白ワインが言うには
流血表現あり
ようやく帰ってきたオルミの屋敷は、周囲が荒れ果てていた。
屋敷の他に近くに民家はないが、道の脇にあった木がなぎ倒され、草地が大きく抉れている。
「この先はもっと荒れています」
フィオリーナの視線の先を見据えるようにして、フィオリーナを前に座らせたまま馬を繰っていたアクアが答えた。魔術で作り出した浮かぶランプの明かりが届く範囲でさえこの有様なのだ。ひどい戦闘が行われたことは、フィオリーナでさえも想像できた。
「……本当に戦場じゃないか」
共に騎馬でオルミの屋敷までやってきたクリストフは「むちゃくちゃだな」とあきれた声を上げた。そう嘆きながらクリストフは魔術の明かりだけを頼りに、荒れた道で器用に手綱を操っている。
アクアとクリストフは手綱だけを頼りに鞍も鐙もない馬を見事に操ってここまで帰ってきた。その乗馬技術は何事も足りないことが当たり前の戦場で培われたのだろう。乗馬に親しんでいるフィオリーナでも馬にしがみつくだけで精一杯だった。
残してきた馬車は、足りない馬をマーレとラーゴが魔術で足してあとから引いてくるという。
馬の行く先を照らしていた明かりが、屋敷の門前をうっすらと浮かび上がらせる。
その門前に明かりが見えた。
小さな門の前で、長身がランプの明かりの元で待っているのだ。
ベストとスラックス姿の、ネーヴェだ。
フィオリーナたちを見て取るとネーヴェはほっとしたように息をついた。
馬を止めてアクアが先に降りると、ネーヴェが馬上のフィオリーナに向けて腕を伸ばしてくる。ドレスのまま飛び降りるわけにもいかない。
おずおずと手を取ると、ネーヴェはフィオリーナの身体を抱き留めた。
精巧な人形などではない。たしかなぬくもりがフィオリーナを包んで、泣きたくなってしまう。
触れても今度は消えない。
(この人は消えない)
抱きついたフィオリーナにネーヴェも身をかがめるようにして頬を寄せた。
「──おかえり、フィオリーナ」
安堵を吐き出すような優しい声は、フィオリーナを本当に心配していたのだと物語るようだった。
心配していたのはフィオリーナも同じだ。
肩口に頬を寄せて、抱きしめる。
「……おかえりなさい、ネーヴェさん」
▽
深夜も回ったところだというのにホーネットとカリニはフィオリーナたちを出迎えてくれた。
紅茶を入れてくれるというので、フィオリーナはまず着替えることにした。
風呂に入るのは明日にすることで、フィオリーナはアクアに手伝ってもらって簡単に身なりを整えて着替える。夜会用のドレスを着ていたことをすっかり忘れていたので、コルセットはくたびれていたし、ヒールを履いていた足はすっかり痛くなっていた。借り物の宝石をなくしていないことには胸をなで下ろした。
倒れていないことが不思議なほど、今日は様々なことがあった。
なんとか着替えて階下へ降りると、クリストフとネーヴェがワインを開けていた。
「ここまで巻き込まれてやったんだから、ちゃんと説明しろよ。ネーヴェ」
白ワインを自分でグラスに注いで、クリストフは応接間のソファにどっかりと座り込んでいる。ジャケットはカリニに預けたようで、ボウタイも外した白いベスト姿だ。ネーヴェの話を聞くまで動くつもりはなさそうだ。
それがわかるのか、ネーヴェも煙草をくわえたまま白ワインを自分でグラスに注ぐ。
「話せるところまでなら」
そう言って、ネーヴェは階下に降りてきたばかりのフィオリーナに目を向けると手招きする。
「おいで。紅茶もありますよ」
サイドテーブルには紅茶の他にもカナッペやクッキーなども並べられている。
ほとんど飲まず食わずで帰ってきたのだ。すこしでも食べられるのはありがたかった。
勧められるままネーヴェのとなりの席に座ると、心得たようにカップが並べられて紅茶が注がれる。そのネーヴェの手つきは慣れたもので危うげもない。
彼の左腕もきちんとついていた。
じっと左腕を見ていることがバレたのか、ネーヴェと目が合うと菫色の瞳が笑った。
「……大丈夫。ちゃんとついてますよ」
