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近衛騎士が言うには

 名指しされては振り返るしかない。

 フィオリーナはおなかに力を溜めて振り返る。

 ──たとえ一瞬でも臆した様子を見せてはいけませんよ。

 これはエルミスから教わったことだ。人は他人の隙をよく見ているという。特に社交界の男性は自分が相手よりも優位に立てるか常に観察している。彼らは常に自尊心を保っていなければ生きていけないからだ。

 そして彼女の言うとおり、フィオリーナが目を見て見返すと声をかけてきた男性は一定の距離から近づいてはこなかった。

 もしかしたらクリストフと居たときからこちらを窺っていたのかもしれない。

 男性の顔には見覚えがあった。


「……シリウス様のご友人でしたかしら」


 一度か二度、元婚約者のシリウスに連れられていった夜会で彼と会った。それに男性の黒い装いの中では、金の飾緒がついた近衛騎士の白い礼装は目立つのだ。

 フィオリーナが覚えていたことに気をよくしたのか、騎士は少し微笑んだ。


「覚えていてくださって光栄です」


「こちらこそ。奇遇ですわね」


 夜会は招待されなければ参加できないのは当たり前なので、フィオリーナは暗に何の用かと尋ねたのだ。

 騎士は少し逡巡した様子だったが、結局口を開いた。


「……シリウスとの婚約が破棄されたと聞きましたが」


 これは知らぬ存ぜぬでは通らないことだ。それに、本当ならこんな誰が聞いているのかわからない場所で口にするべきことではない。

 宮廷の中枢に出入りする近衛騎士ならばそれが分からないはずはないと思ったが、男性の顔にわずかな嫌悪がこめられているのを見つけた。わざわざ人目のあるところで話しにきたのだとすれば、その意図は明白だった。フィオリーナの発言を一言一句おおやけにしたいのだ。


(冷静に)


 ──思いも寄らないことを言われても、慌てないで慎重に。

 これはネーヴェに言われたことだ。話す相手をよく見て、ゆっくりと喋ること。

 だからフィオリーナは、ともすればぎこちなくこごってしまいそうな頬を引き上げてわずかに微笑んだ。眉は少し困ったように下げて、開いた扇子で口元をゆっくりと隠す。きっと寂しげに微笑んだように見えたことだろう。これは表情など作ればいいと断言したベロニカの助言だった。


「悲しいことですが、わたくしに至らないところがあったのでしょう」


 それに、と扇子のうしろから騎士を見上げる。


「わたくしに恐ろしい噂があったとか。あとからその噂の内容を聞いて驚いてしまいましたの」


 フィオリーナの言葉に嘘は無いが、騎士はあきらかに困った顔をした。真偽がわからなくて迷っているような様子だ。

 もしかすると、フィオリーナが自分の噂についてシリウスに相談していることを、この騎士はシリウスから聞かされていないのかもしれない。

 本当にフィオリーナが噂の悪女そのひとだと思って声をかけてきたのだとしたら、騎士はもっと何かを知っている。


「……あなたも、わたくしについて何か噂をお聞きになったのですか?」


 直球すぎるフィオリーナの質問に、騎士は少したじろいだ。まさか逆に噂を尋ねられるとは思っていなかったのかもしれない。嫌味や悪口は苦手であるし、遠回しな言い方もフィオリーナにはできなかったのだ。

 騎士は困惑した様子で渋々答えた。


「……あなたの噂はシリウスから聞き及んでおりました。その……男性をたぶらかしている奔放な女性だということで…」


 だいぶ気を使った言葉だ。しかし自分の言葉を皮切りに騎士は自分の目的をあっさりと白状した。


「今日は、あなたが夜会に参加しているのをお見掛けして、お声をかけさせていただきました。……まだ婚約が破棄されてから一年も経っていないのに、次の婚約者候補と親密だとか」


 元々この話をしたくて声をかけたのだろう。

 彼は自分の友人がとんでもない悪女と婚約していたことに同情していて、ひとこと言ってやろうと声をかけたらしい。

 クリストフによれば、フィオリーナは対外的にはネーヴェと婚約するのではという噂となっている。シリウスと婚約が立ちゆかなくなったからと、すぐに別の婚約者を立てたことにも腹を立てたようだ。


