棺が言うには
暴力表現あり
奇妙な音を聞いた気がしてフィオリーナが目を開けると、膝に乗っていたはずの猫はいなかった。
代わりに大きな狼が馬車の外を警戒している。
不思議と怖いと思えなかった狼にすがるようにして、フィオリーナは声をかける。
「……アクア。様子がおかしいわ。どうしたの?」
グルル、と唸りながら、狼が口を開いた。
『ここを動かないで。大規模魔術が展開されました』
この馬車はアクアたちによって守られているが、外は違う。
突然、外から馬車のドアノブをがたがたと揺らされる。クリストフの護衛だ。彼はしきりにドアを揺らしながら叫んだ。
「お逃げください!…わたしは、もうだめで…っ」
まるで焦点の合わない目で叫んだかと思えば、護衛は蒼白な顔で馬車のドアを引き開けようとする。
鍵などないはずのドアはぎりぎりと悲鳴を上げて閉じようとしているが、護衛の力は通常の人間では考えられないほどの力が出ているようだった。みしみしと何かが軋む嫌な音が馬車の中にまで響いている。
狼は馬車の中からドアを睨みつけて歯を剝きだして唸った。睨まれたドアは淡く光って、外からの力に抵抗しているようだった。この狼が魔術でドアを守っているのだ。
『わたくしのうしろへ! もうドアが保たない!』
アクアの声にフィオリーナは狼の背にしがみつく。同時に馬車のドアが引きちぎられた。
轟音を立ててドアを飛ばしたのはもはや意識があるとも思えない護衛たちだ。
ドアが弾き飛ぶのと同時に、見えない何かが飛んでくるのがフィオリーナにもわかった。
それをアクアが光る壁で遮って弾き返すが、それは空中を縦横無尽に動き回っているようだ。
糸だ、と思ったのは、無数に増えたそれが狼の身体を貫いたからだった。
狼はフィオリーナをかばうようにしてドアのふちで無数の糸に縫いつけられてしまった。
狼の身体をすり抜けて、糸が馬車の中に入り込む。
突風が吹いた。
フィオリーナは思わず身を竦めて顔をかばう。
首筋に気配がした。
そろりと視線を向けると、皮手袋が見えた。
フィオリーナの首を貫こうとしていた糸の先を針をつまむようにして、皮手袋が指先で捕らえている。
吐息が額にかかえって顔を上げると、肩口に流れていた長い髪が光の粒子とともに消えていく。粒子につられて見上げると、見慣れた菫色の瞳が眼鏡の奥で細くなった。
「……フィオリーナ」
今まで狼がいたはずの場所に、裾の長い軍服を着たネーヴェがひざまずいていた。
フィオリーナを覆うように長身をかがめているその身体は、無数の糸に貫かれている。
血が出ないのが不思議なほど縫い止められているというのに、ネーヴェは自分の身体には見向きもしない。
「怪我は?」
ひどい人だ。
フィオリーナがこんなに心配しているというのに、ネーヴェはフィオリーナの心配ばかり。
「…ネ、ネーヴェさんのほうがひどい怪我です…!」
いっそ泣き叫べばネーヴェだって自分の身体を顧みてくれるのではないかと思うのに、フィオリーナの瞳からは涙ひとつこぼれなかった。
ひどい女だ。
この人のために涙のひとしずくも流れないなんて。
ネーヴェはフィオリーナの言葉でようやく自分の状況に意識を向けたようだが、「ああ」とうなずいただけだった。
「とっさにアクアと身体を入れ替えたので」
そう言ってネーヴェがぎこちなく腕を動かすと、ぶちぶちと繋がれていた糸が切れていく。
「アクアは無事ですよ」
そう困ったように苦笑して、フィオリーナに向かって左腕を差し出す。
けれど、その左腕はフィオリーナには届かなかった。
馬車の外から突き出された剣が鈍い光を放って腕のあった場所で軌跡を描いている。
その左腕はごとりと馬車の中に落ちた。
フィオリーナから悲鳴は出なかった。そのかわり、体中に鳴り響くようにして喉をひきつらせた。
どういうわけだかネーヴェの腕から血は出ない。
凝視しているあいだにも攻撃は止まない。次の斬撃が繰り出されている。
「……やれやれ」
長身が溜息をついたかと思えば、振り向きざまに剣を打ち払っていた。
長剣に対するには短すぎる短剣で打ち払ったかと思えば、長剣が砕けた。
身体を縫い止めていた糸を完全に断ち切ると、ネーヴェの周囲に光る壁が現れる。それが襲いくる糸を弾いた。
