吐息が言うには
少し早い夕食は、野菜のクリームスープと肉と野菜の包み煮込みだった。薬草を使った味付けは、ネーヴェの体調を気遣った食べやすくて優しい味だ。
クリストフの晩酌に付き合っていたネーヴェは食後のワインは飲まず、眠そうにサンルームへと向かうのでフィオリーナもついていくことにした。
ネーヴェはすこし休むというので、ホーネットがクッションとホットミルクを持ってきてくれた。
「もう子供じゃないよ」
苦笑するネーヴェに、ホーネットは鼻を鳴らす。
「では、子供のようなふるまいはお控えくださいな」
ネーヴェはおとなしく膝掛けとクッションを受け取った。ホーネットにも頭が上がらないのだ。
「こちらに座ってください」
ネーヴェはフィオリーナにカウチを譲ろうとするが、それは彼が座るべきだ。
「じゃあ、あれにしましょう」と小さなテーブルにホットミルクを置いて、ネーヴェは部屋の隅にあった肘掛け椅子を持ち出してくれた。しっかりとした造りの椅子で、クッションを置けば座り心地も良さそうだ。
ネーヴェはホーネットから渡された膝掛けを椅子にかけてしまう。
「ネーヴェさんが使ってください」
「まだ夏だからいいんですよ」
そう言ってぽんぽんとクッションも置いてフィオリーナを座らせると、ネーヴェはカウチの肘掛けに別のクッションを積んで背中を預けて座った。
サンルームの窓からはあいかわらず緑ばかりが見えたが、木々の向こうに星空が見えている。
ネーヴェがランプの明かりを少し絞ると、サンルームはまるで夜の森の中のようになった。
ホットミルクの甘いかおりに誘われるようにして口をつけると、体の中がじんわりと温まる。まだ眠れそうになかったが、ホットミルクのおかげで早く眠れるかもしれない。
「──そういえば、夜会の話をまだ詳しく聞いていませんでしたね」
ネーヴェに水を向けられて、フィオリーナもようやく気付いた。忙しくてすっかり後回しになっていたのだ。
「……今回は、ネーヴェさんのことをご存じの大学教授の方にお会いしたのです」
気分が悪くなったこと以外、カスケードとジリア夫妻のこと、元婚約者の友人に遭ったこと、悪女と知りながら挨拶してきた貴族たちのことを話した。
「世間で噂の悪女があなただという認識が広まってきているようですね」
いい傾向です、とクリストフと同じような見解を口にして、ネーヴェは少し考えるようにクッションにもたれかかる。
「あなたの噂をもう少し調べてみる必要がありそうです。噂の広がり方が綺麗過ぎる」
王都から広がったという噂はすでにほとんどの貴族が知るところだが、噂の中身は広まった当初からほぼ変わっていない。
「噂というものは人の口を渡れば渡るほど真偽不明の尾鰭がつくものですが、この噂は一貫しているんです」
悪女はフィオリーナ・テスタ・ザカリーニという名前であること。
多くの男性を誘惑すること。
どんなに派生した噂であってもこの二つは決して文言から外れないという。
「それに、噂の尾鰭にありがちな、自称あやしい魔術の被害者もいなければ、当の悪女と戯れたという男もいない。フィオリーナという悪女と関わったという嘘を吹聴する者すらひとりもいないこともやはり不自然です。──まるで誰かひとりが、知人に悪口を言いふらして周囲に信じ込ませたような噂です」
ネーヴェの推察にフィオリーナはぎくりとした。それは話していないことだ。
元婚約者であるシリウスが、婚約当初からフィオリーナについてまるで悪女であるかのように周囲に言いふらしていたこと。
これはフィオリーナが確かめなければならないことだ。
小さく覚悟を決めているフィオリーナを横目に、ネーヴェは別のことを口にした。
「大学教授のカスケード・アルフェド氏なら手紙を出したことがありますよ。ミレアの弟の件で」
別の話題に移ったことにほっとして、フィオリーナは顔を上げる。
「教授からも伺いました。一度、お会いになってみてはどうでしょうか」
フィオリーナの提案にネーヴェは「そうですね」と息をつく。
「ブラッドリーにも相談してみますよ。専門家の知見を得られるのはありがたいことですから」
奇病の公表には積極的ではないが、ネーヴェが解決策を探していることには変わらない。
少しでも前向きな収穫を得られて、フィオリーナも胸をなで下ろす。
「……しかし、あなたにとっては本当に怒濤のような二日間でしたね。疲れたでしょう、フィオリーナ」
苦笑するネーヴェに、フィオリーナも苦笑いになる。あらゆることがひと息に押し寄せてきて、未だに心身ともに浮き足立っている。今日こそはゆっくり眠りたい。
「ネーヴェさんも、しばらくゆっくりしてくださいね」
フィオリーナの苦言に、ネーヴェはのんびりと笑う。
「大丈夫ですよ。慣れていますから」
短い言葉の中に、長い戦場暮らしが垣間見えた。
