テーブルが言うには
暴力表現あり
クリストフにしては足早に会場をあとにすると、彼は馬車止まり近くの部屋にするりと入った。
フィオリーナたちもそのこぢんまりとした部屋に入ると、アクアたちと小さなテーブルを囲んだ。こうした待合い室によく置かれているテーブルだがウィスパーテーブルと呼ばれていて、しぜんと人の距離を近くするこのテーブルは密談によく使われている。
そのテーブルについた途端に耳が遠くなるような不思議な感触が通り過ぎて、フィオリーナは不思議に思って部屋を見回した。まるで密封された箱にでも入ってしまったようだ。
そんなフィオリーナにラーゴはグラスをフィオリーナに差し出した。黄金色の液体からは酒の香りはしないので、白ぶどうのジュースのようだった。
「まずはこちらを」
喉が痛くなるほど乾いていたことを見抜かれていたようだ。「ありがとう」とフィオリーナはグラスに口をつけた。甘いぶどうの香りが乾いた体に染みていく。
フィオリーナがグラスの半分ほど飲んだところで、クリストフは口を開いた。
「落ち着いて聞いてくれよ。──オルミ領が襲撃されているらしい」
やっと落ち着いた息が跳ね上がりそうになって、フィオリーナは口元を抑えた。悲鳴をこらえたフィオリーナにわずかに視線を配って、クリストフは続ける。
「今、俺のほうでも使いを出した。──マーレ」
クリストフに水を向けられたマーレは精悍な顔をしかめてうなずく。
「……オルミ領の四つある街道すべてから襲撃者が入り込んでいる。目的は我々の屋敷だろう」
ここはオルミ領と近いとはいえ、どうしてそんなことがわかるのだろうか。
困惑するフィオリーナに、となりに居たアクアがなだめるようにフィオリーナの背に手を置いた。
「わたくしどもは、街道に常に分身を置いているのです。オルミ領には独自の役所はありませんので」
オルミでの主立った手続きはすべて町にある国の出張所で行われている。そんなことができるのは、必要な書類を直接王都の役所へ送ることができる転送機があるおかげだ。領の運営に必要な執務はネーヴェが担っているが、実務はアクアたちが手伝っている。それはネーヴェの使いから、警備にまで及ぶという。
「襲撃があったとわかって分身を増やそうとしているのですが、どういうわけかそれができない状態なのです」
アクアの言う分身とは、その土地にいる妖精を集めて彼女たちの姿を作る人形のようなもののことらしい。魔術の構造自体はネーヴェが作った妖精を人工的に集める魔術だが、人格を与えられたアクア達とは違い、分身に人格はないという。
マーレは説明ももどかしいというように口を挟んだ。
「あなたにはアクアを置いていく。俺とラーゴはオルミへ帰らせてほしい」
今夜のマーレたちはネーヴェにフィオリーナを守るよう命令されている。主人の命令は、常日頃の使用人としての仕事とは違って彼らの体を拘束するほど強力で、逆らうことはできないものらしい。今現在、最重要として命令されているのはフィオリーナの身の安全だ。命令の拘束条件は厳密だが、彼らに守られているフィオリーナが許可さえ出せば、フィオリーナは現時点で安全ということになり、命令は達成されたとしてマーレたちをオルミ領へ帰すことができるかもしれないという。
どういう選択がいいのかフィオリーナには分からない。ましてや荒事など一度も経験したことがないのだ。
それでもネーヴェが危ない状況で、マーレたちが助けに行けるのならそれが単純明快で最善だと思われた。
「──行ってください。わたくしのことは気にしないで」
本当はネーヴェが心配でたまらない。けれど、フィオリーナが行ったところで足手まといになるのは明白だ。
マーレはフィオリーナに短くうなずくと、ラーゴを連れて部屋を出ようとする。
しかし彼らの足下が突然光ったと思えば、複雑な紋様が床に走ってドッと大きな音を立てた。
「ぐっ…!」
マーレとラーゴは紋様の中心で膝をつく。苦痛に顔をゆがめて、脂汗まで浮かんでいる。
