ティーカップが言うには
思い出せる限りのシリウスという人は、本当に生粋の貴族の男性だった。
「──シリウス様との婚約は両親と兄が決めてくれた婚約でしたが、最終的には実際にお会いしてわたくしも同意して決めました」
実際に顔も見ないまま婚約する貴族も多いというのに、婚約前に顔合わせの席を設けられたフィオリーナは幸運なほうだった。
「年齢も近くて……近衛騎士なので見た目も華やかな方でした。優秀な武人ですが、乱暴なところはひとつもなくて、真面目な方だったと思います」
言葉をひとつひとつ選んで、フィオリーナは元婚約者のことを口にする。それを菫色の瞳に注意深く見られているようで、声がうわずってしまいそうになるのを堪える。紅茶を飲んで少しずつごまかして続けた。
「……身分の高い方にお仕えするお仕事をされているからでしょうね。待たされることがお嫌いで……」
婚約者を伴って参加する園遊会や夜会の準備は、フィオリーナのほうが準備を万端にして彼の到着を待っていなければならなかった。そうでなければその日の社交は失敗だと言われていた。
──いいかい、フィオリーナ。
そう誠実そうな声でシリウスはいつもフィオリーナに諭して聞かせた。
「……ダンスのパートナーとして伴われるとき以外は三歩はうしろを歩いて、ご友人とお話なさっているときは会話に加わらないようにうしろに下がって……そう言ったことをお会いするたびに教えてくださいました」
それが理想的な妻なのだと言って、婚約したときからずっとフィオリーナに言って聞かせた。
「シリウス様はわたくしが何か間違うたびに、わたくしに謝るよう仰って……」
申し訳ありません、と何度繰り返しただろう。出された紅茶がぬるいとき、フィオリーナの髪型が気に入らないとき、彼についていくのが遅れたとき。
「背の高い方でしたので、うしろをついて歩くのが大変で……」
からになってしまったカップをフィオリーナは手元で眺めた。
「……きっと、今日の昼間のようなおろし髪でいたら、すごく怒られたと思います」
もっと何か、シリウスとの思い出を思い出そうとするが、思い出されるのは彼が楽しそうにしている顔ばかりだった。同僚たちと楽しげに話して、友人だという女性たちに婚約者だとフィオリーナを紹介して、上司に婚約はめでたいことだと肩を叩かれ喜ばれている。
その様子をフィオリーナは輪の外からずっとひとりで眺めていた。
フィオリーナも自分の関係者に似たような紹介ばかりしていたように思う。
ふたりきりになるのは、夜会や園遊会の帰りの馬車だけだ。
その馬車の中ではシリウスがフィオリーナの良くなかったところを指摘して、また次の会でと別れる。
シリウスは忙しい人だった。フィオリーナが家族と共に王都のタウンハウスに滞在している時期でも、会うのは夜会や園遊会のときだけ。
いずれ結婚することが決まっているのだから、語らいなど必要なかったのかもしれない。
貴族同士の結婚は、家同士の繋がりを持つためのものだ。
本人たちの気持ちは、あとからついていけばいい。
フィオリーナもそう思っていた。
「──フィオリーナ」
ティーポットが差し出されて、フィオリーナの手元のカップに紅茶が注がれる。
なみなみと注がれた琥珀色からは花のかおりが漂ってくる。
顔を上げると、ネーヴェが申し訳なさそうに苦笑する。
「さっきは、髪のことで怒ってすみませんでした」
シリウスのことを話していたと思っていたのに、ネーヴェを責めるような話になってしまった。今更気付いて気まずくなってしまう。フィオリーナはいつも遅いのだ。
フィオリーナはこれ以上慌てないようにと、注がれた紅茶をひとくち飲んで口元を引き上げた。
「……ネーヴェさんは、髪を乾かしてくださったではありませんか」
うまく笑えただろうか。ぎこちない顔の動きが、あのころのフィオリーナを思い出させた。
案の定フィオリーナが「ありがとうございます」と微笑んで見せても、ネーヴェの顔は晴れない。
やっぱりつまらない話だった。
フィオリーナの悪い噂が流れなければ、きっとあのままシリウスと結婚していた。
その結婚生活がどんなに長く、何かをすり減らすような暮らしであっても、フィオリーナは何も気付かなかっただろう。
──いや、気付いたとしても気付かないふりをしていた。
子供を産んで、育てて、デビュタントとして送り出す。母や妻としての役目をすべて終えたとき、やっとそのすり減ったものに目を向けるのだ。
きっとそこには何もない。
もちろん家族に愛情を持つだろうし、それが幸せなのだとわかっている。
空っぽになったフィオリーナを家族が母や妻と呼んでいる。
フィオリーナの名前は呼ばれない。
それにさえ気付かなければ、フィオリーナは幸せだったはずだ。
もう手には入らないからこそ、そんな未来が見えただけのことだろう。
誰もが知る悪女となってしまってからでは、とうてい貴族の妻としての幸せが手に入らないことは、世間知らずのフィオリーナにもわかっている。
ネーヴェたちと画策しているのはフィオリーナが社交界に出るための作戦だ。