「……本当にお体を大事になさってください。もうここは、戦場ではないのですから」
カリニから伝え聞いたネーヴェの過去は、フィオリーナのほうが苦しくなってしまうほど壮絶だった。
膝に置いた手を見つめていると、溜息のような笑い声が聞こえた。
「……私が寝ているあいだに、暴露大会でもしていたんですか?」
フィオリーナが自分のことを聞いたと悟ってしまったのだろう。顔を上げると、ネーヴェは困ったように笑った。
「どこまで聞きました?」
「……十一歳のころから、戦場へ赴かれたと」
ああ、とネーヴェは息をつくようにうなずいてクッションの上で目を伏せる。
「──父が厳しかったことはもう話しましたね。出征は、北部戦線の召集令状を受け取った父に命じられたんです」
当時、ネーヴェの父であるカミルヴァルト当主は三十六歳。本来なら一族から代理を見繕うところを、カミルヴァルト家当主自ら出征を決めた。そして親族からの勧めもあってか、わずか十一歳のネーヴェを戦場へ伴うことも決めたという。
「魔導師団の師団長で少将、というのが父の仰せつかった役目でしてね。徴兵年齢が大幅に引き下げられるほど戦況は逼迫していましたし、息子である私が行かないわけにもいかなかったんです」
それでも十一歳の子供を戦場へ送り込んでいい理由にはならない。
思わず顔をしかめるフィオリーナに、ネーヴェはいっそ穏やかな声で続ける。
「待遇は良かったと思いますよ。一応、少将の息子ですから、父の師団直属の小隊を任されて……私の上司は名実ともに父だけだったんです」
それがどういう意味を持つのかフィオリーナにはわからなかった。戸惑いを感じたのか、ネーヴェは苦笑してフィオリーナへ目を向ける。
「気持ちのいい話ではないですよ」
それでも聞きますか、と言われてフィオリーナはうなずく。話していいと思われるなら、どんな話でも聞きたかった。
そんなフィオリーナの様子をたしかめるようにして、ネーヴェは言葉を選ぶようにゆっくりと続ける。
「──上司が父だけで良かったというのは、子供だった私が上司や同僚からあらゆる虐待を受けずに済んだということです」
虐待という言葉に肌が総毛立つのを感じた。フィオリーナが青ざめたのを感じたのか、ネーヴェは話を切るように息をつく。
「……戦場は、そもそも子供が行くような場所ではありませんからね。本来、誰かの庇護が必要な者が居ていい場所ではないんです」
弱い者から死んでいく場所だ、とネーヴェは言ってすこし目をすがめた。
敵は弱いとみなした者から狙っていくし、味方であってもあらゆる鬱憤のはけ口を探している。
それが戦場なのだとネーヴェは穏やかな声で言う。
「私は名目上であっても、一隊を任されましたからそれなりの待遇だったんです。エルミスやクリストフたちのように十代で一般兵として投入された子供とは違っているんですよ。──かくいう私の部隊は、そんな子供ばかりを任されましてね。彼らも幸運なほうだったと思いますよ。隊長の私も子供でしたから」
ネーヴェの部隊が、年端もいかない少年少女だけで構成されるような小隊になっていったのは自然のことだったのかもしれない。
当然部隊には大人も所属していたが、良識ある大人は子供をかばってみんな死んでしまった。
ネーヴェは溜息交じりに漏らした。
「幸運にも私たちは大人になりましたが、同僚も部下も、何人も死にました。──私は、自分がとくべつ不幸だなんて思ったことはないんですよ」
ネーヴェは溜息のようにやわらかな声で続ける。
「──本当に不幸だったのは、戦場であっけなく死んだ彼らのほうです」
まるで瞑目するようなネーヴェの言葉に、フィオリーナは言い表せない感情を持て余した。
ネーヴェの経歴だけを表面的に聞いたときとは違う、血肉を割くような告白は生々しくフィオリーナの想像を肉づける。
恐ろしい魔術で敵を圧倒する部隊の中で、子供たちが身を寄せ合って戦場を生き抜いていた。
そんな戦場にネーヴェは十年もいたという。
温かい団欒も、語らいのある食事も、人との触れ合いも、彼はすべて戦場で経験していたのだ。
(やっぱりエルミス様がうらやましい)
ネーヴェがそんな戦場を共に駆けたエルミスの不幸を放っておくことなどできるはずがない。彼にとっては部隊こそが家族も同然だったはずだ。
非情な現実を誰より目の当たりにしながら、生き抜いてきた人なのだから。
「……やっぱり話すんじゃなかったな」
ふわりと薬草の匂いが香る。
いつのまにかネーヴェがフィオリーナの前で膝をついていた。こちらを見上げて、長い指をためらうように差し出してくる。
その指が頬に触れると──濡れている。
そうしてやっとフィオリーナは自分が涙を流していることに気付いた。
泣いていたことにも気がつかなかった。
(だって)