人形を通していても、ネーヴェと繋がっていたのだ。それがわかると、ホッとするのと同時に心配になる。
アクアが話してくれた、ネーヴェの分身についてのことだ。
「……本当に、怪我をしていないのですか?」
ネーヴェは分身が傷つけば彼本人も傷を負うという。ネーヴェは今、手首までしっかりと覆う長袖のシャツ姿だ。
ネーヴェはじっとフィオリーナを見つめた。それはまるで狼が様子を窺うようで、フィオリーナのほうが緊張してしまう。ネーヴェは何も口を挟まず白ワインを飲むクリストフにも視線を向け、溜息をついた。
「……もしかして、私の人形について何か聞きました?」
相変わらず鋭い人だ。
「アクアを責めるなよ。俺が脅した」
そう言ってクリストフは素知らぬ顔で白ワインを舐める。
フィオリーナを人質にしたことは言わないつもりだろう。
ネーヴェは「ふぅん」と一応うなずくが、
「──怪我を共有するなら、アクアたちが見たもの聞いたものも共有するとは思わなかったのか?」
つまらなさそうに言うネーヴェを、フィオリーナは思わず凝視する。ネーヴェがアクアたちの見たものを共有するというのなら、それはフィオリーナに関することも含まれるはずだ。
アクアには今まで着替えから風呂の世話までしてもらっている。アクアが見たものがネーヴェにも筒抜けだったとするのなら、それはそういうことになる。
「ね、ネーヴェさん……そ、それは、ほんとうなのですか……?」
顔を真っ赤にして泣きそうになっているフィオリーナに、ネーヴェはぎょっと目を丸くする。そしてフィオリーナの言わんとするところに思い至ったのか、片手で額を覆う。
「わ、わたくし……その、アクアにいろいろと手伝ってもらって…」
「わかりました。わかりましたから。嘘ですよ。安心してください。何も見ていません」
弁解するネーヴェにクリストフは「こいつはいい」と笑った。
「ネーヴェと交渉するときは必ずフィオリーナ嬢に同席してもらおう」
元々嘘だとわかっていたのか、クリストフはワインを飲みながら笑う。そんなクリストフを睨んで、ネーヴェはフィオリーナに向き直った。
「──でも、アクアたちとの交渉にあなたが使われたのは本当ですね?」
そうネーヴェにじっと見つめられて、フィオリーナの涙も引っ込んでしまう。この人は本当に油断ならない。
ネーヴェの事情を聞きたかったフィオリーナもクリストフに協力したのだから同罪だ。どう言葉にしたものか迷っていると、ネーヴェは短く息をつく。
「……あなたが傷ついたのではないのなら、それでいいですよ」
そう言って、ネーヴェは自分の左腕の袖のカフスを外す。シャツがめくられた腕には、真新しい包帯が巻かれていた。
「今回は腕を切られたので、少し深く切っただけです。私だって、何でもかんでも媒体にしているわけではありませんよ。分け与える力の程度や人形の出来によって、怪我の深度が異なるように調節しているんです」
ネーヴェは何でもないことのように言うが、それがおびただしい数となればやはりそれは体の負担となるはずだ。
「……いつか話したことがあるでしょう。かりそめであっても命を操るということは、代償が必要だと」
たしかに聞いた。残骸であっても妖精の命をくべて形にしている非情な魔術だ。その代償がネーヴェの命ということなのか。
「……おまえが他の魔術の開発に積極的だったのも、その代償のせいか」
クリストフはワインを飲み干して、ふたたびワインをグラスに注ぐ。
ワイングラスに注がれる黄金色を眺めながら、ネーヴェは目を細めた。
「──私以外扱えない魔術ばかりでは、さすがに過労死するからな」
本当に長い戦争だったから、とネーヴェはぽつりとこぼす。彼の家となるほど長い時間を戦場で過ごしてきたネーヴェは、生き残るために魔術を作ってきたのだ。
「じゃあ……今回おまえひとりで解決しようとしていたのは、カミルヴァルトが関わっているからか」
クリストフはワイングラスをサイドテーブルに置いたまま、身をかがめてネーヴェを睨んだ。
「カミルヴァルトに連なる親戚連中……ティエリ領との確執がそんなに悪化していたのか」
