたのですか?」
「そこまでのお人好しに見られたことは、人生で初めてですよ」
はは、と笑うアーラントに、ネーヴェもつられて苦笑する。
「……交渉の場で、フィオリーナに同席してもらうのは止めることにします」
そう言って笑うネーヴェに、アーラントは納得した思いになった。
これは、どんな思惑よりも単純なことだったのだ。
「──この訴訟は、私も全面的にお手伝いさせていただきます。この奇病についても、放置しておいて良い問題ではありませんから」
この問題はすでに多方面に影響を及ぼしているからだ。カミルヴァルト家だけの話ではなく、ザカリーニ家、ひいては王国の問題となる。すくなくとも奇病については訴訟を起こすことによって、良し悪しに関わらず必ず変化が起こる。アーラント個人としても、司法取引まで手引きさせられたカミルヴァルトの親族たちに一泡吹かせてやれる。オルミ領に繋がりそうな手引きには承諾しなかったものの、弱味を握られたことには違いなかったのだ。
アーラントが見据えると、ネーヴェもうなずいた。その双眸は成功だけではなく幾度となく辛酸を舐めてきた瞳で、強くしなやかな決意が垣間見えた。
「よろしくお願いいたします。テスタ卿」
そう言って、ネーヴェは視線を少しだけ庭へと向ける。
「……フィオリーナ嬢にも感謝申し上げます。彼女のおかげで、ここまで来ることができました」
長い道のりをひとりで歩いてきたような声は、ようやくひとりで抱えていた重い荷物を降ろしたようにも聞こえた。
アーラントも庭に目を向ける。穏やかな午後の庭は手入れをしているようにも見えないというのに、不思議と美しく見えた。
その庭を、見慣れない日傘をさした妹が小径を縫うように歩いている。書類をつきあわせているアーラントたちを見て気を使ったのか、妹は席を外したのだ。
その妹の様子を眺める若者は殊の外やわらかい笑みを浮かべていて、見ているこちらが恥ずかしくなりそうなほど穏やかだ。
このふたりの縁に引き寄せられたアーラントがここにいることには、かならず意味がある。
「……私が戦場であなたに助けられたことは、確かにきっかけではありますが」
ネーヴェが誰も助けなければ、きっと誰も彼のそばにはいない。
「あなたが助けなければ、きっと私はここにはいないでしょう。──あなたの行動が手繰り寄せているのですよ」
アーラントの言葉に、ネーヴェは向き直ると「はは」と笑う。
「人助けはしておくものですね」
困ったように笑う顔には様々なことが滲んで見える。だが、今ここに生きていることがすべての結果だ。
結局、アーラントの理由も単純なものだ。
「これからも妹をよろしくお願いします。オルミ卿」
兄として妹の幸せを願ってやまないだけなのだ。
▽
兄は夕方近くまでネーヴェと話し合い、すぐにこれから王都へ帰るという。夜更けの旅は危険なため、マーレが馬車を出して王都近くの領まで送ることとなった。
「これから忙しくなるからな。時間は有効に使う」
仕事人間のアーラントらしい言葉にフィオリーナが苦笑すると、兄はすこしだけ笑う。あまり表情を変えない兄には珍しいことだ。
「おまえの元気そうな顔が見られて良かった」
「わたくしも、お兄さまにお会いできて良かったです。……お仕事はほどほどになさってくださいね」
アーラントもネーヴェも、仕事に夢中になるとすぐに無理をするのだ。そう注意するフィオリーナにアーラントは苦笑すると、フィオリーナのとなりで見送りに出ていたネーヴェに視線を向ける。
「妹をよろしくお願いいたします」
「はい。承りました」
いつものように飄々とした様子で答えるネーヴェに、アーラントは口の端を引き上げた。
「今のところは、私もあなたの秘密は守ることにしましょう。今後も秘密にできると良いですな」
アーラントの意味深な言葉にネーヴェは「ぐっ」と喉を詰まらせるようにうなった。
「……ご心配なく」
絞り出すようなネーヴェの答えに、アーラントは楽しげに笑う。
「吉報を楽しみにしています」
アーラントの言う吉報とは、ネーヴェの秘密が明るみになってしまうことだろうか。フィオリーナがネーヴェを振り返ると、彼は顔をひきつらせて苦笑いしている。
よほどの秘密を兄に握られてしまったようだ。
「……あの、言いたくないことはわたくしには仰らないで良いですから」
気の毒に思ってフィオリーナがそう口にしたというのに、アーラントと兄を送るために控えていたマーレが口元を抑えた。笑いをこらえたのだ。
ネーヴェは何かに耐えるように、肺から空気を追い出すような長い溜息をついた。
「……ありがとうございます。今後も気取られないよう気を付けるとしますよ」
ネーヴェにしては不格好に繕って、苦笑いを浮かべる。口だけ動かすような独り言がかすかに聞こえた。
──できれば一生気付かないでほしいので。




