ホットミルクが言うには
倒れたネーヴェを仕事部屋に運んだのはクリストフとカリニだ。
動揺していたのはフィオリーナと同じだったが、クリストフはまだ息があると確認してからカリニを呼んで共にネーヴェを運んでいったのだ。両脇から肩に腕を回されてもネーヴェは目覚めなかった。
フィオリーナは騒ぎを聞いてやってきたホーネットにすぐに医者をと頼むと、帰ってきたアクアがその足で村の開業医だという医師の元へと走ってくれた。
「やっぱりな」
夜中だというのに思いのほか早くやってきた開業医はそう嘆息した。髭面の顎をかいて白衣のポケットに手を突っ込んだ医師は、どう見ても場末の酒場にいる賭博師のようにしか見えない。だが、彼がネーヴェと共に薬を開発しているブラッドリー医師だという。
「マケットさんの家に呼ばれたから嫌な予感はしてたんだよ」
どうしてマケットの名前が出てくるのかわからなかったが、ブラッドリーはカリニに帽子掛けを持ってくるよう言いつけた。
「点滴を吊すんだ。あいにくそんなもん持ってこられねぇからな」
ブラッドリーはアクアに診療用の鞄を持たせてネーヴェの部屋へと向かっていたが、クリストフを見るとすこし驚いたように立ち止まる。
「どうしてあんたが……まぁいいや。それより」
ブラッドリーは応接間の隅で様子を見守っていたフィオリーナに目を向けた。
「お嬢ちゃん、ひどい顔色だ。早く寝たほうがいい。眠れなくてもベッドに入って休め」
そう言って、今度こそネーヴェの部屋へと向かっていった。クリストフもブラッドリーに続いて行く。仕事部屋に寝かされているはずのネーヴェの様子を見に行くのだろう。
残されたフィオリーナは震えていた手をさすってうつむいた。
ひどい顔だということは、自分でも自覚がある。けれどとても眠れそうになかった。
「フィオリーナ様」
ホーネットがフィオリーナを応接間のソファに座らせてくれた。とてもひとりでは動けそうになかったのだ。
「ブラッドリーさんが来てくださいましたから、もう大丈夫ですよ」
ホーネットがそう言ってくれるが、応接間のサイドテーブルには飲みかけのワイングラスがそのまま残されている。ネーヴェは、いつもより多弁でワインをよく飲んでいた。そのくせカナッペにはひとつも手をつけていなかった。
人形を作る魔術で傷を負えば、激痛に苛まれる。そう聞いていたはずなのに、あまりにも普段通りのネーヴェに騙されてしまった。
ブラッドリー医師やホーネットたちの様子から見れば、おそらくよくあることなのだろう。
それでもフィオリーナにはすぐには受け入れられそうになかった。
唐突に気づいてしまったのだ。
ネーヴェが見せた傷は、フィオリーナをかばってできたものだ。彼は力を分ける程度で怪我を調節すると言った。服で見えない場所にまだ無数の傷があるのだとしたら。
元々ネーヴェはひとりでこの襲撃を撃退する計画を周到に立てていた。実際、ほとんどの敵をしりぞけたのはネーヴェだ。
その計画に割り込むようにして帰ってきたフィオリーナのせいで怪我をしたのだとしたら、それは足手まといや役立たずの域を越えている。
となりでホーネットがずっと付き添ってくれていたが、どかどかと足音が聞こえてくる。クリストフだ。
「まったく人騒がせなやつだ!」
そう大声で言って、フィオリーナに「先に休むよ」と言う。
「ホーネット、上の客間を使わせてくれ」
「はい、かしこまりました」
ホーネットはクリストフにそう答えるが、フィオリーナを気遣わしげに見比べる。
「……わたくしは大丈夫。行ってください」
フィオリーナがそう言って送り出すと、ホーネットはクリストフについて階段を上がっていった。
続いて、カリニがブラッドリーと共に応接間へやってくる。
「まだ寝ていなかったのか」
あきれたようにブラッドリーに言われてフィオリーナは身をすくめるが、彼は少し息をついただけだった。
「ネーヴェなら心配いらない。点滴を打ってきたから」
「……本当ですか?」
フィオリーナの顔を見て、ブラッドリーはカリニを見やる。カリニがうなずくと、ブラッドリーは溜息をついた。
