サンルームが言うには
応接間の喧噪をよそに、サンルームは静かだった。
ブラッドリーの言ったとおり、ネーヴェはカウチに寝そべって緑だらけの庭を眺めている。
フィオリーナがサンルームに足を踏み入れると、わずかにネーヴェは身を起こした。
「こちらに座りますか?」
今まで自分が寝ていたカウチを譲ろうとするので、それを制止する。近くに丸椅子を見つけて、フィオリーナは腰掛けた。
「その……怪我の具合はいかがですか?」
やっぱり開口一番それを尋ねたくて口にすると、ネーヴェはいつものようにのんびりと笑う。
「大丈夫です。安静にしていれば問題ないそうですよ」
無茶をしなければ何をしてもいいわけではない。フィオリーナが疑いの目でネーヴェを睨むと、彼は肩をすくめた。
「信用がないですね。点滴を打たれていないんですから、それでいいじゃないですか」
点滴が必要ないということは、自力で食事をしてもいいということだという。ネーヴェの自己診断をどこまで信じていいのかわからないが、とりあえずブラッドリー医師の診察でそういう結果が出たのなら、フィオリーナはうなずくしかない。
怪我が大丈夫だというのなら、フィオリーナも尋ねたいことがある。
「わたくしが訊いて良いことかわかりませんが」と前置きして、
「昨夜のことは、どうなるのですか?」
どこかに吹聴する気はまったくないが関わってしまった以上、見て見ぬふりはできなかった。
ネーヴェはフィオリーナに尋ねられることを当然のように想定していたのか、カウチの肘掛けに肘をのせてこちらに向き直る。
「一応、勧告はしておきました。昨日の実行犯はすべて捕らえてありますから」
あれだけいた兵士たちをすべて捕らえたというのか。フィオリーナが目にしただけでも十人や二十人ではきかない人数だったはずだ。
「秘密の場所に捕らえています。アクアたちに管理させているので、奪還や逃亡はまず無理でしょうね」
フィオリーナが寝ているあいだに、ネーヴェたちはもう事後処理の大半を進めていたようだ。ブラッドリーが安静にと怒るのも無理はない気がした。
「まぁ、この領では私が法なので処遇は私の胸三寸なんですよ」
それ以上のことをフィオリーナに言うつもりはないようだ。思えばネーヴェはフィオリーナに兵士たちを捕らえる場面も見せようとはしなかった。それがきっと恐ろしい場面だったのは想像にかたくない。
たしかにそんな場面を見たいわけではなかったが、ネーヴェはフィオリーナに過保護だ。
思ったとおり、ネーヴェは「これからは」と話題をずらした。
「相手方との交渉になります。拒否された場合はとりあえず兵士たちを証拠として裁判でも起こそうかと思いますが……」
そうネーヴェは少し言葉を切って、億劫そうに窓へと目を向けた。午後の日差しが緑を明るく照らしている。
「……おそらく交渉は決裂するでしょうし、裁判も起こらないでしょうね」
これだけの騒動を起こして何もないというのか。目をみはるフィオリーナに、ネーヴェは視線を向けないまま溜息をつく。
「昨日も話したように、これは私だけの問題なんですよ。言うなれば、お家騒動ですから」
「私と親族の問題ですから」とネーヴェは少し目を伏せる。
「親族間の争いに、基本的に司法の手は入らないんです」
ネーヴェの親族といえば、カミルヴァルト家だ。しかしあんな大がかりな親族間の争いがあるだろうか。
あれでは、ネーヴェを殺そうというよりももっと酷いことをしようとしているようにしか思えなかった。兵士たちは街道からオルミ領へ侵攻していたのだ。ネーヴェが押しとどめなければ彼だけでなく領民もどうなっていたかわからない。
あらためてネーヴェの状況や立場が危ういことを思い知らされたようだった。
ネーヴェは元々カミルヴァルト家を継ぐ気など無いのだろう。
そうでなければ、戦功として侯爵の地位をほとんど得ていた時期に社交界で騒動など起こしたりしなかったはずだ。それまでの功績をすべて台無しにしてまでオルミ領で静かに暮らしているというのに、まだネーヴェから何かを奪おうというのか。
フィオリーナが悪女として目立つことで共に王都へ行ったとしても、ネーヴェの周囲が危険なままでは、彼は身の安全すらままならない。
「あの……わたくしの兄に相談してみませんか?」
フィオリーナの兄アーラントは法務関係を専門としている文官だ。だからこそフィオリーナを襲った暴漢にも危うげ無く裁判で争っても勝てたのだ。ふつうならば、貴族同士で争っても未遂であった場合であれほどうまくはいかなかったと父が漏らしていたことがあった。逆に法務関係であったがゆえに、カミルヴァルト家の親族と司法取引を斡旋する羽目になったのだが、ここに至っては幸いと思うことにした。
フィオリーナの提案に、ネーヴェはすこし目を丸くする。
「テスタ卿に? しかし……」
思いも寄らない提案だったようで、ネーヴェは戸惑うように思案顔になった。知識のないフィオリーナの助言よりも、兄の助言のほうが有益なのは明白だ。それにこの問題は隣領のクリストフやベロニカには相談しにくいはずだ。彼らは近すぎるゆえにネーヴェと結託していると逆に指摘される可能性がある。
「ご存じかもしれませんが……兄は司法に通じています。助言をしてもらうだけでも、何か解決の糸口が見つかるかも知れません」
幸か不幸かフィオリーナは現場を見ているし、妹がこの屋敷にいるのだ。兄が訪ねてきたとしても、言い訳も牽制もいくらでもできるのではないか。
フィオリーナの説明にネーヴェはしばらく黙考したが、眼鏡の奥からはっきりと菫色の瞳が真摯にフィオリーナを見つめた。
