鳥かごが言うには
フィオリーナ。
優しい声が聞こえる。
頬を撫でるような声は優しくて甘い。
ゆったりとしたぬくもりに包まれて、もう一度額に吐息が触れる。
「──フィオリーナ」
今度こそ目を開けた。
体が宙に浮いている。──いや、抱きかかえられていた。
ソファよりずっと高い場所で抱えられている。
寝起きのフィオリーナに首をもたげているのは、眼鏡をかけていない菫色の瞳。
狼のような目を細めて、彼は溜息をついた。
「どうしてこんなところで寝ているんですか」
よく見れば、フィオリーナには薄い毛布が掛けられていた。ソファであのまま眠ってしまったのだ。
フィオリーナを抱えて、あきらかに機嫌の悪そうなネーヴェにフィオリーナは苦笑いした。
「……ネ、ネーヴェさんはどうして……」
「目が醒めたので起きただけですよ」
たしか点滴を打って、昼まで安静にしておくはずだ。今も、ネーヴェの格好は寝起きらしくいつになく薄着で、やわらかいシャツにカーディガンを肩にかけている。きっと部屋着のまま応接間まで出てきたのだ。
「点滴はどうしたのですか……?」
フィオリーナの問いに、今度はネーヴェが視線を逸らした。
「……終わったので外しました」
自分で点滴の針を抜いたというのか。
「お、降ります……っ」
慌てふためくフィオリーナを、ネーヴェはまるで猫でもあやすように抱えて降ろしてくれない。
「ソファで寝てしまうぐらい疲れたんでしょう。もう夜明けですよ」
ネーヴェが庭へと視線を向けるので、フィオリーナも彼にしがみついたまま窓の外を見る。
暗かった庭に乳白色の日差しがぼんやりと差し込んで、緑の葉の輪郭が見えている。
ゆっくりと空が白むように、淡い陽光は霧をかけるように妖精の庭へ朝を運んでいた。
「──あなたが無事で良かった」
溜息のように漏らされた言葉が、朝日と共にフィオリーナに染み込んだ。
「……あなたも、無事で良かった」
そう呟いて痩身なのに硬い胸元のシャツに額をつけると、フィオリーナの横顔にさらさらと葡萄色の髪がかかった。
「……怒っていますか?」
「何を?」
窓の外は明るいというのに、静かな夜が降るような声だった。
「……わたくしが、オルミへ帰ってきてしまったことです」
それはネーヴェが想定したことではなかったはずだ。自惚れでなければ、ネーヴェは何が何でもフィオリーナをオルミから遠ざけたかったがために、誰にも告げずに周到に準備した。
フィオリーナを見下ろした声がわずかにためらように答えた。
「……少しだけ」
大きな手が震えるようにささやかにフィオリーナの肩を引き寄せて、頬を胸に押し付ける。
「……あなたが帰ってきてしまうかもしれないと思っていました。私の周りは、私が考えるよりずっとお節介ばかりだったようなのでね」
「それに」と夜のような吐息がつむじをくすぐる。
「あなたは意外とお転婆なので」
困ったものだ、と穏やかな夜がわずかに笑う。
「……ごめんなさい」
胸元に頬を寄せたままつぶやくと、冬の息吹のような声が降ってくる。
「それは、何に対してですか?」
冬の寒さのように冷酷に、けれど律儀に尋ねてくるこの人に迷惑をかけたくなかったのに、フィオリーナはいつもうまくいかない。
「……わたくしをかばったせいで、ネーヴェさんが怪我を……」
「──もし」
フィオリーナの言葉を遮って、ネーヴェははっきりとした声でささやいた。
「もし、あなたのせいで私が怪我をしたとしても、私は満足ですよ」
低く暗い、雪の裏から聞こえるような声は優しかった。
「その罪悪感で、あなたをそばに置いておける」
朝だというのに闇の底に引き込まれたようだった。顔を上げると、菫色の瞳がフィオリーナを見下ろしている。
「私はあなたを守るためなら、怪我なんていくらでもします」
ひどい人だ。
そう言えばフィオリーナが傷つくと思っている。
自分を責めるフィオリーナの代わりに、ネーヴェを責めさせようとしている。
フィオリーナの心まで守ろうとする、この人をどうやって守ればいいのだろうか。
「……では、わたくしはネーヴェさんを守るために怪我をします」
それくらいしか思いつかなくて悔し紛れに言うと、吐息混じりの笑い声がした。
「それは困りましたね。本末転倒だ」
じゃあ、とネーヴェは微笑んだ。
「ふたりで鳥かごにでも入りますか」
それなら狭くて何もできない。
そう言ってからかうように笑うので、フィオリーナは眉根を寄せる。
「庭のお世話ができません」
妖精の棲む怖い庭だが、美しい庭だ。なんだかんだとフィオリーナも気に入っている。散歩できないのはさみしい。するとネーヴェも「そうですね」と続ける。
「おいしいワインも飲みたいですね」
「ホーネットの食事も、カリニのおやつも楽しみです」
「畑の苗も気になりますね。どんな実が成るんだか」
「ミレアにも会いにいきたいです」
「まだあなたに見せていない湖があるんですよ」
それはぜひ行ってみたい。
