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猫と星が言うには

暴力表現あり

 自分が異質だと気づかされるとき、想像を絶する孤独が待っている。

 たしかに人として生きているはずなのに、もうその輪の中には戻れないのだと否応無く突きつけられるのだ。

 それはまるで絶海の孤島で遠くに見える灯台の明かりを見ているようなものだった。

 最初は言葉が聞こえなくなった。

 フィオリーナの周囲からあからさまに人が消えたのだ。

 それまでもとくべつ多かったわけではない。むしろ交友関係は数えるほどで、もっと勇気を出してみなさいと言われることのほうが多かった。

 そんなフィオリーナの周囲から人の声が消えた。

 親しかったはずの友人たちが疎遠になり、時折お茶会に呼ばれても不自然なほどよそよそしい。

 次にぬくもりが消えた。

 向けられるのは冷えた悪意だけとなっていって、もう自分だけではどうしようもできなくなっていた。

 助けを求めた人は、フィオリーナを助けてくれる人ではなかった。


 今思えば、家族の助けだけで生きていたようなものだ。

 他は指の感覚がなくなるように、何も感じなくなっていっただけ。


 ネーヴェの孤独は、フィオリーナが経験したどの場面よりも過酷で壮絶だというのに、気付けば自分のそんな孤独と重ねて見ていた。

 孤独に程度があるのだとすれば、ネーヴェの孤独はずっと深いものだというのに。


「君はここに居るんだ」


 森の中をずっと走っていた馬車が止まると、クリストフはそんなことを言ってドアに手をかけた。


「君には俺の護衛を置いていくから」


『ラザルノ卿もここでお待ちください』


 座席の鳩が今度はアクアの声で警告する。


『残存部隊はほとんど沈黙しておりますが、あちらには魔術師がおります。わたくしも哨戒中ですし、マーレとラーゴも周囲を警戒していますが、この馬車の周囲にはおりません』


「じゃあ、なおさら俺が出ても問題ないな」


 クリストフはそう言って肩を竦める。


「様子を探った限り、ほとんど片付いているだろう? 俺の心配でもしてくれてるのか」


 意地悪くクリストフが笑うと、アクアは溜息をついたようだった。


『あとで旦那様にどのような扱いをされても良いのでしたら、ご勝手に』


 アクアの悪態にクリストフは笑って、馬車を出て行ってしまった。

 窓の外を覗くと、彼の護衛といくらか言葉をかわしている。護衛はフィオリーナに顔を見せるようにして軽く一礼した。

 彼らを何人か置いていく、と外から示して、クリストフは護衛と共に行ってしまった。彼らが向かう先に、襲撃された場所のひとつであるという街道沿いの森がある。

 フィオリーナが乗る馬車が居るのは、その森よりすこしはずれた林の中だ。

 クリストフが探索魔術を放って確認した戦場は、ここから林を抜けた山と崖が重なった鉱山跡地。おそらくそこが主な戦場になっているとのことだった。今はもうネーヴェがすべて終わらせたあとらしいということだったが、その戦場をクリストフは確かめに行ったのだ。

 マーレとラーゴはネーヴェの手伝いに向かって久しい。この場所の周囲に分身を残しているというが、御者台にはいない状態だ。アクアもネーヴェを手伝いに行っているので、今は鳩の分身が居るだけだ。


「……アクア。わたくしはここに来て本当に良かったのかしら」


 フィオリーナが来なければ、アクアたちはオルミに帰ることさえできなかったのはわかっている。しかし、こうして垣間見た戦場はあまりにもフィオリーナの日常からかけ離れていた。

 座席の鳩はすこし逡巡するようにうつむいたあと、羽をざわりとばたつかせた。そして光の粒子をまとったかと思えば、その姿を変えた。

 ゆっくりと伸びをして顔を上げたのは、白い猫だった。猫はフィオリーナの膝に乗って、甘えるように鳴く。

 おそるおそる頭を撫でると、猫は目を細めた。

 生き物の温かい重みもしっかりとあるのに、不思議と現実味のない猫だ。


『……フィオリーナ様を巻き込んでしまったことは、わたくし共の手落ちです』


 あとで必ずお叱りを受けます、と猫は付け足して、フィオリーナの膝で伏せた。


『ですから、あなた様がご協力くださったことを迷惑に思うことなどありません。──わたくしは、フィオリーナ様がきっと誰より旦那様に寄り添ってくださっていると思うのです』


 それはどうだろうか。

 フィオリーナは猫の額をくすぐりながら、口をつぐむ。

 戦場のことも、魔術のことも、フィオリーナにはわからない。生まれも育ちもまったく違うネーヴェのことを、きっとこれからもフィオリーナが真実理解できることはないだろう。

