帽子が言うには
兄のアーラントがオルミ領へふたたびやってきたのは、果実の収穫が落ち着いた秋のはじめだった。
フィオリーナの熱が下がってからネーヴェと共に手紙を出すと、アーラントはすぐに都合をつけてくれたのだ。
変わらず冷たいほど実直な雰囲気の兄だったが、屋敷で出迎えたフィオリーナを見てすこしだけ頬をゆるめた。
「元気になったな。見違えた」
そのほっとしたような言葉に、フィオリーナも微笑んだ。
カリニに杖と帽子を預けたアーラントは、さっそくきびきびと応接間でネーヴェを待った。
大量の書類と共にやってきたネーヴェは挨拶をしようとするアーラントをまた制す。
「今日は私の都合でお呼び立てしたのですから。お忙しい中、応じてくださってありがとうございます。テスタ卿」
ネーヴェはそう言って応接間のテーブルに書類を広げる。
アーラントは苦笑するようにそのまま席についた。
フィオリーナも同席したかったが、こういう場に女性はいないほうが良いとされている。けれど、ネーヴェはフィオリーナを呼び寄せた。
「フィオリーナ、あなたもこちらへ」
「でも……」
「あなたの提案なのですから、発案者も同席してください」
そう言われては断れない。フィオリーナはネーヴェの隣に座った。
その様子を黙って見ていたアーラントだったが、結局何も言わないまま書類に視線を落とす。
少し読み進めたアーラントは、ふと顔を上げる。
「この書面は妹に見せてもよろしいか?」
アーラントの提案に、ネーヴェはすこし考えるように目を伏せたがうなずいた。
「面白いものではありませんけれどね」
苦笑するネーヴェの許可を得て、アーラントはフィオリーナに読み終わった書面を回してくれる。
几帳面なネーヴェの文字でつづられていたのは、この五年でオルミ領が被った被害の数々だった。
街道の通行妨害。物資輸送の妨害。採掘師への移住の執拗な勧誘。オルミ領との流通への課税。領民への恐喝。──そして今回の領地侵犯ともいえる戦闘。
どれも嫌がらせというには範疇を逸脱しているように思われた。
青ざめたフィオリーナを見咎めたのか、アーラントは次の書類を渡してはこなかった。
「……ざっと読んだかぎりでも、これが公になっていないことのほうが不思議に思うのですが」
アーラントが灰色の双眸を細めると、ネーヴェは言葉を選ぶように考えながら口を開いた。
「一応、私には領主の権限がありますから、実行犯への尋問や罪を科すことでその都度対応はしています。しかし、真犯人までは手が及ばないのです」
「理由を伺っても?」
揺るがないアーラントに、ネーヴェは珍しく言いよどんだが、あきらめたように答えた。
「……犯人はわかっているのです。私の実家、カミルヴァルト家の親族たちです」
王国の北部一帯を支配するカミルヴァルト家は五侯と呼ばれる大貴族の一角だ。その親族ともなれば、いったいどれほどの人数となるだろうか。
「身内の恥をさらすようですが」とネーヴェは前置きして、
「親族からの、私への妨害は軍人時代から日常的に繰り返されてきました。これは本家の父の耳にも入っているでしょうが、何人もの親族を介した大小さまざまなちょっとした妨害まで咎めるつもりはないようです」
ネーヴェがオルミ領に関することで書き出した妨害の数々は、彼のいうところのちょっとした妨害ではすまない。だが、いずれも実行犯は盗賊であったり、いち地方領の政策であったりするので、ネーヴェへの妨害だと断定しづらくなっている。
この妨害のひとつが、フィオリーナがこのオルミに来ることになった婚約話だったのだろう。
もっとも、この遠回しな嫌がらせはザカリーニとの繋がりを求めたネーヴェに逆手に取られてしまっている。
フィオリーナにとっては転機だったに違いないが、ネーヴェにとっても様々な口実で助力を得られる機会だった。
そう思うと、ただの妨害だったと決めつけられなかった。
「先日の戦闘では、あきらかに私の命を狙ってくる意図がありましたが、実行犯を尋問しても雇い主以上の情報は得られませんでした」
ネーヴェの口振りでは、雇い主を突き止めた程度では事態が収束しないことを物語っていた。実行犯の雇い主が真犯人ではないのだ。
「もともと親族の気まぐれで攻撃を仕掛けられるので、犯人ですら仔細など覚えていないと思います」
ネーヴェは自嘲するように口の端を上げた。
「……私ひとりが標的ならいくらでも対処のしようがあるのですが、この領地があることで正直身動きが取りづらいのです。それを見越して、私をオルミ領へと押し込めたのでしょう」