まるで彼らの場所だけ空気が重くなったように、ひどい圧力がかかっているようだ。みしみしと床まで軋んでいる。
フィオリーナは咄嗟に悲鳴を噛み殺した。
このままではマーレとラーゴが死んでしまうかもしれない。
床の紋様をよく見れば、それは文字のように見えた。
円を描くように書かれた文字は読めないものばかりだったが、唯一読める文字がある。
それは、フィオリーナの名前だった。
フィオリーナはほとんど無意識に走り出していた。
「フィオリーナ様!」
「フィオリーナ嬢!」
アクアの制止も、クリストフが延ばした腕も遅かった。
フィオリーナはその紋様に足を踏み入れる。
するとふわりと風が舞うようにして紋様はすっかり消え失せた。
ドレスの裾を軽く翻しただけで床から消えたあとには、禍々しいまでに顔をしかめたマーレとラーゴが残されていた。
「くそっ! ネーヴェめ!」
マーレは歯をむき出しにして怒鳴ると床を殴りつけた。
フィオリーナが思わず後ずさるのを見たのか、ラーゴは顔を上げて苦笑する。
「……申し訳ありません。でも助かりました。フィオリーナ様」
ラーゴの人懐っこい笑みに助けられて、フィオリーナはなんとかその場にとどまった。
「…今のはいったい…?」
「……ネーヴェの拘束だ」
フィオリーナの疑問に、マーレは苦々しく吐き捨てた。
「あなたを守るだけでなく、そばから離れると判断すれば俺たちを拘束する。……そういう拘束条件だった」
フィオリーナの名前が書かれてあったのはそのためだったのか。
「……おそらく、旦那様は襲撃が起きることを予測していたのです」
アクアがフィオリーナのそばに立って顔をしかめた。
「では、わたくしをこの夜会に送り出したのは……」
フィオリーナが震えそうになっているのを見て、アクアは気の毒そうに眉をひそめた。
「襲撃日時を予測していたのだと思います」
フィオリーナは愕然として言葉を失った。
──思い返してみれば、今回の夜会はクリストフからいくつか送られてきた招待状の中から珍しくネーヴェが選んだものだった。そして、アクアたちを連れていくといいと勧めたのもネーヴェだ。
この会場はオルミ領から比較的近くて、アクアたちがわざと遠ざけられていると不審に思わない程度の距離にある。遠くもないが近くもないのだ。事情を知らないフィオリーナを説得するにも命令条件をどうにか解除するにも、時間がかかればかかるほど、もどかしく思うほどには離れている。アクア達を効率よく足止めするには絶好の立地だ。
「……元々、わたくしたちはこのような襲撃に備えて準備を整えていたのです。ですが…」
アクアは目を伏せて顔をしかめた。
オルミ領の異変は今日に始まったことではないという。
証拠をそろえるようにとネーヴェの命令で方々を調査していたことで、アクアたちも襲撃があるであろうことを予測していた。近頃、アクアたちが忙しそうに使いに出されていたのはそのためだったのだ。彼らがネーヴェから聞かされていた対応はアクアたちを襲撃の対処にあたらせるものだったが、あろうことか当のネーヴェに完全に裏をかかれてしまった。
「……わたくしたちも、今日のようなこともあるかもしれないと旦那様の行動を監視するためにも街道の分身を増やしていたのですが……」
アクアたちの分身は今、ネーヴェによって封じられているらしい。
「一度合流すれば、分身を取り戻すことができると思いますが、旦那様が本気でわたくしたちを拘束していては……」
アクアたちが自分を監視していることも知っていたのなら、ネーヴェは容赦しないという。
「どうしてそこまで……」
うすら寒くなるほどの用意周到さだ。フィオリーナは知らず自分の腕を抱いてさすった。
「ネーヴェなら心配いらないよ」
フィオリーナの不安を転がすように、クリストフは軽く笑った。
「あいつはそんじょそこらの魔術師じゃあないからね」
クリストフの明るい声は、マーレの不機嫌な溜息にかき消された。
「──ネーヴェにもう全盛期の力はない」
マーレの声にクリストフは怪訝に眉をしかめた。
「あいつなら一個小隊ぐらいならわけないだろう」
