パウンドケーキが言うには
夏の暑さが陰りを見せてきた頃、次の夜会が決まったとクリストフから手紙が届いた。参加する日は二週間後。夏の最後の夜会になるだろう。
毎日かかさず観察日記をつけていた苗はすでにフィオリーナの背丈を越して、いくつもの花芽をつけている。でもそろそろ実るはずの果実は育たない。
ネーヴェが水のやり方を変えたり、土の成分などを調べていたが、花だけが次々と咲いては枯れていくということを繰り返していた。
「うーん、そうだなぁ」
畑の様子を聞いて見かねたミレアがわざわざ屋敷に訪ねてきてくれた。
いつものズボン姿の彼女は遠慮なく地面に膝をついて、土を触ったり苗の様子を見て回る。
「追肥はしたのかい?」
「ついひ?」
フィオリーナは聞き返したが、ネーヴェは「ああ、そうか」とうなずいた。
「すっかり忘れていたよ」
「実が成るには栄養が足らないんだよ、きっと。追加で肥料をやってみたらどうだい」
フィオリーナにもわかりやすくミレアは言って、どんな肥料があるのかとネーヴェと話し合いを始める。
「堆肥に牛糞、魚粉、石灰もあったかな」
「試してみないとわからないけど、土の様子が変わってるなら石灰かな」
そう答えたミレアにうなずいて、ネーヴェは庭の脇へと向かった。倉庫に肥料が置いてあるのだ。
それを見送ったミレアは苗を見て笑う。
「いやぁ、でもよくこんなに育ったね。これだけ花がついてるんだから、実はすぐ成るさ」
このあたりの土は鉱山の影響か、土壌の性質が変わっているという。
「あたしが子供の頃はまだ葉物野菜も育てられたんだけどね。今じゃ乾燥なんかに強いクランベリーの木ぐらいしかうまく育たない」
ミレアの家の麦畑は奇跡的に土壌の変化が少ない場所らしい。
「それでもうちの畑も土が悪くなっていてね、前の土に戻るように肥料をたくさん試したんだよ。調整は弟がやってくれたんだけどさ」
ミレアの弟は別の領の大学で研究者をしているという。
「五年前は学生だったんだけど、学費が払えなくなってね。ほら、両親が石を採ってたって言っただろ」
ミレアの両親は採掘で彼女の弟の学費を工面していたのだ。
「弟も諦めてたんだけど、どこかのお節介な領主さまが奨学金を勧めてくれてさ。卒業したあとはえらい教授に紹介状まで書いてくれて、教授のいる学校で研究してるのさ」
すごいだろ、と笑うミレアに、フィオリーナも思わず嬉しくなって微笑む。ミレアがネーヴェに協力してくれるのは、そういう経緯もあったのだ。
「だからあの朴念仁に可愛い嫁さんでも……ってどうしたの、あんた」
苗を睨んでいたフィオリーナにミレアがあきれ顔をする。
「何かあった?」
「……何もありません」
何もなかったから何もなかったのだ。口を尖らせるフィオリーナに「ふーん」とミレアは笑う。
「キスでもされたかい」
「キ…っ」
キスはされていない。けれど真っ赤になったフィオリーナにミレアが大笑いする。
「あっはっはっ! こりゃあ苦労するわけだ」
「何の話ですか?」
石灰の袋を持って帰ってきたネーヴェは首を傾げている。相変わらずおざなりなベストとスラックス姿なのに、石灰で汚れてしまったのであとでカリニに叱られるだろう。
ミレアはネーヴェに向かって肩をすくめた。
「キスもしないくせに、こんなお嬢さんをからかうなって話だよ。真面目にやんな」
どうしてキスはされていないとバレたのだろう。フィオリーナは赤くなっていいのか青くなっていいのか分からなくなる。
ネーヴェは畑のそばで石灰の袋を開けながら「ああ」と笑う。
「からかわれているのは私のほうですよ」
そう言ってざっと手近にあったスコップですくっては苗の根本にまいていく。
そんなネーヴェにミレアは「うわ」と嫌な顔をした。
畝伝いに石灰を撒いていく背中に溜息をつく。
「フィオリーナ」
「……はい」
珍しく真剣な顔のミレアにフィオリーナも顔をこわばらせて向き直る。