「…しかし、あなたは噂すら知らなかったというのは…」


 彼はシリウスが嘘をついているとはどうしても思えないようだった。騎士らしくまっすぐな気性なのだ。

 彼がフィオリーナを気遣うことすらしないのは、社交界では一般的な男性らしい思考だ。

 ──彼らは女性を気遣うふりをして、自分たちしか守らない。

 これは同じ貴族の男性であるベロニカから聞いたことだ。あまり性別でとやかく言わないネーヴェやクリストフ、愛妻家のベロニカのような男性のほうが珍しいのだ。


「しかし……悪い噂があることを知ってこのような場にいらしたのですか?」


 騎士は困惑をそのまま口にするので、フィオリーナも従順にうなずいた。


「この夜会はオルミ卿のご友人にお誘いいただいたので、参加させていただきました」


 嘘はついていないが、オルミ卿という言葉に騎士は少し眉根を寄せた。フィオリーナが首を傾げると、彼は苦々しい顔で吐露した。


「……あまりその名前は口になさらないほうがよろしいかと」


「あら、何か差し支えが?」


 ネーヴェの名前が社交界で禁句扱いであることは知っているが、何も知らないふりをしてフィオリーナが尋ねると、騎士は溜息とともに吐き出した。


「──シリウスは今、第三王女殿下の近衛騎士なのです」


 フィオリーナと婚約してすぐ、シリウスは第三王女殿下の近衛騎士に出世したという。見目の良い彼は王女のおぼえもめでたいらしい。彼が第三王女殿下付きとなったことは知らなかった。シリウスは仕事のことをフィオリーナには話さなかったのだ。


「でも、わたくしは……シリウス様とはすでに婚約関係にありませんのよ」


「あなたとシリウスが婚約関係にあったことは周知の事実です。あなたの言動がシリウスの評判にわずかでも影響を及ぼすかもしれないのです」


 第三王女殿下にとって、ネーヴェは二度と会いたくない人物であることは間違いない。

 元婚約者であっても、相手の男性の出世に響くようなことを言ってはならないということらしい。

「あなたにはわからないかもしれないが……」と、騎士は前置きしてからフィオリーナを見下ろした。


「近衛騎士に醜聞などあってはならないのです。あなたのせいでこの出世がなくなるかもしれないとまでシリウスは言っていたのですよ」


 それは、つまりこういうことだ。

 フィオリーナは震えそうになる唇を扇子のうしろに隠したまま口にしていた。


「では……シリウス様は、もうずいぶん前にわたくしの噂をご存じだったのですね」


 騎士の言葉が本当だとすれば、少なくともシリウスは第三王女殿下の近衛騎士に出世する前に、フィオリーナの噂を知っていたということだ。それは、フィオリーナが見知らぬ男にかどわかされそうになって、兄が噂を調べるよりずっと前のことになる。

 フィオリーナの指摘に、騎士は今気付いたかのような顔で目を丸くした。

 当然のことかもしれない。

 彼はフィオリーナとは家族でも友人でもないのだ。知らない女性のせいで友人が貶められようとしているのなら、一方的だと分かっていても嫌悪感ぐらいは抱くだろう。


「それは……」


 いやしかし、と騎士は半ば黙り込むようにして顔をしかめた。


「──フィオリーナ様」


 いつの間にか戻ってきていたラーゴがフィオリーナのそばで声を挟んだ。手にはグラスをひとつ持っている。

 従者が戻ってきたことに気付いて、騎士はこれをさいわいとしたのか礼の姿勢をとった。


「……長くお引き留めして申し訳ありませんでした、フィオリーナ嬢。私はこれで失礼いたします」


 短く告げて辞去する近衛騎士の礼装から視線をそらして、フィオリーナは扇子の裏で深く溜息をついた。緊張していたのだ。今になって震えが止まらない。


「……ごめんなさい。飲み物は、持てそうにないわ」


「もちろんです。どうぞ椅子にかけてお休みください」


 そう言ってラーゴがエスコートしてくれようとするが、フィオリーナはなおも首を横に振った。


「……今はここに居たくないの。外の空気を吸ってくるわ」


 この会場は掃き出し窓を開ければ誰でもバルコニーから庭へ出られる。

 ラーゴは少し険しい顔で庭を睨んだ。夜会が開催中の庭は、逢い引きする恋人や夜会を何らかの理由で退出した人がいるのでどんな人がいるのかわからない。

 ラーゴは庭とフィオリーナを交互に見比べて、やがていつものように微笑んだ。


「わかりました。アクアを呼びましたのでご休憩なさってください。私はランベルディ伯を探して参ります」


 今日は御者役のマーレも揃って夜会に出された。アクアは待機所にいるはずだ。どうやって連絡をとるのか気になるというのに、フィオリーナはもう自分のことで精一杯だった。

 ラーゴにしては性急にその場から行ってしまおうとするので、フィオリーナは彼を呼び止める。


「待って、ラーゴ──あなた、さきほどの話を聞いた?」


 フィオリーナの問いにラーゴは短くうなずいた。その答えにフィオリーナはほっと息を吐く。ラーゴが聞いていたのなら、ネーヴェに今の話が正確に伝わることだろう。

 フィオリーナでは正しく伝えられるかわからなかったのだ。

 クリストフを探しに行くラーゴを見送って、フィオリーナは最後の気力を振り絞るようにして注意深くあたりを見回してから、バルコニーへと出た。



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