 彼のことをわかる人がいるとすれば、きっと同じことを経験した人だ。──たとえば、エルミスのように。

 同じ思考の行き止まりに迷い込んでいたフィオリーナを、もう一度猫は「にゃあ」と呼んだ。


『──旦那様も含めてわたくし共は、当たり前を経験したことがないのです』


 家族がいて、友人がいて、食事をし、語らい、働き、日が暮れれば家路へと急ぐ。

 ネーヴェたちはそのすべてが戦場で賄われていた。

 しかし、同じ部隊に居たとしてもほとんどの人にとって戦場は非日常だ。それに気付いたのは、皮肉にも戦争が終わってから。

 オルミへやってきてからのネーヴェは終始戸惑った様子だったという。

 おだやかな家の中でいったい何をして過ごせばいいのかわからない。

 奇病の研究を始めたのは、ネーヴェの言うとおり、彼の気の長い趣味の研究の延長だったという。奇病のことならば、どれだけ時間をかけても片付くことがない問題だから。


『……フィオリーナ様と過ごすようになって、旦那様は変わりました』


 誰と暮らしたところで、ともすれば昼夜逆転していても平気な顔をしていたネーヴェが、フィオリーナと過ごすようになって朝に起きて朝食を食べるようになった。家で人と会話するということを覚えて応接間に顔を出し、いくら言っても聞こうともしなかった食事中に新聞を読むことを止めた。


『身なりに気を使わないことはあまり直りませんね』


 アクアがそう苦笑するので、フィオリーナもつられて口の端を上げた。身なりを整えることは大事だが、ネーヴェが本当に身なりに気をつけてしまったら、シーズンに大量の招待状が来てオルミ領にはいられなくなってしまいそうだ。


『……こうやって、旦那様はフィオリーナ様から人として生活することを学んでいらっしゃるのだと思います』


 それがアクアたちは喜ばしいのだという。


『わたくしたちはどうあがいても、人ではありませんから』


 情報として善し悪しは判断できても、本当の意味で人にはなれない。

 そう言ってうつむく猫の背をフィオリーナは撫でる。


「……わたくしでも、あなたたちの役に立てているのかしら」


 助けられているのはいつもフィオリーナのほうだとばかり思っていた。


『あなたは、わたくしたちの心を守ってくださっているのです。……ですから、あなたのことは必ずお守りいたします』


 フィオリーナの膝の上で猫が丸くなって目を閉じる。


『それはきっと、旦那様も同じです』


 守られてばかりで本当に良いのか。重くのしかかるような声がフィオリーナの心を支配している。

 けれど、そんなフィオリーナだからこそわかることがあるのだとすれば。

 暗闇で一粒の光を見出すように、フィオリーナも目を閉じた。


    ▽


「こいつはひどいな」


 焼け焦げ、荒れた鉱山跡地を眺めてクリストフは久しぶりに戦場を思い出していた。

 大勢が山野を踏みにじった跡に血が散らばり、その空中では生身の人間が入った棺桶がゆっくりと浮いている。

 ここが地獄というのなら、クリストフはかつて戦場で幾度も目にしてきたおぞましい光景だ。

 かたわらの護衛が息を呑んでいる。初めて見る者にはその異常さを、何度も見る者にはうんざりするようなおぞましさを、敵にいたっては見たくもない光景だろう。

 ネーヴェが考案した無数の魔術は、そのどれもが効果的で人間離れしている。

 はたしてこれが同じ人間が考えつくことなのかと疑われた魔術のひとつが、この拘束魔術だ。

 捕虜を生きたまま棺桶に詰めるなど、まともな精神では考えもつかないだろう。

 しかしその魔術の効果は絶大で、魔術の素養があっただけの伯爵家次男坊のクリストフを当主にまで押し上げた。

 ネーヴェと共に与えられた勲等の数は、クリストフの罪の数だ。

 それでもそれがなければ、今のクリストフはなかった。

 見渡す限り動いている人も動物もいない。

 クリストフは手の中で探索魔術を作って四方へ飛ばす。拘束も行うこの魔術も、ネーヴェが作った術式だ。


 ネーヴェを筆頭とする38小隊は、戦場では恐怖の象徴として死神とまで呼ばれたが、その実は貴族の次男坊や三男坊、他に適齢のいなかった子女や野心家の商家の息子などが魔術の素養があるというだけで放り込まれた弱小部隊だ。