そうしているあいだに、馬車の床に落ちた腕は光の粒子となっていっている。
フィオリーナは思わず手に取ろうとしたが、ネーヴェの落ちた手は粒子となって消えてしまった。
「あーあ……この馬車はもうダメだな」
外からの攻撃を退けたのか、ネーヴェは馬車の外側を覗いて溜息をついている。腕を切られたまま。
「あ、の…ネーヴェさん…」
見上げるフィオリーナにネーヴェは首を傾げて屈んだ。
「どうしました?」
「うでを……」
「腕?」
どうして腕を切られて平気な顔をしていられるのだろうか。
フィオリーナのほうが痛そうで見ていられない。
「腕を、つかまえようとしたのですが、消えてしまいました……」
言葉にしてみるとこれほど奇妙な出来事はない。
しかし蒼白になっているフィオリーナの言葉に、やっとネーヴェはうなずいた。
「ああ、腕を捕まえようとしてくれたんですね」
フィオリーナの言葉を繰り返してネーヴェはのんびりと笑った。
「大丈夫ですよ。人形の身体が欠けただけですから」
まるで本人のような顔が苦笑する。
「本体の私は屋敷にいます」
これほど精巧に作られているのが人形だというのか。まだ夏の終わりだというのに彼の着ている冬用のコートが軍服だということは知っている。従軍した兄が着ていたからだ。けれどそのほかは仕草も雰囲気も見慣れたネーヴェ本人だった。
「触ってみますか?」
そう言ってネーヴェの人形がひざまずいて首をもたげると、フィオリーナに顔を差し出してくる。
本当に本人ではないのだろうか。
ためらいながら少し汚れた頬に指先がふれると、柔らかいのに固いような不思議な感触がした。触れた場所はわずかに光の粒子がきらきらと湧いては消える。
「まだ終わってもいないのに、いいご身分だな」
馬車の外から声をかけてきたのは、すっかり薄汚れたタキシード姿のクリストフだ。整えていたはしばみ色の前髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜて、あたりを見回している。
馬車を襲っていたはずの護衛たちの姿はフィオリーナからは見えなくなっていた。
「遅かったな」
ひどい有様のクリストフに向き直ると、ネーヴェはそう声をかけて馬車を降りた。
「それはこっちの台詞だ。──他の場所も同じか」
クリストフの問いにネーヴェはうなずいて、
「他の場所はアクアたちが対処に当たっている。私も転送機を見つけた」
「……じゃあ、あとはあいつらだけか」
そう言ってクリストフが目を向けたのは、森の奥からずるずるという音の元だ。
薄暗い闇から現れたのは、兵士とおぼしき人間が意識もないのか身体を引きずるようにしてやってきている。
「まるで死者蘇生だな。怪談話によくある」
身の毛もよだつような光景をネーヴェはそう何の感慨もなく評して、残った右腕を前へと突き出す。すると彼の足下を中心に光の円が何重にも連なって、地面に文字が走る。
「拘束し直すから手伝え」
ネーヴェにそう言われて、クリストフは面倒臭そうにタキシードのジャケットを脱ぎ捨てる。
「くそ…っ! あとで迷惑料を請求するからな」
ネーヴェと同じように手をかざすと、クリストフの足下にも光の円ができた。
「それは首謀者に請求してくれ」
そう言い切って、ネーヴェは詠唱を始める。フィオリーナが知る限りでは初めてのことだ。
「力よ応えよ──いばらの牢獄、猛毒の格子、かりそめの死者は眠れ」
朗々と読み上げられる詠唱と共に、光の円が広がる。
「──棺を繰り眠れ、毒に沈んで眠れ、牢獄でやすらかに眠れ、息あるものは痛みで眠れ」
詠唱が進むと同時に、意識のない人間たちの身体がいっせいに宙へと吊されてその身体が光の棺に覆われていく。
その異様な光景に目が離せないでいると、フィオリーナの前を長身が遮った。
ネーヴェはフィオリーナを振り返って、目を細めると、詠唱を続ける。
「ここに牢獄の鍵を、ここに苦痛を知らない牢獄を。──拘束の棺!」
ぱん、と弾けるような音と共に光が消える。
フィオリーナが馬車から身を乗り出すころには、不気味な兵士たちはすべて棺に納められていた。今は高く釣り上げられた空中でゆっくりと回っている。