「ダメなやつだわあれ。手がつけられない悪い男だから今からでも止めな」
「ええ……?」
結婚経験者のミレアにそんなことまで言われるなんて、ネーヴェはどんな悪行をしたのだろうか。
ミレアは怖いほどの顔でフィオリーナを諭した。
「火傷するぐらいならちょうどいいよ。それ以上はダメ」
「……わたくしはいったいどうすれば」
何度目かわからない失恋をしたような気分で、フィオリーナは途方に暮れてしまう。
そんなふたりを横目にネーヴェは石灰の袋とじょうろを持って戻ってくる。
「水をやるので手伝ってもらえますか」
のんきにじょうろを掲げる葡萄色の髪をフィオリーナはつい睨んでしまった。
三人で畑に水をやり終えると、ネーヴェはミレアをお茶に誘った。そろそろ休憩の時間だ。
「あたしはいいよ、カリニさんに怒られるだろ」
カリニが綺麗好きということはミレアも知っているらしい。
「別にいいですよ。あとで私が怒られます」
相変わらず適当なことを言うネーヴェのそばにやってきたのは、カリニだった。
「お茶の準備はできております」
カリニが三人を招いたのは、庭に広げたティーセットだった。テーブルや椅子をわざわざ庭の小さな空き地に運んで、ティーセットを用意してくれたのだ。
三段のティースタンドにはケーキと焼き菓子とサンドイッチが盛られている。
「手を清められましたら席へどうぞ」
熟練の執事は抜かりない。
三人は庭のポンプの水で手を洗うと、優雅なおやつにありつけた。
「こんなにうまいお菓子は初めてだよ」
ミレアは嬉しそうにカリニ特製のクランベリーの入ったパウンドケーキを口に放り込む。
「カリニの作るお菓子はどれも美味しいんですよ」
フィオリーナが笑うと、ミレアは「あっ」と声を上げた。
「ごめんよ、テーブルマナーなんか分からなくて」
彼女が見咎めたのはフィオリーナがソーサーを持ってティーカップを持ち上げていた様子だ。フィオリーナはこれが正しい淑女の姿勢だとすでに習慣として身についている。
急に慌てるミレアがなんだか可愛く思えてフィオリーナは「ふふ」と笑ってしまった。
「美味しくいただくのがマナーですよ」
「そうなのかい?」
不思議そうなミレアにフィオリーナは大きくうなずいた。
「お菓子は下の段から食べていくと良いのです。塩辛いものから甘いものを順番に食べると美味しいでしょう?」
カリニが揃えたメニューは、お茶会のマナーとは外れている。けれど、ミレアやネーヴェが食べやすいメニューにしてあるのだ。手に取りやすく、食べやすく、美味しい。マナーや決まりはその場を効率良く循環させるために整えられた所作であって、もてなすことがお茶会の本質だ。だからカリニのティーセットは完璧で、それを楽しむミレアはすばらしいお客様なのだ。
ミレアはフィオリーナが指すとおりにチーズとジャムのサンドイッチ、クランベリーのパウンドケーキ、ココット皿のクランベリーのジャムが乗ったチーズケーキの順番で食べて声を上げた。
「これはうまいね!」
ミレアが満面の笑みをカリニに向けるので、あまり表情を変えないカリニも思わずといった様子で「ありがとうございます」と笑った。
「今日は助かりましたよ、ミレア」
紅茶を飲んでいたネーヴェはミレアに顔を向ける。
クランベリーのチーズケーキを食べていたミレアはそれをぺろりと平らげてから笑った。
「いいさ。果実ができたら教えてよ。あたしも食べてみたい」
「もちろん」とネーヴェは請け負って笑う。
「調理法はホーネットに研究してもらいますから。期待していてください」
「ホーネットさんの料理か。あの人も美味しいもの作るね」
ミレアは以前ホーネットの作ったサンドイッチをもらったことがあるという。
「あんまり美味しいんで、王都からでも食材を仕入れているのか聞いたんだけど、結局材料はぜんぶオルミの物だったよ」