「……あなたからも手紙を書いてもらえませんか」
ネーヴェは苦笑するように目を細める。
「……誰かに相談するなんて、私だけでは思いつきもしませんでした」
ネーヴェはフィオリーナを利用すると言っておきながら、本当に利用することさえしない。ただ与えるばかりで、見返りなどひとつも求めない。
兄の力を借りることができるなら、フィオリーナはここにいる理由がやっと見えたような気がした。
「わたくしでは何もできませんが……助けてもらいましょう、ネーヴェさん」
ネーヴェがフィオリーナのために怪我をするというのなら、フィオリーナもネーヴェのためになることをしたい。それが怪我でも、兄の力であっても。
フィオリーナを見つめ返して、ネーヴェはすこし首を傾げる。
「あなたが何もできないなんて思ったこともありませんよ」
今度はフィオリーナのほうが首を傾げてしまうが、ネーヴェは微笑んだ。
「私をたしなめて、助言をくれて──困ったことに、私に意見する人なんてあまりいませんからね」
それはたやすく人を丸め込んでしまうネーヴェにも問題がある気がするが、フィオリーナはただ素直に言葉にしているだけだ。そう言うと、ネーヴェはそれでいいと笑う。
「……忘れていたんですよ。誰かと食事をして、夜更かししながら話をして……そんなことが貴重だったなんて」
肘掛けに頬杖をついてネーヴェは目を伏せた。穏やかなその様子からは、昨夜の苛烈なほどの戦いを想像できない。
ネーヴェは水のような人だ。激流のような激情を持っているのに、普段は静かな水面のように繊細だ。フィオリーナがいくらつかんでみたところで、この人を捉えられる気がしなかった。
「……わたくしもネーヴェさんと同じです。ここで暮らして、ようやく思い出しました」
オルミに来て、ネーヴェと暮らして、やっと本来の自分を思い出したような心地だった。
いつのまにか自分の手を見ていた視線をあげると、菫色の瞳がフィオリーナを見つめている。
「ほら、やっぱりあなたが何もできないなんてことはないんですよ。──あなたが居てくれて良かった」
菫色に慈しむように見つめられると心が温かくなって、そして心の底が焼け付くように焦燥に駆られる。
ここにいることに意味があるとするのなら、きっとフィオリーナは今このときのために居たのだろう。
そばに居て、語らって、力になる。
それはフィオリーナが居るだけで達成されて、すべて済んでしまうことだ。
フィオリーナの存在意義はそれで終わり。
貴族の娘はその人格や行動よりも、家格や婚家を繋ぐ、人間の形をした契約書のようなものだ。
そこにいるだけで価値のあるもの。それがフィオリーナだ。
それで良かったはずだ。
──それなのに、ネーヴェまでフィオリーナをそれだけの価値とするのか。
この人だけはフィオリーナ自身を見ていてくれたのだと自惚れていただけなのか。
それでいいはずなのに、とてつもない恥ずかしさが心を埋めていく。
こんなことを考えてはいけないはずなのに、満たされない焦燥が心を焼いていく。
ネーヴェにとって、フィオリーナは結局ただの貴族の娘でしかないのだ。
(この人の特別にはなれないのに)
ネーヴェは体面のために結婚する気さえないのだ。家同士の思惑のための婚約者にもなれないし、傷つけてはならない貴族の娘を恋人にすることもないだろう。
ネーヴェにとってフィオリーナはどこまでいっても同居人でしかないのだ。
どうしようもない虚無感が襲ってきて、思わず顔が歪む。
そんなフィオリーナを見て、菫色の瞳が目をみはる。そして、まるで自分が深く傷ついたように痛ましそうに歪んでいく。
そんな顔をさせたいわけではないのに、フィオリーナの心は止まらなかった。
なんとか押しとどめようと口元に手を当てても、恨み言しか出てきそうになかった。
「……フィオリーナ。私が何か……」
痛ましいネーヴェの声が苦しくて、フィオリーナも胸が苦しくなる。こんなことを言いたいわけではない。思いたいわけではない。従順で、おとなしく、ネーヴェにとって都合のいい貴族の娘でありたいだけなのだ。
「──エルミス様がうらやましい」
押しとどめた指のあいだから口をついて出た言葉は、ひどく浅ましかった。
フィオリーナに寄せられていた大きな手が肩に届かず止まる。
口にしてしまうと、堰を切ったようにあふれてくる。
──エルミスがうらやましかった。
彼女とネーヴェが恋人同士だったと聞いたとき、心を占めたのはそれだけだった。
彼女はその身ひとつでネーヴェの恋人だった。きっと様々な理由があったはずだ。詳しいことはフィオリーナにはわからない。ただわかるのは、エルミスとネーヴェが何のしがらみもなく恋人だったのだろうということだけだ。
貴族の娘である以外に何者にもなれないフィオリーナとは違う。
まるでがんぜない子供の強情さで、フィオリーナは自分のわがままに振り回されていた。どうしてこんなことを今ネーヴェに言ってしまったのか。
口から出てしまった言葉はもう返らない。
「……ネーヴェさん、あの…っ」
泣きたい気分で顔を上げて、フィオリーナは後悔した。
菫色の瞳がうつろなほど無表情にフィオリーナを見下ろしていた。
表情という表情が漂白されたような顔で、ネーヴェは小さく溜息をつく。
整った顔であるがゆえに、まるで人形のように人間味がなかった。
やはり言ってはいけないことを口にしてしまったのだ。
謝りたいのに謝罪すら拒絶されたらと思うと、喉の奥がひきつった。
今すぐここから消えてしまいたい。
そう思うのに、フィオリーナは魔術師でも何でもない。
やはり何もできない貴族の娘だった。