クリストフの問いに、今度はネーヴェが自分のグラスにワインを注ぐ。
フィオリーナもようやくカップを手にした。ほどよく冷めた紅茶はまだ温かい。
フィオリーナに「何か食べたほうが落ち着きますよ」とカナッペも勧めてから、ネーヴェはワイングラスを手にしてゆっくりと回す。
「──これまでは大した被害じゃなかった。軍人崩れを雇って街道での恐喝、書類の不備を装った物資輸送の妨害、採掘師の移住の強制……まぁ、こんなものか。どれも予想できたことだった」
恐喝や妨害も十分事件となりうることだが、アクアたちが阻止することで目立った被害は出なかったという。移住の話は元から採掘師に決定を委ねていたことで、ネーヴェは積極的に引き留めることはしなかった。
「私は元々ティエリ領への移住を認めている。……正直言って、この領に大人数を養う力はないからな。村が三つあった頃に貧しかったのは、単純に人口が多かったからだ」
人が多ければ食料も物資も多く必要になる。税収を秤にかければ人口の多さはたしかな強みとなるが、養いきれなければ毒にもなる。ネーヴェは領民に手ずから薬を配るほど常に気を配っているが、冷静に自領の状況を見極めているのだ。彼は領民に甘いだけの領主ではない。
「でも、ある時期から転送機に細工がされるようになった。手紙のやりとりが盗まれた形跡が見られたんだ。情報の傍受はもう嫌がらせの域じゃない。立派な介入行為だ」
ネーヴェはこの妨害を見つけたときからすでに今回の計画を予想していたという。
転送屋で異変を見つけても、黙っていたのは誰にも異変を知らせないためだ。
ネーヴェはアクアたちと共に綿密に襲撃に備えていた。マーレやラーゴを頻繁に使いに出していたのはそのためだったという。
「それでも、まさかここまで大規模な部隊を編成してくるとは思っていなかったよ」
ネーヴェの苦笑に、クリストフはあきれ顔で肩をすくめる。
「おまえはうまくやりすぎたんだ、ネーヴェ。あまりにも嫌がらせが通じないから、あちらが業を煮やした」
業を煮やしたとはいえ今回のことはやりすぎだ。
ネーヴェはワインに口をつけて、口を歪めた。
「今回はもう武力衝突だからな。黙ってやり過ごすには規模が大きすぎる。……でもまぁ、公にはならないだろう」
ワインを飲み干したネーヴェをクリストフは睨んだ。
「これだけの武力衝突がなかったことになるって? そんなバカなことが……」
「あるんだよ。カミルヴァルトの連中に殺されそうになったのは、一度や二度のことじゃない。こういうとき、魔術は証拠が残りにくいから厄介なんだ」
ネーヴェはそうこぼして、溜息をつく。
「……私が被害を訴えることはできる。証拠はそろえてある。今回の襲撃だって、村が襲われた事実があればもっと楽に訴えられただろう」
そう非情なことを口にして、
「……でも、それでは駄目だ」
ネーヴェは口元を歪めた。
「……これは、主義や主張の建前のある戦争じゃない。私が生き残るためだけの、私の戦いなんだよ。だから、フィオリーナも、戦友も、領民も、誰も巻き込まれるべきじゃない」
そのためにネーヴェは最善の策としてフィオリーナをアクアたちと共にオルミ領から追い出したというのか。
「……単純な話だ」
ネーヴェはソファの背もたれに体を預けて目を閉じる。
「私は、自分の帰る場所を守りたいだけなんだから……」
自分の居場所を守りたいだけで、ネーヴェはすべてを守ろうとするのか。
それには間違いなくフィオリーナも含まれていることがわかって、痛ましさで見ていられなくなってしまう。
ネーヴェの孤独はまるで雪のように深くて冷たい。
ネーヴェの吐息がか細くなる。
──それは、眠っているようにも見えた。
「……ネーヴェさん?」
小さく咳をした唇から漏れたのは、赤黒い血だった。
「ネーヴェ!」
クリストフがソファを蹴るように立つ。
フィオリーナもとっさにネーヴェの体に触れると、その体は驚くほど冷たくなっていた。
「ネーヴェさん…!」
何度呼びかけても、冷たい体は身じろぎもしなかった。