ネーヴェ個人の被害であるならどういう手段をとるにせよ、身軽であることには違いない。先日の戦闘で分かったことだが、貴族であるという以前にネーヴェ自身を害することこそが容易なことではないからだ。
「なるほど」とアーラントは書類のひと束を読み終えて、ネーヴェに向き直る。
「たしかに厄介ですね。今回の戦闘についても、規模こそ大きいが戦後に厄介事を抱えたくない国に訴えたところで、親族間争いとして片付けられてほとんど根本的な解決にはならない可能性が高い」
親族間の争いは国は不介入が基本だというものの、事件として取り上げるには先の侵攻は規模が大き過ぎるというのだ。
アーラントは溜息混じりに書類に視線を落とす。
「このことが公になれば最悪、内紛ともとられかねない。……北部戦線終結から五年しか経っていないこの状況で、国がこの問題を取り上げることはおそらく難しいでしょう」
貴族だといったところで、グラスラウンド王国の住民である以上、国の方針には従うしかない。王家の権力が強いこの国では、王家の不利益になる事態は極論抹消されかねない。
「──私ひとりが領を失ったとしても、それは仕方のないことだと思っています」
でも、とネーヴェはアーラントを見つめ返した。
「オルミの人々は、常にカミルヴァルト家に生活を左右されています。彼らがこれ以上不利益を被ることだけは避けたいのです」
欺瞞ともとられかねない言葉だ。でも、ネーヴェはまっすぐにアーラントを見つめている。すでに決めていたことなのだろう。最悪の場合、ネーヴェはオルミを去ることも辞さないつもりなのだ。
アーラントはネーヴェの視線をしばらく見返していたが、次の書類を手に取る。
「……ザカリーニ家に恩を売ろうとお考えだったのは、このためだったのですね」
アーラントの指摘にネーヴェは目を伏せて苦笑する。フィオリーナが滞在して日の浅いころに彼が語った親族たちとの確執は、おぞましいほどの温度で逼迫していたのだということが実感させられた。
「……ザカリーニ家とのつながりがあれば、少なくともしばらくはこのような襲撃はないと思っていたので」
誤算でした、とネーヴェは口元を歪めるようにして苦笑いする。
そんなネーヴェにアーラントは淡々と穏やかな口調で答えた。
「どこにでも愚かな者はいます。おそらく、ザカリーニ家とのつながりを知って焦った結果でしょう」
書類に視線を落としていたアーラントは、書類から顔を上げる。
「──ザカリーニ家がこの件には関与しないとしたら、あなたはどうなさるおつもりですか?」
アーラントの静かな視線を受けて、ネーヴェはふとかたわらのフィオリーナに目を向ける。まるで存在を確認するような視線でフィオリーナを眺めて、ネーヴェはアーラントに向き直る。
「助けを受けられなくても変わりません」
いつもと変わらない声だというのに、どこか空虚だった。
「あなたの大切な妹姫はお返ししましょう。……今回の件が起こったときから、そのつもりでしたから」
今度はフィオリーナがネーヴェを凝視した。ネーヴェはフィオリーナに視線を寄越すと菫色の瞳を細めて「すみません」と口にする。
「あなたの身を危険にさらしたのですから、当然のことですよ」
「そんな……」
ネーヴェの言葉の通りなら、本当にフィオリーナはネーヴェとザカリーニを繋ぐ生きた契約書でしかないのだ。
貴族の娘はそうとしか生きられないのだとあきらめたばかりだというのに、ネーヴェはそれすら許してくれないのか。
「計画のことなら心配しないでください。クリストフたちがいればたいていのことはうまくいきます。私も、もちろん手助けを惜しみませんから」
まさか、とフィオリーナは息を呑む。こうなることも最初から想定してネーヴェはエルミスたちやベロニカたちとフィオリーナを引き合わせたのだろうか。
たしかに彼らの助けがあれば舞踏会への参加は難しくとも、社交界への復帰は難しくないだろう。
(でも)
社交界に明るくないネーヴェとの接点は、ほとんど無くしてしまうことになる。
──本当にときどきうんざりするほど周到な人だ。
フィオリーナの気持ちなどまったく意に介さず、誰にも相談しないで解決しようとする。
そのことがフィオリーナはたまらなく悲しいと思うというのに、それを言えないことで喉が張り裂けそうだった。
生きた契約書であるフィオリーナが傷つく資格もないとわかっているのに、顔が歪んでいくのを止められなかった。