 後方支援などといえば聞こえはいいが、膠着する前線へ数合わせのために送る捨て駒のような部隊だった。

 敵の魔術攻撃を真っ先に防御魔術で受け、その魔導部隊を犠牲に歩兵や騎兵が前進する。それが以前の戦場の定石だった。

 攻撃魔術で仲間が潰れても、それを後回しにして騎兵や歩兵の応急処置に駆り出されることもあった。

 何人もの戦友がとなりで潰れて居なくなり、その果てをクリストフは生き残ったのだ。


 ──あんなものを経験したからといって、英雄だ死神だと持ち上げる人間共の気が知れない。


 いつだったか停戦が決まった直後に、ネーヴェが吐き捨てた言葉だ。

 そのときは、おかげで停戦が決まって良かったじゃないかなどと返した覚えがあるが、自領へ帰還してネーヴェの言葉を思い知った。

 復員したクリストフを伯爵家当主に指名するというのだ。

 戦場での功績を讃え、伯爵の地位を父から譲ると言われたときには何の冗談かと思った。戦場へ向かう前は、放蕩者の次男であるからいっそ死んでこいとまで言われたというのに。

 その放蕩息子がいまや伯爵だ。この異例の報奨は、戦場で功績を残した貴族には階級や地位を約束するという王家の通達によるものというから、クリストフは笑いをこらえるのに苦労した。

 こんな馬鹿馬鹿しいもののために戦っていたのだと思い知らされたのだ。


 クリストフたちはずっと夜空の下にいるようなものだった。

 人の暮らしは夜空でまたたく星のように遠く、夜明けの来ない戦場で殺し合う。

 この殺し合いに終わりがくるとは思えないほど、長い戦争だった。

 クリストフが戦場に居たのは停戦までの五年ほどだ。それでも殺し合いの夜空はおそろしく長く、暗かった。


 探索魔術に反応を見つけた。

 これは人ではない。機械だが、魔術の術式を帯びている。犬小屋ほどの大きさで、その中ではしきりに魔術を使った回路が行き交っている。


(これは……転送機!)


 嫌な予感がした。すぐに連絡用の魔術の立方体を作るが、変化はすぐに起こった。

 細い糸のようなものが転送機から飛び出してきたのだ。

 魔術で編まれた糸だ。

 見覚えがある。ネーヴェが考案した魔術のひとつで、物体、動く機関さえあれば干渉して自由に動かすものだ。

 意識のない人間はもちろん、意識のある人間であっても神経さえ乗っ取ることができる。

 悪夢の糸とまで呼ばれた凶悪な魔術が転送機から戦場へ吹き出すようにして向かってきている。


「……ネーヴェ! 転送機を見つけた! 二波がくるぞ!」


 通信用の魔術を飛ばして、クリストフは咄嗟に防御魔術を展開する。立方体の箱が展開されると同時に、見えない糸の雨が戦場に降り注ぐ。 

 糸が護衛の首に突き刺さるのを見た。

 舌打ち混じりに周囲を見渡すと、棺桶に糸が突き刺さると同時にどろりと中身が溶け出すのが見えた。糸が棺桶の箱をこじ開けたのだ。そしてその中身──麻痺したままの人間に糸が突き刺さる。

 あの糸は、練達すれば生物でも物体でも動く仕組みさえあれば魔術でさえも操作できる。

 意識のない人間はぎしぎしと嫌な音を立てて動き出した。  


「お…逃げくださ…い!」


 意識のある護衛がクリストフにそう叫ぶ。


「……あとで必ず助けてやる!」


 クリストフはそう言い残して走り出す。こうなってはクリストフでは止められない。

 せめて馬車で待つ、あのお姫様を守ってやるぐらいが関の山だ。


「くそ!」


 麻痺毒が効いたまま動く人間はまるで死人が動いているようだった。糸に操られて襲いかかってくる兵士共をなぎ倒す。

 落ちた剣を拾って攻撃を受けるが、相手はいくら切りつけたところで止まりはしない。操り人形と同じだ。この悪魔のような所業をとくに指して、『人形遣い』などとネーヴェは呼ばれた。

 この糸に捕まれば最後、片っ端から殺しても止まることなどないから、もう一度魔術で拘束して回るしかない。


「邪魔だ! どけ!」


 拘束魔術を振りまきながら久しく覚えなかった怒りとともに、クリストフは走ることを止めない。

 大それた勲章も爵位も、あの戦場では何の役にも立たなかった。

 知恵と暴力、それから戦友がいたから生き残れた。

 ただ、誰もが人として生きたかっただけなのだ。

 それは、まるで人間とは思えなかったネーヴェも同じだった。

 誰よりも戦場で長く生き、そのまま戦火の灰となって死ぬのだといわんばかりだった怪物だ。

 その怪物がたったひとりのお姫様のために戦っている。

 これが笑える冗談でなくて他になんと言えるだろうか。

 怪物が人になろうとしているのだ。

 これ以上に笑える話をクリストフは知らないし、これ以上幸福しか許されない話も知らない。


「……まったく、いじらしくて泣けてくるよ」


 幸福が平等でないのなら、怪物にもひとつくらいくれてやったっていいじゃないか。



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