「元々いいとは言えなかったんだ。何せ、長年内臓まで達するような怪我を繰り返していたからな。どんなに鍛えたって怪我による疲労が身体に蓄積する。あんな患者、ふつうの医者ならすぐ入院させて、部屋から出さねぇよ」
ネーヴェの体は、言うなればささいな刺激でも血が吹き出てしまうようなひどい有様で、自分の足で動いているほうが不思議なほどだという。
「でも、さっき診た様子じゃあ少しだけいい傾向がみられた。あんたが来てからちゃんと食事を欠かさず食ってるんだってな。いい傾向だ。食べる量も増えてきたとカリニさんから聞いたところだ」
だからな、とブラッドリーは続ける。
「あんたのせいでも何でもないんだから、さっさと寝て、元気な顔を見せてやんな。お嬢ちゃんが倒れたら、きっと心配で起きちまうよ」
やっと寝たところだからな、と言ってブラッドリーはカリニにいくつか話すと帰っていってしまった。また昼頃に様子を見に来るという。
ブラッドリーを見送ったカリニはまだ応接間から動かないフィオリーナを見たが、何も言わずにかたわらに立った。
「ホットミルクでもお持ちいたしましょう」
何かを口にできる気分ではなかったが、気遣いが温かくてフィオリーナがうなずくと、カリニはいつものように静かに辞していく。
食事をとることはフィオリーナにとって当たり前のことだが、話に聞くネーヴェはおそろしく不規則な生活をしていたのかもしれない。それが、フィオリーナと暮らすことで改善されているのなら、たしかに良い傾向だ。
ブラッドリーにネーヴェの様子を聞いたからだろうか。少し気が落ち着いたところで、カリニが湯気をたたえたカップを銀盆に載せてやってきた。
「お待たせいたしました」
カリニがサイドテーブルに置いたカップからはホットミルクが甘い香りのする湯気を漂わせている。でも、カップに手を添えると少し熱い。
フィオリーナが手を引っ込めると、カリニはそのまま応接間の脇に立とうとするのでフィオリーナは彼を呼び止める。
「……あの、すこし話し相手になってくれないかしら」
フィオリーナの呼びかけに、カリニはソファのかたわらに立ってくれるが、立ったままの彼と話すのはしのびなくて席を勧める。
「すこしのあいだでいいの」
フィオリーナの言葉にカリニは快くうなずいて、フィオリーナの対面に腰掛けてくれた。それでも背筋はぴんと伸びて、まったく年齢を感じさせない。
「……ネーヴェさんは、ちゃんと眠っているのかしら」
フィオリーナがつぶやくように言うと、カリニは律儀にうなずいた。
「はい。点滴を打ったあとは静かに眠っていらっしゃいましたよ」
カリニの様子は何かを隠しているようには見えなかった。でも彼は熟練の使用人だ。カリニの嘘をフィオリーナでは見抜けそうにない。
他に質問してネーヴェのことを聞き出すような真似もできそうになかったので、フィオリーナは素直に自分の気持ちを吐露していた。
「……わたくし、本当にびっくりしてしまって…何もできなくて…」
「当然です。あのような場面で動揺しない人間などおりません」
カリニが言うには、あのクリストフも動転していたという。
「医者はまだかと怒鳴られておりました。失礼ながら、あのような姿を見られるとは思いもよりませんでした」
クリストフという人は、貴族の悪いところばかりを身につけたような人だが、自由に生きるために常識を利用しているのかもしれない。それが他人には悪し様に見えるのだろう。
「……旦那様は、少し無理をなさっただけです。ご心配されませんよう」
カリニの言葉はどこか実感に満ちていて、まるでネーヴェを昔から知っているような口振りだ。
「あの……ネーヴェさんは、どうしてあんな風に……」
ひとりで何でも解決しようとするのだろうか。
そうフィオリーナは尋ねようとしたが、これはネーヴェに尋ねるしかないことだった。
フィオリーナが押し黙ってしまうと、様子を見守っていたカリニが口を開いた。
「……私は、カミルヴァルト本家の使用人でございます」
カリニとホーネットは、ネーヴェがオルミへやってくることが決まってから、カミルヴァルト本家から遣わされたという。
