朝食が言うには
「朝の散策は良い習慣だと思いますが、朝食が昼食になってしまいますよ」
ホーネットが温めなおしてくれたスープを前に、フィオリーナは「はい」と縮こまる。
古参の使用人は、ときどき両親より怖いのだ。
メニューはベーコンエッグに温野菜、スープにパンと紅茶。
対面に座るネーヴェは入れ立てのコーヒーを飲みながら素知らぬ顔で新聞を読んでいる。
「旦那様」
ホーネットのひと声に、ネーヴェは渋々新聞を畳む。
「……はいはい。せっかくの朝食が冷めてしまいますね」
ネーヴェは指を組むだけの簡単な祈りだけをして、カトラリーに手をつける。
実家では食物と精霊に捧げる祈りの句を家長である父が詠み上げてから、ようやく食事を始めるのだ。フィオリーナも祈りの句を覚えてはいるが、肝心の屋敷の主人であるネーヴェはすでに美味しそうなベーコンエッグにフォークを刺しながら、また新聞を開いている。
「お嬢様が困っておいでですよ」
ホーネットに言われて、ようやくネーヴェはフィオリーナが朝食を前に固まっていることに気付いたようだ。
「食事の祈りを覚えていないとか?」
「……いえ、覚えています」
「では、どうぞ」
ネーヴェは祈りの句を上げるつもりはないようだ。
かといってフィオリーナが朗々と詠み上げてはむしろ嫌味だろう。
初めてのことだが、指を組んで口に出さずに祈りの句を唱えた。
すると、どこからかきゃらきゃらと子供が笑うような声がする。
(子供?)
しかし、この屋敷の近くには子供どころか民家も無かったはずだ。
フィオリーナがどういうことかと辺りを見回そうとした、そのとき。
「冷めますよ」
ネーヴェの声が割り込んできた。
そうかと思えば、子供の声はたちまち消えて、外から鳥の声が聞こえてくる。
「……いただきます」
不思議に思いながらも、フィオリーナもカトラリーを手に取る。
朝食はまだ温かくて、美味しかった。
朝食を終えたあと、ネーヴェに買い物ができる場所を尋ねると、
「となりの領にヒースグリッドという街があります。そこへ行ってみては?」
避暑地としても有名で、王都からの支店も集まっているという。
「馬車を出しましょう。辻馬車を探すよりマシですよ」
ネーヴェの提案にフィオリーナは頷く。
地図を貸し出されても、きっとフィオリーナだけではたどり着けないだろう。大人しく馬車を借り受けた方がこちらもあちらも余計な心配をしなくて済む。
「でしたら、旦那様もご同行されては?」
食後のお茶を淹れていた執事のカリニの案に、ネーヴェは「うーん」とうなった。
「会いたくない奴がいるけど……かならず会うわけじゃないか」
そんな風に呟いて、フィオリーナを見てから「うん」と頷く。
「用事もあるから、私も行こうかな」
よろしいですか、と問われてフィオリーナに断る理由はない。
「オルミ卿がいらっしゃるなら、迷う心配がなくなります」
「ネーヴェ」
「え?」
身を乗り出すようにして、ネーヴェは行儀悪くテーブルに肘をつく。まるでフィオリーナを下から見上げるように、ネーヴェは少し笑う。
「オルミは私の爵位名なので、よそで呼ばれると目立つのですよ。ですから、ネーヴェと呼んでください」
領地を持つ貴族の爵位名はそのまま領地の名前となる場合が多い。ネーヴェの場合、カミルヴァルトは家名で、オルミは子爵となったときに改名したのだろう。
「でも……」
名前を呼ぶのは親しい間柄か、フィオリーナのように家名を継がない者だけだ。
そもそも、正式にネーヴェを呼ぶのならカミルヴァルト子爵になる。もっとも、これは文書や式典で使う呼称なので、ネーヴェに敬称として使うのならオルミ卿となる。
迷うフィオリーナに、ネーヴェは追い打ちをかけるように言う。
「ヒースグリッドは隣領ですから、私の名前は目立ちますよ。それに、名目上は親しい間柄になるのですから、名前で呼んでください」
実際には婚約の予定すらなくても、親しい間柄だと見せておくことがネーヴェの目的のひとつだ。
「……わかりました。では、わたくしのことも名前だけでお呼びください」
覚悟を決めたフィオリーナに、ネーヴェはのんびりと微笑んだ。
「ありがとうございます。──フィオリーナ」
敬称をつけられないだけで、これほど違った響きに聞こえるのか。フィオリーナは心がそわそわとする自分に驚いた。
かつては婚約者にも名前で呼ばれていたのに、昨日今日の付き合いの男性に名前を呼ばれることに慣れていないだけなのか。
これが特別なことだと考えないようにするだけでも、時間がかかりそうだった。
▽
(慣れていかなければならないのだわ)
フィオリーナは正直に言って嘘をつくのは苦手だ。それはたぶん、フィオリーナの性格上これから先うまくなることもないだろう。
けれど、嘘にも慣れなければネーヴェの力になれない。
(ご厄介になるのだもの。自分のやれることを探さないと)
そう決めて、二階に自室として与えられた部屋で外出用の薄水色のドレスに着替えていると、ドアからノックの音が聞こえてくる。
そんなに時間が押していたのかと慌てて「少しお待ちください」とフィオリーナが答えたが、ドアはあえなく開かれてしまった。
そこには、見るもあでやかな美女が立っていた。
「外出の準備のお手伝いに参りました。フィオリーナお嬢様」
そう言われて、ようやく彼女がメイドらしいエプロンを身につけていると分かる。華やかなレースのついたお仕着せは、きっと侍女なのだ。けれど、これほど美しい人をこの狭い屋敷の中で一度も見かけたことがない。
「あの…あなたは?」
「ご挨拶が遅くなり申し訳ございません。わたくしはアクアと申します」
アクアはフィオリーナがやっと着たドレスの裾を丁寧に整えながら答えた。腕のいい侍女だ。
「ホーネットもお嬢様のお手伝いをと申しておりましたが、あの子も階段の上り下りがつらい年になりましたのでご容赦くださいませ」
フィオリーナを化粧台に座らせて、アクアはさっさと化粧道具を広げていく。
(あの子…?)
