約束事が言うには
夜更けの契約から明けて翌日、フィオリーナは兄にここに残ると告げた。そのうえで、兄とメイドのエナは少しのあいだこの屋敷に滞在することになった。
一週間にもおよぶ旅程で兄もエナもひどく疲れていて、体を休めてはとネーヴェが提案してくれたのだ。
その時間を使って、ネーヴェとフィオリーナは話し合いをすることにした。
二人のあいだで、いくつかの約束事を作ることにしたのだ。
ネーヴェとの話し合いの場になったのは、初日に通された応接間。はじめはダイニングでテーブルを囲んでいたのだが、食事の準備の邪魔だとメイドのホーネットに追い出されてしまったのだ。
メイドのエナはホーネットの手伝いをしているし、兄はあてがわれた部屋で何やら書き物をしているようだ。
おかげでフィオリーナはネーヴェと話し合いができているが、こんなにのんびりしていて良いのかと思うほど、この屋敷はのんびりとした時間に包まれている。
ここに居ると、新しい生活を始めようというのに、実家にいるときよりも不思議とくつろいでしまいそうだった。
まず議題となったのは滞在のこと。
ネーヴェはフィオリーナの滞在費は気にしなくていいと言ってくれたが、フィオリーナはネーヴェの婚約者でも何でもない。
居候として滞在するのなら、費用はいくらか支払うべきだ。このことは兄に相談するからと、フィオリーナはネーヴェに説いた。
生活に関しては、この家の執事のカリニとメイドのホーネットが手伝ってくれるというから、それに甘えることにした。
ドレスが一人で着られるぐらいでは、貴族の娘はまともに生活できないのだ。一週間の旅でフィオリーナにも身にしみて分かった。
「わたくしは何をすれば良いでしょうか」
ただ居候するだけでは芸がないと思い切って聞いてみると、ネーヴェは話し合いの内容をメモしながら答えた。
「私があなたにやってもらいたいのは、ここに居てくれることですから、自由にしていただいていいのですが…」
ネーヴェの目的はフィオリーナがここに居て、侯爵家の親戚から送られてくる婚約者を退けることだ。基本的にフィオリーナはこの屋敷に居さえすればいい。
「疑問に思ったのですが…偽装をしなくてはならないほど、親戚からの婚約者を断ることは難しいのですか?」
「そうですねぇ」と、ネーヴェは質問の答えを探すようにして一人掛けのソファの背にもたれた。
「私は元々、孤児でして。母が亡くなっていよいよ浮浪児として暮らすしかなくなったところを侯爵に拾われたのです」
カミルヴァルト侯爵はネーヴェの噂を聞きつけて探し回っていたという。非嫡出子とはいえ、魔術の才能があったネーヴェはそのまま侯爵家に入ることになった。
「なかなかご想像がつかないと思いますが、そういう出自の子供ならば、どう扱おうがかまわないと思う人がたくさんいるのです。──たとえば、都合が悪ければいつでも殺してしまってもいいと」
フィオリーナは思わずネーヴェを見た。けれど、彼は天気の話をするような顔で少しだけ笑っただけだった。
かなしいことだが、厳然たる身分があるこの国では命に順位がついている。ザカリーニ家に領民を虐げた歴史などないが、ネーヴェの過去を貴族として生まれたフィオリーナが本当に理解することはできないだろう。
「今、私を殺すことは難しい。私自身が貴族ですからね。何かあれば国の方が無視できない。でも、家族であれば殺すこともできるかもしれない」
たとえばネーヴェの一番そばにいることになる人は、どういう意図があろうと共にいないわけにはいかなくなる。二人しかいない状況ならば、周囲の手助けさえあればどうとでも偽装できてしまうのだ。
それは気の休まる休まらないの域の話ではない。現実的な命の危機だ。
「……わたくしがそのような命を受けているとはお考えにならないのですか?」
フィオリーナのような世間知らずの貴族の娘ならば、家族を盾に取られれば嫌でもそのようなことに手を貸してしまうこともあるかもしれない。
「そうであるなら、私の目が曇っていたということでしょう」
ネーヴェはソファの背もたれに長身を預けたまま、ゆったりとおなかのあたりで指を組んだ。
「私は、あなたのご実家のお力も含めて、あなたに協力していただきたいのです。フィオリーナ嬢」
事情があるのなら聞いておきたい。フィオリーナが居住まいを正すと、ネーヴェも身を前へ起こしたが、言葉を慎重に選ぶように少し目を伏せた。