「ですから、ネーヴェ様のことは小さい頃からよく存じております」
そう言って、カリニは少しだけ応接間から見える窓の外へと視線をやった。
今夜の大事件など知らない深夜の庭は暗く静かだ。
月のない草陰はいっそう暗かったが、どこも平等に息をひそめているようだった。
「──ネーヴェ様がカミルヴァルトに引き取られたのは、五歳の頃でした」
売春窟の長屋で死んだ母親と共に見つけられたという。
父であるカミルヴァルト当主自ら探し出したというから、本当に草の根を分けるようにして探し出されたのだ。
「母親を幼くして亡くされたためなのか、幼いころからネーヴェ様は不思議な方だったように思います」
膨大な魔力を持ちながら誰とも打ち解けず、毎日のようにカミルヴァルト本家にある広大な敷地の庭へと出かけていたという。
きっと妖精たちと会っていたのだろう。
「そんなネーヴェ様が、ある日自分とそっくりな子供と女性を連れて帰ってこられたのです。……それがマーレとアクアです」
ネーヴェは父親に問いつめられてようやく、彼らを妖精で作ったと白状した。
「……それからというもの、ご当主の教育が始まったのです」
魔術に始まり、剣術、馬術などの武芸、地政学、数学、歴史学などのあらゆる学問、貴族に必要な儀礼、礼儀作法。それらをカミルヴァルト当主は徹底的にネーヴェに身につけさせた。
忙しい自分の睡眠時間を削ってまでネーヴェの教育に割き、ネーヴェにも一睡もさせない日があったという。
ネーヴェのエスコートがおそろしく整っているのも、そのときの教育のためだろう。テーブルマナーひとつとっても、戦場帰りを思わせる粗野なふるまいも見られるというのにネーヴェはパン屑ひとつ落とさない。
「ご当主の思惑は、そのときは誰も理解できませんでした。この教育は五年も休むことなく続いたのです」
そしてその理由があきらかにされたのは、ネーヴェが十一歳の年のこと。
「北部戦線が始まると同時に、ネーヴェ様は出兵を命じられたのです」
それは異例の出兵だった。
貴族の徴兵は、通常は十三歳からでよほどの特例でも十二歳から。少年少女たちは後方支援の部隊に組み込まれた。
しかし、ネーヴェが配属されたのは前線の魔導部隊だった。
「出兵されてから、魔術の実験で作られたのがラーゴだったようです」
アクアはずっとあの姿のままだったが、マーレは幼い子供だった。ネーヴェの成長と共に姿を変えていたという。ラーゴもおそらく十代のネーヴェを真似たのだろう。
「それから──ネーヴェ様は十年のあいだずっと戦場におられたのです」
あまりに長い従軍だ。
兵役は三年から五年。長くて八年が最長だという。
フィオリーナの兄も従軍していたが、三年で復員した。それに兄が従軍したのは、成人してからのことだ。
「戦場でのことは、私には知るすべはありませんが、ネーヴェ様にとっては部隊は家族も同然だったようです」
家族同然だったとしても、戦争である限り戦友は欠け、戦争が終われば散り散りになる。
ほとんど戦場で育ったネーヴェには、毎日となりにいた人が突然いなくなることは当たり前のことだったのかもしれない。そんな非情な戦場であっても、ネーヴェの居場所だったのだ。その居場所を失った孤独はネーヴェの中に空洞を作っただろう。
「オルミ領を賜っても、ネーヴェ様の家ではなかったのでしょう。ひどい生活でしたよ」
カリニたちがカミルヴァルトから派遣されるまで、ほとんど家具もないこの屋敷で仕事部屋だけで生活していたというから筋金入りだ。
カリニたちが本家にかけ合って家具を仕入れ、人が住める体裁を整えてようやく家の形になったところで、ネーヴェは驚いていたという。
「ネーヴェ様が庭を手入れし始めたのもそのころだったでしょうか。こういうものが家なのか、と笑っておられました」
五体満足でいること、毎日食事が食べられること、あたたかい布団で眠れること、それが当たり前なのだとようやく認識できた様子だったという。
それから五年かけて、ネーヴェは様々なものに手を加えるようになった。それは浴室の設備だったり、庭のポンプだったり、厨房にも水道管を自分で引いた。
