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バルコニーが言うには

 階段のついた広いバルコニーはそのまま庭へと繋がっていて、広い庭が見渡せるようになっていた。庭には点々とあかりがあって、手入れされた花が暗くても見えた。

 はしたないが、フィオリーナはそのまま階段にハンカチを敷いて座り込んでしまった。

 もうこれ以上どこへも歩けそうになかった。

 暗闇に浮かぶ庭は整然と手入れされている。淡い明かりに秋バラが浮かび上がるように見えた。きっと早く花をつけるよう育てたのだろう。ぼんやりと眺めていると、わけもなくザカリーニの実家の庭が思い出された。

 まだフィオリーナが婚約の準備に忙しくなる前は、バラを育てていたのだ。

 あの頃はまだこんな風に噂されるようなことになるとは思ってもみなかった。

 騎士の話が正しいのであれば、シリウスはフィオリーナがそんな風に準備をしている頃にはもう噂を知っていたのだ。

 いったいいつから噂は流れていたのだろうか。


(それとも)


 シリウスは噂が流れる前から知っていたのか。

 噂を信じたどの人も小さな子供ではないのだ。一度や二度、そんな噂を聞いたぐらいで信じ込んでしまうことはない。

 きっと先ほどの騎士は何度も聞かされたのだ。

 フィオリーナはとんでもない女なのだとシリウスから何度も聞かされていたから、あれほど困惑していたのだとしたら。

 噂を信じこんだ人が次に別の人に話をするのなら、友人への同情も加えて相応の悪意をもって話すことだろう。そうして悪女のフィオリーナはひとり歩きをするように広まっていったのだとしたら。

 フィオリーナはシリウスに友人を紹介されても、そんな悪意に気付くことができなかった。──いつもシリウスのうしろに控えて下を向いていたからだ。

 今日はきちんと顔を見て話をしたから、騎士の様子に気付くことができた。

 シリウスはずっと下を向くフィオリーナにいったいどんな目を向けていたのだろうか。

 噂を流した犯人が誰だとしても今日聞いた話を信じるのなら、シリウスはフィオリーナよりも先に噂を知っていた。そしてそれが誰の手にもおえなくなるまでフィオリーナには黙っていたということになる。


(どうしてそんなことを)