フィオリーナといっしょに目の前の菫色の瞳も傷ついていくと、もう知っているのに。
「……フィオリーナ」
ためらうような呼び声が悲しかった。
「あなたなら大丈夫。心配いりませんよ。……こんなところでくすぶっていないで、もっと幸せになってください」
ネーヴェの突き放すような言葉は、フィオリーナをいつでも遠くへ放り投げる。けれど、今度はどこへもいけない荒野に放り込まれたようだった。
「──それは困ります。オルミ卿」
突然表れた道標のようにアーラントが口を挟んだ。
「お言葉ですが、妹はもうあなたに預けたのです。最後まで守っていただかなくては」
アーラントの言葉に、ネーヴェは目に見えて不審げに眉根を寄せた。
「しかし……あなたが思うほどここは安全ではありませんよ」
そういうネーヴェにアーラントは当然といわんばかりにうなずく。
「安全でないのはザカリーニ領でも同じです。すでにこの件にフィオリーナは深く関わっている。事情を知る者が貴族だからと安全でないのは、あなたが一番よくご存じのはずです」
アーラントの言葉で、ネーヴェはフィオリーナを振り返る。その顔はいろいろな感情がない交ぜになって複雑に歪んでいた。
「オルミ卿」とアーラントが呼びかける。
「ザカリーニに、たったひとりでひとつの領地を守りきるような護衛はいないのですよ。それとも、あなたが妹の護衛としてザカリーニに来てくださるのですか?」
本末転倒とはこのことだろう。いくらネーヴェが優れた魔術師でもオルミは離れられない。
平然と言うアーラントに、ネーヴェは目を伏せて額をおさえた。
「……テスタ卿。あなたは大事な妹を戦場に置こうというのですか」
厳しい言葉はネーヴェの苦し紛れだとわかったのか、アーラントは鉄面皮をゆるめた。
「私は、あなたを良い領主だと判断して妹を預けたのです。それは今も変わらない」
フィオリーナは思わずアーラントを見た。そういえば、兄は最初からネーヴェの領地経営を問題ないと評していたのだ。
思えば、あまり人を褒めない兄の最大の評価だった。
「妹が私を頼ったのは妙案でした。やっと私もあなたに恩を売ることができる」
アーラントがお世辞にも人がいいとは言えない笑みを深めると、ネーヴェは深く溜息をついた。
「……腐れ縁の戦友の言うことなど、戯言と聞き流していたのが仇となりました」
そう言って苦笑すると、ネーヴェは切り替えるようにして姿勢を正す。
「──私を良い領主だと評してくださるのなら、あなたの策を伺ってもよろしいですか。テスタ卿」
アーラントはネーヴェの言葉にうなずいて、書類のひと束を手に取る。
月鉱山の奇病についてと書いてある書類だ。
「月鉱山の奇病被害を、ティエリ領を相手に訴えるのです」
そう言うと、アーラントは書類をめくった。
「あなたの聞き取り調査では、月鉱山の奇病はティエリ領時代から放置されているものでしたね? この国で一番古い鉱山から奇病についてこれだけ報告例が多く上がっているというのに、ティエリ領は今に至るまで鉱脈の開発のために採掘師を奇病で苦しめ続けてきた。──このことを鉱山師や採掘師たちに証言させて訴訟を起こすのです」
平民が領主を相手に訴訟を起こすことは実質不可能に近いが、領地同士であるなら貴族同士の裁判となる。被害者たちはその裁判で文字通り生きた証拠となるのだ。
「あなたが今回捕らえた捕虜は十分交渉材料になる。捕虜との交換条件で黙らせているあいだに元採掘師たちや鉱山師を原告団として集めるのです。あなたが領主として訴えることで少なくともティエリ領は表舞台に引きずり出すことができる。カミルヴァルトの親族たちも裏から手を回すばかりではいられなくなるはずです」
アーラントはそこまで言い切って、尋ねるようにしてネーヴェに視線を向けた。
訴訟を起こすにはネーヴェだけではとうてい手が及ばないほどの手間と時間がかかる。カミルヴァルト家やティエリ領の立ち回り方次第では、うまくことが運ぶかもわからない。綱渡りのような難しいことだ。
それでも、菫色の瞳がまるで一筋の光を得たように輝いた。
菫色がまるで初めて空でも見たように、澄んだ光を映していた。
──こんな瞳をフィオリーナはどこかで見たことがある。
それはおぼろげな記憶ではなく、確信だった。
(いったいどこで)
フィオリーナが記憶の箱を探り始めたとなりで、それを遮るようにネーヴェは静かに答えた。
「……ありがとうございます、テスタ卿。ご相談して本当に良かった」
そう言って、ネーヴェは深く頭を下げた。