「……身内の恥をさらすようですが、遠縁の甥が今年十八になるそうです。それに乗じて、あなたとの話を持ち込んできたということは、本格的に私の妄想が現実になろうとしているのだと思います」
貴族の成年は十八歳だ。この年になれば、継承権も主張できる。
ネーヴェの想像が正しいのであれば、彼の親族が本格的にネーヴェの命を狙い始めるということになる。
「あちらにとっても、あなたの話は好都合だったでしょうが、私にとっても都合が良かったのです。ザカリーニは伯爵家といっても広い領地を持つ古いお家柄です。お父上は議員として、兄上も文官として宮廷に出入りしている。姉上も他の侯爵家に嫁いでいる。地盤のしっかりとしたザカリーニ家を普通は表立ってないがしろになどできないのですよ」
菫色の瞳がフィオリーナを映した。
「私は、あなたに助けて欲しいのです。フィオリーナ嬢」
貴族の結婚は家同士の縁組みだ。フィオリーナがここで暮らすことになれば、世間的に見れば婚約前提だと思われ、ネーヴェはザカリーニ家と関係を持つことができる。彼は一時の幻想だとしても、フィオリーナが持っているザカリーニ家という後ろ盾が早急に欲しいのだ。
フィオリーナ自身が求められているわけではない。
彼はフィオリーナが傷つかない言葉を選んでいる。
けれど、もっと耳ざわりのいい言葉がたくさんあるはずだ。一目惚れをしただとか、前から好きだったとか、もっとフィオリーナのような娘を騙せる言葉を選べるはずなのに、ネーヴェはそれをしない。
(不思議な方)
彼が誠実であろうとするなら、フィオリーナも誠実であろう。
「家に関わることでしたら、わたくしももう一度兄に相談いたします。よろしいでしょうか」
フィオリーナの答えに、ネーヴェはどこか満足そうに「ええ」と笑った。
それから三日、ネーヴェとフィオリーナは様々なことを話し合った。
ときには兄にも参加してもらい、ネーヴェはすべて書面にした。
基本的にフィオリーナはこの屋敷に客人として滞在すること。
屋敷に関することはネーヴェの許可をとること。でも、フィオリーナに関することはネーヴェへの報告だけあればいいし、相談も必要ないこと。
この屋敷の使用人、執事のカリニとメイドのホーネットはフィオリーナの手伝いをしてくれること。
他にも二つネーヴェとの約束をしたが、兄にはフィオリーナの生活に必要なことだけ伝えた。兄はその場で滞在費についてだけ了承してくれた。
その他のことを両親に伝えるために、アーラントはひとまずザカリーニ領へ帰ることになった。
「おまえのことを父に直接話してくる。手紙では伝わらないだろうから」
確かに、フィオリーナはネーヴェに嫁ぐわけでもないのにこの屋敷にいることになるのだ。文面では伝わりにくい。
「わたくしも、お父さまに手紙を出した方が良いでしょうか」
「私が帰って話してから、向こうからこちらへ手紙を出すよう伝える。おまえは返事を書きなさい」
簡単には納得しないかもしれない両親を、兄は説得してくれるつもりなのだ。
「おまえの好きなようにしろと言ったのは私だ。言葉の責任は持つ。──だから、おまえもこちらにご厄介になると決めたのだから、自分の選択に責任を持つんだよ」
フィオリーナが自分で決めたことを尊重してくれるのなら、自分もそれに応えよう。
「はい。ありがとうございます。お兄さま」
失敗するかもしれなくても、ようやく一歩踏み出すのだ。これから先は、フィオリーナ次第。
フィオリーナと兄についてきてくれたメイドのエナは、兄と一緒に領地へ帰すことにした。
「そんな…お嬢様…」
「いいの、あなたは兄と帰って。お年を召したご両親がいるでしょう?」
メイドとしていっさい無駄なく仕事をする優秀な彼女は、独身だからとこの旅に付き添うよう言われてやってきた。でも、一人で年老いた両親の面倒をみていることを知っている。
「あなたがいてくれるとわたくしは心強いけれど、わたくしもあなたのことが心配よ。それに、ここではわたくしはあなたの待遇やお給料のことできちんと面倒をみてあげられるか分からないわ」
お金のことを口にするのは卑怯だし、彼女の心を揺さぶると分かっている。フィオリーナの滞在費は、アーラントが請け負ってくれたのでザカリーニから送金がある。フィオリーナはその滞在費から費用を工面することになる。
金額については兄に相談すれば良いのかもしれないが、フィオリーナに人生があるように、彼女にも人生がある。忠誠心や同情だけで人は暮らしていけるわけではない。エナがいずれ結婚したいと望んでいるのなら、フィオリーナに付き合っていていいはずがないのだ。
