医者が言うには
「……おまえ、わざとだな」
ブラッドリーは素知らぬ顔でワイシャツを脱ぐネーヴェをあきれ顔で見た。
当の本人はお嬢さまが逃げていったことに満足したのか、戸口に視線を送って笑う。
「伯爵家のお姫様に、下々の男の裸なんて見せたくないだけだよ」
口の悪さも相変わらずだが、ネーヴェはひ弱そうな見た目ほど痩身でもなく、ましてあばらが浮いているわけでもない。むしろ魔術師で食も細いくせにどういう鍛え方をしているのか、過酷な訓練を経た兵士のように引き締まった筋肉で覆われている。筋肉を必要以上につけない訓練を受けたといつだったか漏らしたことがあった。武器をすばやく振るうために体の筋肉を極限まで絞るのだという。
ただ、その体は無数の古傷にも覆われている。処置や縫合が間に合わない戦場で、それ以上の怪我をするからだ。
この身体を年端もいかない子供の頃から維持しているのだから、怪物といわれても不思議でもなんでもなかった。
ネーヴェは、その生い立ちや経歴から経験まで、何もかもが異常な子供だった。
「傷だらけで見られたくないなら、怪我をするな」
怪我をすることに頓着しないくせに、あきれたことにネーヴェは負った怪我にすら無遠慮だ。血が止まればいいとばかりに魔術で固めたり、外傷だろうが内臓の損傷だろうが傷口を自分が開発したという魔術の糸で勝手に縫合していることもある。
今回の怪我もブラッドリーが到着するまでにすでにそうした処置を施していて、長年の経験からか応急処置は熟練の医師の施術のように的確だ。しかし、内臓のほうはいくら処置をしても無駄だったようで、傷つけられた内臓の傷口が広がって血を吐いたのだ。魔力との親和性が高いせいで、最近ではお得意の糸が自分には利かなくなってきていると自己分析までしていた。
蓄積された怪我による負荷と多すぎる魔力のせいで、生身の身体のほうが無理がきかなくなっているのだ。医者の立場から見てもネーヴェは間違いなく怪物だが、身体構造はただの人間だ。魔力への耐性が化け物並の特異体質と、偏執的にさえ見えるほど厳しく鍛えられたおかげで辛うじて生きているだけなのだ。そうでなければ復員した時点でとっくに寝たきりだっただろう。今の状態でも、まっとうな医者ならば熱心に入院を勧める。
「本当なら一生入院病棟暮らしなんだぞ、おまえ」
カウチの前に適当な椅子を引っ張ってきて腰掛けると、領主にまでなったというのにネーヴェは子供のように肩をすくめる。
「セシリーさんにもよく言われていたよ」
ネーヴェが口にしたのは、北部戦線で亡くしたブラッドリーの妻の名前だ。共に軍医だった妻は停戦目前の戦場で、前線の兵士をかばってあっけなく死んでしまった。
妻の名前を聞くたびにブラッドリーは古傷から血が吹き出すように心が痛むというのに、この冷血漢は懐かしむためだけにその名前を平気で口にする。
それでも、人の心がないと思っていたのは最初の一年だけだ。
ネーヴェは生きている人間も死んだ人間も同じアルバムに入れている。
だからどんな思い出も同じように取り出すだけなのだ。
しかし、とブラッドリーは聴診器をあてながらなんだか笑えてくるのをこらえた。
これが人の生死が日常だった人間の有様かと、ネーヴェをどこか被害者のように思っていた。そんな杞憂が今日は少しだけ改められた。
十一歳の頃から変わらない怪物が、どうしたことか年相応の男に見えるのだ。
オルミ領へ移住して五年経った。
妻を亡くしたまま故郷へ帰る気にもなれなかった。故郷には妻の親族が住んでいて、そこかしこに彼女との思い出が詰まっている。だから、戦後処理のついでにオルミ領へ来ないかと誘われたときはすぐに承諾した。終の住処を決めたようなものだ。
開業医として田舎で患者を診て、奇病の研究に精を出した。
それは、いつだったか妻と話した理想の暮らしそのもので、思い出の中の彼女とこうして時間を消費していくのだと思っていた。
それが、こんなことで気付くとは。
「……人生はわからんものだなぁ」
左腕の傷の具合を診ながら笑うブラッドリーを、怪物だった男は不思議そうな顔で首を傾げている。
「とうとうアルコールが頭にきました?」
「禁酒してると言っただろう。おまえもほどほどにしろ」
魔術の代償とやらの痛みをごまかすために、酒で薬を飲むような奴だ。ネーヴェを睨むと「そんなこともうやらないよ」と苦笑する。
「コーヒーもほとんど止めた。最近では紅茶ばっかり飲んでる。酒は夕食後の白ワインだけ」
カリニには聞いていたが、本当だったようだ。あのお嬢さまと食事をするようになって、ネーヴェは変わった。
「お嬢ちゃんを呼んでやるから、おまえはもうここで寝てろ」