「そうじゃないんです」
ラーゴも溜息をついて、悲しそうな顔で苦笑する。
「あの人、もうそういうことができる体じゃないんですよ」
「どういうことだ……?」
今度こそ眉をしかめたクリストフの問いに、ラーゴは少しためらって押し黙る。そしてアクアやマーレを見渡したが、彼らもそのまま黙ってしまった。
「──答えろ」
クリストフの低い声が聞こえたかと思えば、フィオリーナは彼の腕に捕まって引き寄せられていた。
首を腕で拘束されたと思えば、顔の前に手をかざされる。
「俺だって元は魔導部隊の軍人だ。──この子の顔を焼くぐらいは詠唱無しで出来るぞ」
そう言うと、クリストフのかざした手から青白い炎が上がった。
──ごめん、協力して。
フィオリーナの耳元でクリストフの小さな声が聞こえた。
炎の形をしているが、熱くはない。
クリストフにしては乱暴な手段だ。
彼はネーヴェの不調の原因がどうしても知りたいらしい。
フィオリーナが返事の代わりにクリストフの腕をつかむと、彼はいっそうフィオリーナを引き寄せて壁際でアクアたちと対峙する。
「冗談だと思うなら、髪の毛一本焼いてやる。……そんなことを許せば、おまえたちの身も危うくなるんじゃないか」
クリストフは苦々しく顔を歪めながら不敵に笑った。
「あの性悪のことだからな。フィオリーナ嬢の髪の毛一本傷つけば、おまえたちはますます拘束されるぞ……!」
クリストフの言葉に、ラーゴにマーレ、アクアまで顔をしかめてその場に留まった。今にもクリストフに襲いかかろうとして身をかがめていた彼らは、大きく溜息をつく。
ネーヴェならやりかねないということだろうか。
それでもマーレたちは主人の秘密を言うまいと歯を食いしばっている。
その様子を部外者のフィオリーナは見ていることしかできなかったが、それだけに焦燥に駆られた。
これでは時間が経つだけだ。
それこそネーヴェの思惑通りなのではないだろうか。
彼はここにフィオリーナたちを長くとどめておきたいから、様々な仕掛けを用意したのではないか。
きっかけは誰であれ、どういう諍いが起こっても時間さえ稼げればネーヴェの目的は達成される。
「……わ、わたくしがいっしょに行きます!」
フィオリーナがとっさに叫ぶと、緊迫した空気が一斉に自分に集中するのを感じた。足が震える。でも震える声で続けた。
「わたくしが一緒であれば移動できるのでしょう? 急いでいるのなら、それが一番良いと思います」
すっかり毒気を抜かれたような溜息をついてクリストフは青白い炎を消すと、あきれ顔でフィオリーナを見下ろした。
「分かっているのかい? これから行くのはどういう状況かもわからない戦場だよ」
戦場という言葉に肩まで震えるが、フィオリーナはクリストフを見上げる。
「……わたくしでは何もわかりません。でも……きっとこうやってわたくしたちが揉めている時間がネーヴェさんの思惑なのではないでしょうか」
フィオリーナの指摘にクリストフは「あっ」と声を上げて深々と溜息をついた。
「……ネーヴェが考えそうな作戦だよ。本当に性格悪いなあいつ」
クリストフには言われたくないと思うが、ネーヴェも似たもの同士なのだろう。
クリストフはフィオリーナをそっと離すと、小さく「すまない」と苦笑する。短い言葉だったが、クリストフはネーヴェの友人なのだと感じられた。彼らは誰より器用だが、不器用なのだ。
「おまえたちはそれでいいか?」
クリストフに問われたアクアたちもようやく息をついて体の力を抜いた。
「……フィオリーナ嬢、あなたはそれでいいのか」
まだ厳しい顔のマーレが、フィオリーナを射抜くように見つめる。
戦場だと言われても、フィオリーナには怖い場所だということしかわからない。
それでも、ネーヴェの助けになりたいのならここで逃げてはならないと思った。
「一緒に参ります。……ネーヴェさんを助けてください」
フィオリーナの答えに、マーレはやっといつものような皮肉屋の顔で口の端を上げた。
その顔は、やはりどこかで見たことのある笑みだった。