「わたくしのことをここに置いて帰っても、誰も咎め立てはしないわ。ご両親ともども、健やかに過ごしてね」
フィオリーナがエナの手を握って話して聞かせると、彼女もフィオリーナの手を強く握り返した。
「はい…はい。ありがとうございます。お嬢さま」
何もできないフィオリーナでも、世話をしてくれたメイドにたとえ自己満足だとしても少しでも何かできればいいと思うのだ。
▽
ネーヴェとフィオリーナのあいだの約束事はもう二つある。
一つは、ネーヴェは決してフィオリーナに触れないこと。
男女が同じ屋敷で暮らすのだ。間違いを起こすかもしれない、と彼は自嘲するように口を歪めた。
「人間というものは時々、あとで自分で思い返しても度し難い行動をとることがありますから」
婚約者や恋人関係でなくても手をつける輩はいくらでもいる。それに、単純に体格差でネーヴェの方がフィオリーナを押さえつけられるのだと彼自身に言われて、フィオリーナはそのような危険があることをようやく思い出した。男性に襲われかけたことがあるというのに、何を悠長なことをと思ったが、ネーヴェがフィオリーナを無理矢理手篭めにするとは考えもつかなかったのだ。
もちろん、フィオリーナの方もネーヴェが望まないのにそのような暴挙に出るつもりはない。
けれど、ネーヴェはもう少し制約をつけた。
互いが望んでも、親密な関係は持たないと決めたのだ。
「私とあなたがどんな約束をしていても、世間には関係のないことです。そして不愉快なことでしょうが、そのような関係を結んで不利になるのは、あなたです。フィオリーナ嬢」
貴族の娘は風聞によってその将来が決まるといってもいい。そして、その噂によってフィオリーナはすでに傷ついている。
「これ以上、傷だらけになる必要などないと思いますよ」
ひどくネーヴェに遠ざけられたような心地になったが、その反面、フィオリーナはとても心が軽くなったようにも感じた。
今までどこへ行こうとフィオリーナは貴族の娘だった。女性であることから逃れることはできないし、そうであることを求められてきた。それが、どれほどフィオリーナの心を縛っていたのかを思い知ったような気がした。
ネーヴェはこうも付け足した。
「私と暮らすことで、あなたの評判は本格的に悪女のように噂されるでしょう。──その覚悟はありますか」
真実ではなくても、フィオリーナにまとわりついた噂は消えることはない。
家でじっと耐えていれば、奇特な誰かが──たとえばネーヴェのように噂の矛盾を調べ上げ、フィオリーナの味方をしてくれるかもしれない。それはきっと貴族の娘として、これ以上傷つかない方法だろう。
フィオリーナが自身の潔白を一番知っているからだ。
けれど、ネーヴェの屋敷に暮らせばフィオリーナの噂は、現実に男性と共に暮らしたことによって真実味を帯びてくる。
きっともう噂は消えなくなるだろう。
(でも)
じっと誰かの手を待っているだけでは、フィオリーナはいつも誰かの重荷にしかならない。
自分の荷物は、自分で持たなければならないのだ。
(わたくしの人生なのですもの)
手助けしてくれるという人がいるのなら、助けてもらおう。家族にだって、助けてもらわなければこれからも生きていけない。
(今は助けてもらおう)
いつか、フィオリーナが自分で誰かの手助けをできるように。
▽
話し合いで過ぎた三日後、兄とエナは帰ることになった。
フィオリーナはエナのことを兄によく頼んで、旅立つ二人を見送った。ネーヴェが言うには、オルミ領に近い港からはザカリーニの近くにある港まで寄港する船が出ているらしい。それに乗れば行きの半分の旅程でザカリーニに着くという。
庭いっぱいに広がる草木の中から、エナと兄が離れていくのをずっと眺めていると、うしろから「フィオリーナ嬢」と声をかけられた。
一緒に二人を見送っていたネーヴェが、家へと踵を返している。
「私はひと眠りしてきますが、あなたはどうされますか」
朝、かろうじて起きてきたネーヴェだったが、始終どこか眠そうだった。
「わたくしは、少し早いですが午後のお茶を飲みたいと思います」
「ああ…そういえば今日はカリニがパイを焼くと言っていましたね。私もそれを食べてから寝ようかなぁ」
「まぁ」
フィオリーナが思わず笑った前で、ネーヴェはのんびりと伸びをしている。
(やっぱり変わった方だわ)
フィオリーナは偏屈な屋敷の主を追いかけて、踏み出した。