ただ、いくつかの棺桶は地上の近くで残っていて、よく見ればそれはクリストフの護衛たちだった。
クリストフは部下たちを低く宙に浮かせたまま集めると、手をかざして彼らの下に円を描く。光の円の文字を指先でいくらか調整したかと思えば、透明な壁が組みあがるようにして棺たちを覆う。すると、不思議なことに風景に馴染むようにして消えてしまった。
「……まったく。本当にとんだ重労働だ」
心底疲れたと肩をもむクリストフに、ネーヴェがあたりを見回しながら声をかける。
「迷彩結界で隠したのか」
「ああ。……これからどうやって連れ帰るかね」
クリストフはそう答えて、脱ぎ捨てていたジャケットを拾う。
「マーレたちに荷馬車で送らせる。ついでにおまえの迎えもランベルディから連れて来てやる。荷馬車でいいならそのまま送ってやるが……」
そう話している途中でネーヴェの身体が崩れた。切られた左腕からぐしゃりと形を無くしていく。
「ネーヴェさん……!」
馬車から出ようとしたフィオリーナを、ネーヴェは崩れかけた身体で押しとどめた。
「大丈夫ですよ……負荷をかけ過ぎたんです。……次の私が来るまで、あなたはここを出ないで……」
崩れていく身体は光の粒子となって消えていく。ほとんど消えかけたネーヴェの唇が動くのを見た。
──ごめん。
声もない謝罪は粒子と共に消えていった。ネーヴェが本当に無事なのかどうかさえ見当もつかなかったが、謝罪はフィオリーナに向けられたものではないことだけはわかった。
(きっと、妖精に謝ったんだわ)
彼の人形は妖精を集めて作ると言っていた。どこへいくこともできず消えていく妖精に、彼は謝ったのだ。
「……ご無事ですか。お嬢様」
消えたネーヴェの代わりに現れたのはアクアだ。お仕着せが少し汚れている。
「申し訳ありません。お嬢様を危険な目に遭わせました」
頭を下げようとするアクアの肩に手を添えて、フィオリーナは彼女の服についたほこりを払う。
「……守ってくれてありがとう、アクア」
きっとアクアはネーヴェと同様に各地を走り回っていたのだ。ここに居たアクアも身を挺してフィオリーナを守ってくれた。
馬の蹄の音がしたかと思えば、森の奥から人影が現れる。ネーヴェだ。
「とりあえず、二頭だけ見つけたよ」
森の奥へ逃げていた馬を見つけて引いてきたという。
本当にネーヴェは何体も分身を作り出すのだ。それをまざまざと見せつけられて、目を丸くするフィオリーナをネーヴェは笑った。
「大丈夫だって言ったでしょう?」
不安そうなフィオリーナを横目に、ネーヴェは馬をアクアとクリストフに渡した。
「おまえはどうする?」
手綱を引き継いだクリストフに、ネーヴェは「後始末だな」と遠くを眺めるように目をすがめた。
「この乱痴気騒ぎの主催に挨拶をしてくる」
そう言って口の端を引き上げたネーヴェは、まるで獲物に舌なめずりするような狼のようだった。
けれどその様子を見ていたフィオリーナと目が合うと、今度は大きな猫のようにのんびりと笑った。
「おいで、フィオリーナ」
アクアに手を貸してもらって馬車を降りると、ネーヴェが近くまで馬を寄せてくる。
「じゃあ、いきますよ」
そう言ったかと思えば、あっという間にフィオリーナを抱え上げてしまった。
悲鳴を上げる暇もない。
そのままフィオリーナを馬の上へと乗せて、座らせる。
目をぱちくりとさせるフィオリーナにネーヴェは満足したように笑って、アクアに手綱を渡した。
「あとは頼んだ」
「かしこまりました」
アクアがうなずくのを確かめるようにして、ネーヴェはそのまま行ってしまおうとする。フィオリーナはとっさに「ネーヴェさん」と呼びかけた。
何を言うつもりなのかは考えていなかった。ただ自分が不安だったから甘えたかっただけだ、とすぐに気付いて言葉をなくした。
情けない。顔を覆いたくなるのをこらえて、フィオリーナは律儀に足を止めてくれたネーヴェにかろうじて声をかけた。
「あの……お気をつけて」
フィオリーナの葛藤などお見通しなのか、ネーヴェは少し笑って手を振った。
「ええ、あなたも。──早く屋敷に帰っておいで」
そう言って、ネーヴェは森の暗闇に溶けるようにして消えた。