フィオリーナの結婚のためではない。
すっかり冷めた紅茶を飲み干すと、冷たくなった花の香りが喉を通り過ぎていく。
本当につまらない話だった。
「……気がついたら手の中が空っぽだったなんて、本当につまらない話ですね」
無理矢理笑みを作って謝ろうとするが、ネーヴェは「いいえ」と紫煙を吐いた。
「新しいものを手に入れる機会を得た話でしょう?」
手の中のものがなくなったのだから、新しいものを手に取りやすい。
そう言ってネーヴェがつまんだ煙草をくるりと回すと、煙も空中に輪を描いた。
「両手が塞がっていては、何もつかめませんからね」
単純な話だとネーヴェは笑う。
「あれもこれもと欲張るのは人間の悪いくせですが、手に入れたらどうせうしろに放り投げるようにして次を求めるのですから持てるものの数は同じですよ」
限られた二つの手で持てるものは少ない。
後生大事に過去を抱えているか、新しいものを求めて次を探すか。それだけの違いだというのだ。
誰を責めるでもないネーヴェの言葉は晴天のようにからりとしている。
「──それで、元婚約者と私なら、どちらがあなたにとって魅力的ですか?」
フィオリーナは手にしていたカップをソーサーごとひっくり返しそうになった。
「ど、どういう意味ですか!?」
動揺するフィオリーナをよそに、ネーヴェはゆったりと煙草を吹かせて長い足を組んだ。
「元婚約者の話をしてくれたので、私と比べるお話かと」
「そ、そういう話では……」
別の方向でしどろもどろになるフィオリーナに、ネーヴェは笑いかける。
「私なら洗い髪で歩き回っていても怒りませんよ?」
「……さっきは怒ったではありませんか」
顔を真っ赤にしながら睨むフィオリーナに、ネーヴェは肩をすくめる。
「それは当然でしょう。どうしてほかの男にあなたの髪をおろした姿を見せなくてはいけないんですか」
そういうことだったのか。ネーヴェはフィオリーナのおろし髪自体を怒ったのではなかった。思わずほっと息をつくが──そういう話でもない。
「ほ、ほかの男性なんて……ブラッドリーさんとラザルノ卿ではありませんか」
「わかっていないですね、フィオリーナ」
ネーヴェは溜息をついて、短くなった煙草を灰皿に放り込む。
「私以外の男に見せてほしくないんです。女性のおろし髪なんて、本当なら寝室だけで見るものでしょう?」
噛んで含めるように言われて、フィオリーナは全身が沸騰するのではないかというほど真っ赤になった。
いったいどうして今まで気づかなかったのか。
成人した貴族の女性が髪をおろすのは使用人の前か、それこそ恋人か夫の前だけだ。
実家では風呂に入ったとしても、年頃になってからは父や兄にもおろし髪を見せることはなかった。この屋敷ではあまりにも誰にも注意されなくて、すっかり抜け落ちていた。うっかりしていたのはフィオリーナのほうだったのだ。
「……もうしわけありません……」
このままティーカップの中に隠れてしまえたらどんなにいいだろう。
蚊の鳴くような声でかろうじてフィオリーナが謝ったというのに、ネーヴェは「それよりも」と促してくる。
「元婚約者殿と私、どちらが魅力的ですか?」
まだその話を蒸し返すのか。フィオリーナはもうほとんど半泣きになっているのに、ネーヴェは楽しげな顔を隠そうともしない。
「まぁ、財力は最高とは言いませんが、不自由はないですよ。見てくれはこんなものだとあきらめてください」
冗談なのか本気なのかわからないが、ネーヴェの見た目は王女殿下が自ら何度も声をかけるほど美しく整っている。適当なベストとスラックス姿であっても、それが損なわれることもない。
それに狭いとはいえ、ネーヴェは領地を持つ貴族だ。爵位だけ持っている騎士とは違う。フィオリーナが受け答えに遅れても、支度が遅くても、わがままを言っても、突拍子もないこと言っても、ネーヴェはひとつも怒らない。
(ああ、どうしてこんなことに)
涙目になってネーヴェの顔を見ても、彼はおだやかに微笑むだけだ。
本当にめちゃくちゃな人だ。
フィオリーナが選んだところで、彼の特別にはなれないというのに。
それでも、フィオリーナは空っぽの手で選んでしまう。
応接間にはネーヴェとふたりきり。助けはこない。
そう思い込んでいたが、
「……ふたりで大騒ぎして、何の話だ?」
風呂上がりのクリストフがタオルで頭を乱暴に拭きながら応接間に入ってくるところだった。
「ら、ラザルノ卿!」
「うん?」
顔を真っ赤にして叫ぶフィオリーナに、察しのいいクリストフもさすがに怪訝顔だ。けれど、この絶好の機会を逃したくなかった。
「ワインをお持ちしますね!」
「おお……? ありがとう?」
気圧され気味のクリストフを押し切るように、フィオリーナは席を立つ。
うしろから小さく舌打ちが聞こえた気がしたが、気にせず厨房へ足早に向かった。
▽
「……おまえ、何してたんだ?」
クリストフが尋ねると、ネーヴェは不機嫌に新しい煙草をくわえて火をつけた。
「おまえのせいで獲物に逃げられた」