ホーネットは若く見積もってもフィオリーナの母より年かさだと思われた。その彼女をあの子とまるで少女に向かって言うアクアはどう見ても三十より上には見えない。
フィオリーナの疑問をよそに、アクアは手際よく化粧を整えてくれた。
「本日は、わたくしも同行いたしますのでご安心くださいませ」
ネーヴェと二人きりでは確かに少し緊張してしまいそうだ。フィオリーナが素直に「ありがとう」と返すと、アクアは花のように微笑んだ。
アクアと共に階下に降りると、カリニとホーネットが待ちかまえていた。ネーヴェはすでに外で待っているという。
待たせてしまったとフィオリーナは焦ったが、ホーネットは笑っただけだった。
「女性の支度の方が時間がかかりますもの。文句を言う殿方は女性にモテないと相場が決まっております」
「そうでしょうか…」
フィオリーナの婚約者であったシリウスは、人に待たされることを嫌っていたが女性にはモテていた。彼の容姿が整っていたからか、それとも他の女性なら待たされても苦ではなかったのだろうか。
(この人はどう思われるのかしら)
ネーヴェを追うため、外へと出てみると彼は玄関ポーチの脇で煙草を吸っていた。
いつものジレとズボンに、散策に行くようなジャケットにタイをしただけで、灰色の帽子をかぶった姿はまるで学者だ。でも、フィオリーナの薄水色のドレスと並んでもとくべつおかしくはなさそうだった。
「あの…」
オルミ卿と呼びかけて、フィオリーナは先ほどのやりとりを思い出した。せめて名前で呼べるようにならなければならないのだ。
「……ネーヴェさま」
フィオリーナの声が聞こえたのか、ネーヴェはふっと煙を吐いて、こちらを見て苦笑する。
「ネーヴェ、でいいですよ。フィオリーナ」
ネーヴェはよくても、フィオリーナの方が慣れないのだ。
「練習しますか?」
はいどうぞ、と言われて口にしてみようと思うが、フィオリーナの口からはどうしても出てこない。
ネーヴェは煙草を皮でできた灰皿に放り込んで、こちらに向き直る。そんなことをされてはますます緊張するというのに、ネーヴェは黙ってフィオリーナを待っている。
まるで、猫が気まぐれを起こしてじっと主人を待ちかまえているようだ。早く呼びかけなければ、ぷいとそっぽを向かれてしまう。
「ね…ネーヴェ!」
「はい」
「……さん」
思わず呼び捨てにしてしまったのに、返事をするネーヴェが悪いのだ。
「呼び捨てでいいですよ」
「……できません」
フィオリーナが素直に白状すると、ネーヴェは「まぁいいでしょう」と手を差し出してくる。格好はいい加減なのに、紳士の装いとしてきちんと皮の手袋を身につけているのが意外だった。古いマナーのひとつで、近頃では手袋を夜会以外で身につける人は少ない。
「あの…お待たせして申し訳ありませんでした」
フィオリーナがネーヴェの手にわずかに指先をかけると、彼は不思議そうな顔をする。
「男の出かける準備など、女性に比べれば楽なものですよ」
「そう…なのですか?」
「ええ」
そう言って、ネーヴェはフィオリーナの手をゆるく持ち上げて、エスコートしてくれる。招き方も歩き方も教本のように完璧だ。
「支度が遅くて怒られたことが?」
「……いえ」
思い返せば、父も兄も女性たちの支度が遅くて怒ったことなど無かった。
幼かった頃はむしろフィオリーナが待ちくたびれてぐずったものだ。
あとにも先にも、苛々を露わにしたのは元婚約者のシリウスだけだった。
フィオリーナはこの一年というもの、色々なことを見落としていたのかもしれない。
「どうかしましたか?」
のんびりと尋ねてくるネーヴェからは気負いも優越も感じられない。
フィオリーナは首を振って「何でもありません」と答えた。
こんな何でもないことを今まで出来なかったのだと気付いてしまった。
ネーヴェのそばでは今まで見ていたもの、信じていたものが違って見えてくる。
それを怖いと思うと同時に、フィオリーナは知りたいと思うから、ここに残ることにしたのかもしれない。
「あ、私から触れない約束だったのに、さわってしまいましたね」
神妙に考えていたというのに、ネーヴェがそんなことを言い出すのでフィオリーナは手を離そうとする彼の手を捕まえた。
「これはマナーです!」
「そうですか? 触れることへの言い訳にもなりかねませんよ」
ネーヴェがそんなことを言い出すので、女性へのエスコートと、非礼にあたる接触とは何かということを馬車の中で二人で議論する羽目になってしまった。
馬車の中で気詰まりにならずには済んだが、同乗したアクアが呆れていたのは知っている。