 フィオリーナが出世の邪魔になるのなら、はじめから婚約などしなければ良かったのだ。

 家族が決めた貴族の結婚だとしても、フィオリーナに話してくれさえすれば婚約する前に断る協力ができたかもしれない。

 噂が流れ始めてからでもせめてすぐに婚約を解消していれば、これほど長い時間たくさんの人の労力を費やしてこじれることもなかったかもしれない。

 シリウスの行動は、まるでそれを望んでいたようにしか思えなかった。

 社交界に悪女フィオリーナの噂が充満するまでずっと待っていたような。  


「──君、気分でも悪いのかね」


 声をかけられたほうへ振り向くと、掃き出し窓から壮年の紳士が驚いたように出てくるところだった。

そのうしろには、夫人だろうか。紳士とおなじ年頃の婦人が心配そうにこちらを見ている。


「従者や家族はどうした? まさかひとりではあるまい」


 壮年の紳士はトラウザーズが汚れるのもかまわず、フィオリーナから少し離れたところでひざまずいた。

 口髭を蓄えた顔はまるで学者のような人だ。あまり貴族らしくは見えなかった。


「顔が青いな。気分でも悪いのかね」


 尋ねられてもうまく話すことができずフィオリーナがまごついているのを見て取ると、男性は窓辺にいた婦人を呼んだ。


「ちょっと来てくれ。やはり私では警戒されてしまった」


 婦人がやってくると、紳士は「心配しなくていい。妻だ」と紹介してくれた。

 この夫妻がバルコニーでうずくまるフィオリーナを見つけてくれたのだろう。

 夫人も「大丈夫?」とフィオリーナを覗き込む。

 落ち着いた声があまりにも優しくて、フィオリーナは泣きそうになってしまう。

 けれど、ここで泣いてはますます心配をかけてしまうだろう。

 どうにか取り繕うほどの気力はまだあるはずだ。

 フィオリーナは努めて顔をほころばせた。


「……大丈夫です。少し、人に酔ってしまったのでバルコニーで涼んでいたら……その、バラを見たくなってしまって」


 本当はバラが見たいわけではなかったが、とっさに口をついて出てしまった。

 これ以上心配をかけたくなかったがために出たことだったが、学者のような紳士は「なるほど」とうなずいた。


「バラにくわしいのかね?」


 紳士はバルコニーに膝をついたと思ったら、そのままフィオリーナと同じように階段に座ってしまった。

 紳士がバラをすっかり眺めてしまうので、フィオリーナも同じようにバラを眺めた。


「……あの品種は、たしか三代前の国王陛下が妃殿下のために作らせたものですね」


 あのバラは少し特殊なバラで、光を当てるとその花びらにわずかな光を蓄える。今もこの暗闇の中でほんのり花弁の様子が見えるのはそのおかげだ。

 紳士はフィオリーナの言葉を引き継ぐようにうなずいた。


「あれは花も特殊だが、重要なのは土なのだよ。このあたりの土には月鉱石が混じっているからね」


 月鉱石、とフィオリーナは口先に呟いた。

 ふいに妖精の庭で葡萄色の髪が目の前で揺れた気がした。


「では……あの花は月鉱石の魔力で光を溜めているのですか?」


 つい思いついた質問を口にすると、紳士は少し顔をほころばせた。


「月鉱石の特徴を知っているのか。しかし、魔力を帯びているのは花のほうなんだよ」


 紳士は「いいかね」と土を指した。


「月鉱石を含んだ土は植物に魔力を持たせるのだよ。自然界なら効能や成長のために使われるその魔力を、あのバラは花弁に光を溜めることに使っているんだ。植物は人間よりも長いあいだ土に触れる。だから魔力が溜まりやすいんだ」