ホーネットが特に喜んでいたというから、水汲みなどの労働が厳しくなってきたホーネットとカリニをきっと喜ばせたかったのだ。
ベロニカの城で老齢の執事に丸め込まれていたのは、カリニに叱られた記憶があるからかもしれない。
「……私どもは長くお仕えしておりますが、ただの使用人に過ぎません。私どものような年老いた使用人をこちらに送ったご当主の思惑も、ネーヴェ様の本当の心もわかることはないでしょう」
家族のように暮らしていても、カリニたちは家族ではないという。
それでも、フィオリーナにはわかることがある。
「──家族ではないかもしれないけれど、わたくしたちにとってあなたがたのような使用人は、本当に家族同然なのですよ」
古参の使用人は本当の家族以上にそばにいるものだ。少なくとも、古参の使用人を大事にしていたザカリーニ家では家族同然に信頼している。
「ネーヴェさんも、きっとカリニさんに感謝されているのだと思います」
フィオリーナが微笑むと、カリニも口元をゆるめた。
「……ええ。そうであったなら、私も報われるというものです」
そう言って、カリニは苦笑する。
「旦那様ときたらフィオリーナ様に会われる日に、髭も剃られておりませんでしたから」
やっぱり、あのとき前髪が濡れていたのは顔を洗ったぐらいではなかったのだ。ほとんど無理矢理カリニに身なりを整えられていたのだろう。
フィオリーナが思わず笑うと、カリニもすこし笑った。
「……本当に手の掛かる方なのです」
フィオリーナがここに住むようになってから、ネーヴェは生活を改めるようになったという。それまではいくらホーネットやカリニが言っても聞かなかった。
「旦那様が朝起きて朝食を食べる姿を見ることになるとは、思いもしなかったことなのです」
カリニはそう言って笑って、しわの深い顔に笑みをたたえた。
「……本当はホーネットも私も、カミルヴァルトの本家で引退を決めていたのです」
引退を決めたものの、余生を静かに過ごすには彼らには家族がいなかった。
「私もホーネットも、職を離れれば身寄りのないただの老人なのです。ここが最後の仕事場になるでしょう」
「ですから」とカリニは目を細めた。
「我々がお仕えできるあいだに、旦那様がおだやかに暮らすお姿を見ることができて、本当に感謝しております。フィオリーナ様」
カリニはそう言って席を立った。
「──年をとると話が長くなってしまうものですね。失礼いたしました」
ネーヴェの様子を見てくると言って立ち去るカリニを見送って、フィオリーナはホットミルク入りのカップを手に取った。人肌に近い、ちょうどいい温度になっている。カリニは本当に優秀な執事なのだ。
カリニはわからないと言っていたが、ネーヴェに彼らを送ったというカミルヴァルト当主の思惑も何となく感じ取れた。当主はきっと、優秀な人材だからネーヴェの元へ派遣したのだ。
本当にネーヴェはあきれた人だ。家族同然に暮らしている使用人にここまで心配されているというのに、わがままで、めちゃくちゃで──優しい人だ。
だからこそ人に嫌われもするが、人が集まるのだろう。
温かいミルクを飲むと、フィオリーナの気持ちもようやくほぐれてくるようだった。
気持ちがほぐれれば、明日には何かが良くなっている気がするから不思議だ。
戦場にいたネーヴェはこうやって、明日になれば何かが良くなっているとは思えなかったのかもしれない。
全く立場も状況も違うが、フィオリーナもそうだった。
ひどい経験と噂に打ちのめされてザカリーニでうずくまっていたときは、フィオリーナも明日が良くなるとは思えなかった。
(でも)
この場所で守られているのだと実感できて、ようやく明日がくることが怖くなくなった。
ネーヴェもそうであればいい。
そうであってほしい。
彼が傷ついてまで守ろうとするのなら、ネーヴェにとっておだやかな、この居心地の良い場所をフィオリーナも守りたい。
たとえ家族でもない、恋人でもない、ただの同居人であっても。
少しだけ、と目を閉じるとソファに体が沈み込んでいく。
ふわふわと温かくなった体は自由が利かず、もう少しだけ、とフィオリーナは体をそのまま預けた。