診察を終えて診察鞄を片づけているブラッドリーを横目に、ネーヴェはカウチに素直に寝転がった。このひねくれ者にしては珍しいことだ。
「あんまりお嬢ちゃんに心配かけるなよ。かわいそうじゃねぇか」
ブラッドリーの言葉の何が可笑しいのか、ネーヴェは楽しげに笑う。
「私が怪我をしたら、怪我もいとわないで守ってくれるらしい」
そんなことを言う娘には見えなかったが、ネーヴェは満腹の狼のようにカウチの肘掛けに足をひっかけて腕枕で目を閉じている。
「怪我はバレないようにする。……怪我なんかさせたくないからね」
まるで片時も目を離せない子猫でも飼っているような言いぐさだ。
「あのなぁ、猫の仔飼ってんじゃねぇんだぞ」
ブラッドリーの皮肉に、ネーヴェは「思ったこともない」と笑う。
「猫よりかわいくて、大事な人だよ」
そう言って笑う様子は、もう怪物には見えなかった。
▽
サンルームから応接間に戻ると、ちょうど噂のお嬢様が二階から降りてきたところだった。おろし髪を整えてきたらしい。
洗練されたきれいな娘だ。ドレスの裾をさばく仕草ひとつも優雅で、貴族らしい気品と世間知らずが一体となって不思議な雰囲気を持っている。
それでいて、好奇心をいっぱい詰めたような木の実のような瞳が印象に残った。それだけの娘だ。
この娘よりきれいな娘もかわいい娘もいくらでもいるだろう。そういうお嬢さまだった。
さっきまでは。
「あの、ネーヴェさんの様子は……?」
ブラッドリーのようなくたびれた中年親父に物怖じするどころか、気遣うような様子で見上げてくる。そこには生粋の貴族らしい傲慢さがあるくせに、それ以上にこの娘の物怖じを知らない気性が表れている気がした。
(こりゃあ無体はできんな)
ほんの数度会話を交わしただけでもよく分かる。
儚い花のような見た目だというのに、若木のような頑固さと潔癖さを持っているのだ。たいていの男は持て余すだろう。
この娘の潔癖さは男の薄汚い欲望をまざまざと映し出して目も当てられなくなる。中にはこんな彼女を扱いにくいと折ろうとする者もいるだろう。男に従順で柔らかな女に慣れた者ほど扱いにくいと思うだろうし、醜悪な自分と向き合うことに苦痛をおぼえるならなおさらだ。それほどこの娘の意思は堅く、硬質に見えた。
硬質であればあるほど、たやすく悪意で崩れて壊れやすく、危なっかしい。
「昨日の怪我なら問題ない。今日は一日、サンルームに転がしておくといい」
ブラッドリーの乱暴な言葉に目をまたたかせるというのに、この娘は「わかりました」とうなずくのだ。
ネーヴェが心配でたまらないというのもわかる気がした。危うげで、それでいてためらわないからすぐ傷ついてしまう。
「あいつはサンルームで待ってるから、見張っててくれ」
冗談めかしたブラッドリーに、お嬢さまは今度こそたおやかに微笑んだ。
「わかりました。お任せください」
そう答えて、今にも走り出しそうなほどいそいそとサンルームへ向かっていく。
その小さな背を見送って、ブラッドリーは応接間に陣取って笑いをこらえているクリストフを見やる。
「なんだあれ。面白いことになってるな!」
どっかりとブラッドリーが応接間のソファに腰掛けると、クリストフは心得たようにワインをグラスに注いでくる。
「最高に笑えるだろ」
本当にこれほど笑えることは、ここ数年思い返してもなかった。これ以上ないほど朗らかなクリストフに、ブラッドリーも深くうなずいて笑った。
「ああ……、本当に笑える話だ」
あの世間知らずで好奇心の塊のようなお嬢さまをネーヴェも持て余しているだろうに、それでも手元に置いておきたいのだ。
その性格は誠実とは対極にあるというのに、ネーヴェは彼女に対して自分が思いつく限りの誠実さを作り出している。
それが本当に可笑しくて、たまらなく滑稽で、どういうわけだか途方もなく胸のすく思いだった。
あの冷血漢がお嬢さまの洗い髪ひとつに目くじらを立てるのだ。それだけで一年は笑って暮らせそうだった。
戦場に送られた少年少女たちは、身分関係なく哀れだった。
大人でさえ精神を壊す戦場に、何年も押し込められていたのだ。とくに38小隊は前線に送られた捨て駒のような部隊だった。本当にうんざりするほど何人も死んだし、その末路もとうてい家族には話せないほど悲惨なものだった。
軍医であった妻とブラッドリーが彼らの部隊に組み込まれたのは、国のわずかに残った良心だったのか。そのために妻は死んでしまった。
残されたブラッドリーはどこかで部隊の子供たちを恨んでいた。
恨んでいたに違いないが、彼らの行く末を見守ることができるということに、今日初めて感謝した。