目を輝かせたフィオリーナに、ネーヴェもゆったりと笑った。
「……鳥かごで過ごすのは無理そうですね」
ネーヴェと過ごしたい時間がフィオリーナにはたくさんある。
狭いかごに入っておとなしくしていることなど、できそうになかった。
「──この世界ぜんぶが鳥かごだと思えばいいと思います」
そうすれば、ネーヴェと鳥かごに入っているのといっしょだろう。
そう言ったフィオリーナに、ネーヴェは額を合わせて肩を震わせた。大笑いをこらえているのだ。
「ふふ…はははっ」
結われていないネーヴェの髪が紗のように日の光を通して、いっそう葡萄酒色になる。
ネーヴェの顔は見えない。
けれど、誰よりも近くにいるような気がした。
孤独で冷たい雪の底にいるネーヴェに触れているような。
フィオリーナには、本当の意味ではきっとネーヴェを理解できない。
たとえ恋人になって、もっと深く繋がってもわからないだろう。
けれど、こうしていっしょに雪の底で庭を見ていることはできる気がした。
それは恋人でなくても、ただのフィオリーナにできることだ。
「……あなたとなら、鳥かごの中も楽しそうだ」
菫色の瞳を細めて、ネーヴェはフィオリーナを見つめた。まるで狼がたくらむような顔だった。
「──さて、この悪巧みはまた今度にしましょうか」
狼が笑い混じりに溜息をついて、目を伏せた。
「昨日は本当に大変な一日でしたからね。──もう少し眠るといい」
そう言ってネーヴェはそのまま歩き出してしまう。
「あの……降ります」
「静かにしていないと、誰かが起き出してしまいますよ」
ネーヴェにフィオリーナを降ろす気はないらしい。
昨日あれだけ無理をして倒れたというのに、ネーヴェはフィオリーナを抱えたまま階段を静かに上がっても揺らぎもしなかった。ぱたぱたという軽い足音で、靴ではなく部屋履きなのだと知れた。もしかしたら素足で履いているのかもしれない。
フィオリーナの部屋の前でようやく彼女を降ろすと、ネーヴェの大きな手はすんなりと離れた。
「ネーヴェさん……ちゃんと寝てくださいね」
フィオリーナが見上げると、ネーヴェはいつものように身を屈める。
「では、私が眠るまで見張っていますか?」
あなたの部屋で。
耳元で吐息のようにささやかれた声は聞き逃すほど小さかった。
本当に具合が悪いのなら、フィオリーナの部屋ぐらい明け渡してしまおう。元々客室なのだ。主人であるネーヴェのものだ。
「あの……この部屋で良ければお使いください。そばにおりますので」
心配でそう提案したというのに、ネーヴェは石でも食べたように妙な顔になる。
「……いいえ。お気持ちだけで十分です」と言って、今度は笑い出してしまった。
「まったく……本当に困ったお転婆だ」
「え? なにを…」
どうして今そんなことを言い出すのかと怪訝顔のフィオリーナに、ネーヴェは目を伏せて微笑んだ。
「──男を部屋に引き入れて、無事で済むとお思いですか? お嬢さん」
指摘されてようやくフィオリーナはおののいた。家族でもない男性と狭い部屋でふたりきりになるなど、貴族の娘ではなくても問題だ。慌ててネーヴェを見上げると、彼は菫色の瞳を細めて笑う。
「私も、一応これでも紳士の端くれですからね。……そんな顔のあなたに何もしませんとも」
そんな顔、とはきっと真っ赤になったであろう顔のことだろうか。
フィオリーナ、と呼ばれて顔を上げるとこつ、と柔らかに額が合わせられた。
「──巻き込んですみませんでした」
あなたを巻き込むつもりはなかった。
今にも泣いてしまいそうなほど優しい声に、フィオリーナのほうが泣きたくなってしまう。
「……わたくしは、あなたのそばにいます。──巻き込まれても、何の役にも立たなくても」
フィオリーナにはそれぐらいしかできないのだ。どう足掻いても足手まといになってしまう。
そんなフィオリーナを菫色の瞳が見つめた。
「あなたを役立たずだなんて、思ったこともないですよ」
嘘だと思うのに、フィオリーナを見つめるネーヴェの瞳は揺らがなかった。
「……そばにいてくれて、ありがとう」
フィオリーナのまぶたの上を滑るように、唇が言葉を紡ぐ。
反射的に閉じていた瞳を開けると、唇が遠ざかるところだった。
「おやすみ、フィオリーナ」
唇はそうささやいて、離れていく。
音もなく去っていく背中を見送って、フィオリーナはいつのまにか止めていた息を吐いた。
規則的な足音が階下へと降りていくのを聞き終えてから、ようやくフィオリーナは息をつく。
(キスをされるかと思った)
まぶたの上を唇がさまよった感触が生々しく残っている。
ネーヴェはフィオリーナに必要以上に触れないが、時々こうやってひどい甘え方をする。わざとなのか自覚がないのかさえフィオリーナにはわからない。
わからないが、とても良くないものだということだけはわかっている。
今できることといえば、この赤い顔を誰にも見られないようにベッドに入ってしまうことだけだった。