だから楽しみにしている、とミレアが言うので、フィオリーナも楽しみになってくる。
いったいどんな果実が成るのだろうと話し合っているうちに日が傾いてきたので、ミレアはそろそろ帰ると席を立った。
ミレアは帰り際に麦わら帽子を渡してくれた。
「あたしが子供の頃使ってたもので悪いけど。一応きれいにしておいたから、畑に出るなら使ってよ」
麦わら帽子のリボンは古びて色あせていた。丁寧に拭かれたのだろう。つやつやと日差しを弾いている。
「こういう帽子が欲しかったの。だから嬉しい」
これなら日差しの強い日でも大丈夫そうだ。フィオリーナが喜んでかぶって見せると、ミレアも嬉しそうに笑った。
「リボンは好きに変えるといいよ」
「はい。ありがとう、ミレア」
ミレアと笑いあっていると、脇にひかえていたカリニが包みを差し出した。
「余り物で失礼かと存じますが、お気に召されていたご様子でしたので」
わざわざクランベリーのパウンドケーキを包んでくれたらしい。渡されたミレアはさすがに困惑顔をした。
「いいのかい? 高価なもんだろうに」
「腕によりをかけて作っても、いつも旦那様が残されるので困っております」
カリニに水を向けられたネーヴェは少し視線を泳がせた。今日も彼はサンドイッチとパウンドケーキをひとつずつしか食べていない。
「そういうことならありがたくもらうよ。いい土産をありがとう」
そう笑ってミレアはフィオリーナを手招いた。フィオリーナが近づくとそっと耳打ちしてくる。
「結婚はダメだよ」
「え?」
フィオリーナが聞き返すと、ミレアはちらりと視線を外した。視線の先はネーヴェだ。
「さっきも言ったろ。火傷ぐらいならしちまえばいいさ。でも恋人にしたらさっさと別れるんだよ」
この上なくうなずきにくいことを言われてもフィオリーナは困るだけだ。
「ああいう男に好かれちまったら、簡単には逃げられなくなって厄介だからね」
確かにネーヴェは男性として良い人ではないが、フィオリーナを好きとは限らない。
フィオリーナがそう答えると、ミレアはあきれた顔をする。
「あんなの見てりゃわかるさ。気づかないのはあんただけだよ、フィオリーナ」
▽
ミレアの乗ってきた荷馬車を連れてきてくれたのは、ネーヴェの従者だという青年だった。背が高く気難しそうなしかめっ面だが、ただの農民でしかないミレアにも丁寧に接してくれる。
今も恭しく両手で手綱を渡されてあきれたところだ。
「なぁ、あんた」
「はい」
従者の青年はミレアに律儀に答えて向き直る。この青年も厄介そうだ。
「あんたの主人、あんなにフィオリーナにベタベタに甘いのにどうして気付かれないんだよ」
思い出してもミレアは吹き出しそうになる。
どんな強面の採掘師の前でも相手を気遣う素振りすら見せないあのネーヴェが、フィオリーナの前ではおとなしい猫のように首をもたげているのだ。頭を撫でられるのを待つようにして、フィオリーナの言葉を聞いている姿は滑稽を通り越して健気にも見えた。
「主人の名誉のために黙秘する」
賢明な主人思いの従者だ。けれど、と青年は皮肉げに吐き出した。
「──狼が獲物をとるために知恵が回ることといっしょだと言っておく」
従者の意図するところを察して、ミレアは信じてもいない精霊に祈りたくなった。頭の良い狼が巧妙に隠しているのなら仕方ない。
「そりゃあ、かわいそうに……」
目の前の猫が狼だと気付いたところで、獲物は食われるのが運命だ。
せっかくフィオリーナに弟の話をしてネーヴェの株を上げてやったというのに、これではミレアも彼女を生け贄にした共犯になってしまう。
フィオリーナにはせいぜい狼を存分に振り回してほしいものだ。
ミレアは焼き菓子の包みをひと撫でして、従者に手を振って馬を走らせた。
人の恋路は楽しいものだが、必要以上に干渉してはいけない。
ミレアができるのはせいぜいその道行きが明るいことを祈るだけなのだ。