フィオリーナは泣きそうになっても、泣いたことなどなかった。それは悪女と噂されても同じだった。精神的に滅入ってしまったが、泣くことはなかったのだ。
女性は泣くものだと思われがちだが、貴族の娘は感情を抑えるよう教育される。いつでも我慢強く、ましてや泣いて困らせるようなことがあってはならなかった。
「…も…もうしわけありませ…」
どうしても涙が止まらない。
恥ずかしい。はしたない。
そうわかっているのに、頬に添えられた手が温かくてまた涙が出てくる。
「…み、見ないで…」
どうにか顔を隠そうとするのに、ネーヴェはそれを許してくれなかった。
「どうして?」
闇に溶けるほど優しい声がささやいてくる。
「私のために泣いてくれているのに、慰めるのは特権でしょう?」
こんなときにまでからかってくるなんて、本当にひどい人だ。
ぐずる子供をあやすように、大きな手がフィオリーナの両頬を包む。
「……あなたが泣いてくれたから、私はもう救われましたよ」
──ありがとう。
濡れたまぶたに口づけるような声だった。
泣いて救われようとしているのはフィオリーナのほうだ。ネーヴェの過去を何一つ受け止められなかった。
泣いてしまうのは卑怯だ。それでも、一度堰を切って溢れた涙は止まらなかった。
「…ネーヴェさん…」
「はい」
「ネーヴェさん……」
あなたが無事で良かったと伝えたいのに、言葉にはならなかった。
その代わりのように、ネーヴェは「はい」とうなずいて、泣いているフィオリーナを眺めている。ひどい悪趣味だ。
「…見ないでください…」
恥ずかしいのだと伝わったはずだが、ネーヴェは苦笑するだけだった。
「こんなにかわいいのに?」
「……かわいくなんて、ありません」
声がうわずってうまく言葉にもならない。
頑ななフィオリーナの態度に、ネーヴェは小さく息をついたかと思うと、フィオリーナに覆いかぶさった。
椅子ごと長身に囲われて思わず驚いたフィオリーナを、ネーヴェは当然のように抱き上げた。
悲鳴も上げられないフィオリーナを連れてカウチに座ると、そのまま自分の膝にのせてしまう。
腰を抱かれてしまっては、ネーヴェの硬い肩に顔をのせるように身じろぎするぐらいしか動けない。
これではまるで猫の仔だ。
奇妙な既視感を感じながら、大きな手に髪を撫でられると驚きもおさまってくるから不思議だった。
「これなら顔は見えませんよ」
横暴だと思ったが、こぼれた涙はネーヴェのワイシャツに吸い込まれていく。
彼に染みついた煙草のかおりがいつかのようにフィオリーナを包んだ。
「……ネーヴェさん」
「はい」
肩口に顔を押しつけたフィオリーナの呼びかけに律儀に答えながら、ネーヴェは彼女の髪を撫でている。
「……また触れない約束を破ってしまいましたね」
ネーヴェは自嘲するように笑った。
もう何度目だろうか。ネーヴェが触れるたびに心が近くなってしまう気がした。
「私のことは、ハンカチかタオルだと思ってください。……ここにいますから」
冗談めかしたネーヴェの声はどこまでも優しい。
「……ネーヴェさんは、わたくしのことを何だと思うのですか?」
フィオリーナにとってネーヴェがハンカチなら、ネーヴェにとってフィオリーナは何になるのだろうか。
子供のように無邪気に口をついて出た質問だったが、ネーヴェは何が面白いのか静かに笑った。
「そうですね」と言う声が近い。耳元でささやくようにして、ネーヴェはゆっくりと答える。
「お預かりしている──大切な人ですよ」
ネーヴェのことはハンカチだというのに、フィオリーナは人間だというのか。
やっぱりこの人は基準がおかしい。
フィオリーナにとってもネーヴェは大切な人だというのに、ネーヴェ自身は自分をちっとも大事にしない。
そう思うと、涙はまだ止まりそうになかった。
温かい肩に熱を持った額を押しつけると、ぽたぽたと涙がこぼれていく。
この涙でネーヴェの冷たい雪がすこしは溶けてはくれないだろうか。
雪が解ければ、ネーヴェもすこしは温かくなるはずだ。
ぼんやりと支離滅裂になっていく意識の中で、やわらかな声が呼びかけてくる。
「フィオリーナ?」
答える代わりに肩に頬を寄せると、あきらめたように長い腕がフィオリーナを包んだ。
遠くなる薄闇の中で、独り言のようなささやきが聞こえてくる。
「……あなたを傷つけたくないんですよ」
どうしてここまでネーヴェはフィオリーナを大事にしてくれるのだろうか。
ネーヴェにとってフィオリーナは利用価値の高い、ただの貴族の娘のはずだ。
そう思うのに、その問いかけはできなかった。
霞の向こうに落ちていくフィオリーナの耳に、柔らかい髪が寄せられる。
「……傷つけたくないのに、いつもうまくいきませんね」
──だから、あなたに触れたくないのに。
吐息のような声は霞のように消えた。