 だとすれば、月鉱石は植物にも影響が出るのだ。


「月鉱石に長い時間触れ続けた植物には、何か弊害は起きないのですか?」


 フィオリーナの立て続けの質問に紳士は少し目を丸くしたものの、そのまま答えてくれた。


「どうやら植物には月鉱石の影響を循環させる器官が作られているらしい。私は、今はそれを大学で研究している最中だ」


 学者のようだと思っていたら、本当に学者の先生だったらしい。

 紳士の答えにフィオリーナは目を輝かせた。植物と動物では対象がまるで違うのだろうが、ネーヴェの研究の糸口にはならないだろうか。

 急に生気を取り戻したようなフィオリーナに、紳士はほがらかに笑った。


「いや、こんな話で元気になるとは思わなかったよ。もう気分は大丈夫かね?」


 指摘されてフィオリーナは思わず顔を赤くしてうつむいてしまった。現金なものだ。ネーヴェの役に立つ話だと思ったら、体に溜まっていた悪い気持ちまで逃げてしまった。


「本当に。あなたのお話でこんな若いお嬢さんが元気になるなんて、初めてだわ」


 静かに見守っていてくれた夫人まで、おだやかに微笑んだ。

 夫人の指摘に学者の紳士は苦笑して、困ったように頭を掻いた。


「いや、女性を慰めるような言葉はわからないのでね。せめて気分を紛らわせようと思ったのだが」


 そう紳士は言葉を切って、興味深そうにフィオリーナに向き直った。


「ずいぶん熱心だったね。月鉱石に興味があるのかな」


 貴族の娘が自分の結婚以外に興味を持つことは少ない。石や土に興味を持つことは貴族らしくないと思われるだろう。

 それでも、フィオリーナは素直に答えることができた。


「はい。……実は今、お世話になっている方のお屋敷で野菜を育てているのですが、今伺ったお話の通りでしたら、その土地が月鉱石の影響を受けやすい土地なので」


 フィオリーナの答えに「なるほど」と学者の紳士はうなずく。


「野菜への影響か。私の研究室でその研究をしている者がいるよ。興味深い研究課題だ」


 紳士とフィオリーナがさらに話し込んでしまいそうになっているのを見てとったのか、夫人が「あら」と声を上げた。

 彼女の視線の先にはアクアとラーゴを従えたクリストフがいた。


「やぁ、すっかり話し込んでいたね」


 クリストフたちは窓辺からバルコニーの三人を見つけたのだろう。

 フィオリーナが階段から立つと、紳士も立ち上がる。


「君はランベルディ伯の関係者だったのか」


 紳士と夫人が意外そうな顔をするので、フィオリーナは苦笑してしまった。


「これは失礼した。私はカスケード・アルフェド。一応男爵だが、ただのしがない学者だよ」


「カスケードの妻、ジリアと申します」


 夫妻が挨拶してくれたというのに、フィオリーナはとっさに動けなくなってしまった 

 階段に座り込んだフィオリーナの心配をしてくれ、快く話までしてくれた彼らに、フィオリーナが噂の悪女だとは告げればどんな顔をするのだろうか。

 嫌悪や嘲笑の顔を思い出すと体が竦みそうになる。

 フィオリーナはうつむいた顔のまま、目を伏せた。

 怖がってばかりいてもいずれ分かってしまうことだ。意を決して階段から立つと、敷いていたハンカチを取り上げて、たたんだ。

 せめてハリボテの悪女らしく振る舞おう。


「……こちらこそ失礼いたしました。わたくしは、フィオリーナ・テスタ・ザカリーニと申します」


 丁寧にドレスのひだをさばいて摘み、膝を折って礼をして、それから夫妻に顔を上げる。これは目上の者への挨拶だ。

 夫妻の顔は驚いていた。男爵夫妻はフィオリーナにとって目上とは言い難い。それに、悪女と噂のフィオリーナの名前を知っているのだろう。

 まず口を開いたのはカスケードのほうだった。


「ああ、そうか。君か。オルミ卿はお元気かね?」


 ネーヴェの名前を出されて今度はフィオリーナのほうが目を丸くすると、カスケードは夫人のジリアと笑った。


「オルミ卿とは手紙のやりとりをさせていただいたことがあるんだよ。紹介したい学生がいるから、研究室に入れてもらえないかとね」


 それはもしかして、とフィオリーナは名前を口にしていた。


「ミレアの弟さんでしょうか」


「ああ、そうだよ。ミレアさんはメルフィン君のお姉さんだね。元気なお姉さんだよねぇ」


 一度会ったことがある、とカスケードは笑ってうなずいた。


「そうか。オルミ卿も月鉱石の研究をされていたんだね」


 カスケードが納得したようにうなずくのを見て、フィオリーナは内心焦った。どのような経緯であれ、ネーヴェの研究内容を不用意に話してしまった。


「──アルフェド教授。お久しぶりです」


 そう口を挟んだのはクリストフだ。


「やぁ、これはランベルディ伯。去年の王都以来ですな」


 応じたカスケードにクリストフは「ええ」と言って人差し指を唇の前に立てた。


「今聞いたお話はどうか内密に。オルミ領に関わることですので」


 クリストフの低い声に、カスケードは朗らかだった顔を少し曇らせた。


「……やはり、月鉱石の病に関わることだったのだね」


 カスケードの言葉にクリストフは押し黙る。そんなクリストフの様子にカスケードは「誤解しないでください」と続けた。


「たしかに私は月鉱石の運用に関する論文をいくつも書いているが、病のことを軽視していたわけではないのです。我々のような研究者が所属する学閥と魔術師の塔はあまり関係が良くなくて、魔術師の月鉱石についての論文があまりにも手に入らないのですよ」


 学者の中には魔術を非学術的だとして認めない者も多いと、カスケードは眉をしかめる。


「しかしこの月鉱石の病に関しては確実に魔力が関係しています。魔術師としての見解を聞けるのならば、ぜひ一度オルミ卿とお会いしたいと思っていたところです」


 そう言うカスケードをクリストフはじっと観察するように見つめたあと、いつものように人のいい笑みを浮かべた。


「そういうことでしたら、私が機会を作りましょう。なに、オルミ卿とは長いつきあいです。それに、あなたはもう彼の良き助手と知り合っている」


 クリストフがそう言ってフィオリーナに視線を向けると、カスケードたちも一斉に注目する。居心地の悪くなってしまったフィオリーナに笑いかけてクリストフは続けた。


「彼女のお願いを彼は断れないですからね」


 クリストフの言葉にカスケードとジリア夫妻は「なるほど、そういうことでしたか」と納得してしまう。

 たしかに対外的にはフィオリーナはネーヴェの恋人のような婚約者のような扱いではあるが、お願いを聞いてくれるような仲かと言われるとそれはとてもあやしい。

 こうやって一気に弁解を叫んでしまいそうになるのをフィオリーナは賢明に黙って耐えた。

 これもネーヴェの研究のためだ。

 悪女はつらいものなのだと改めてフィオリーナは思った。


         ▽


 今夜はこのあたりで、と去っていく一団を見送って、カスケード夫妻は顔を見合わせた。


「……驚いたね。オルミ卿が引き取ったという噂の悪女殿があんなに健気なお嬢さんとは。人は見かけによらないものだ」


 夫の言葉に夫人は「まぁ」と声を上げた。


「これだから学者は。研究以外に興味もないから気付けないのですよ」


 ジリアの辛辣な言葉にカスケードは怪訝顔で首を傾げる。


「オルミ卿は悪女と呼ばれるような魅力的な女性と暮らしておられるから、研究がはかどっているのだろう?」


 ジリアはカスケードにあきれ顔で溜息をついて、ふふ、と笑った。


「オルミ卿に恋をしてらっしゃるから、研究も気になるのですよ」


 どのみち研究がはかどるだろうから同じことではないのか。

 カスケードは思ったが、なぜか満足そうな妻の顔を見てそれは言葉にしなかった。




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