眼鏡が言うには
食事を終えると、フィオリーナはすぐに眠ることにした。
考えることを止めてしまいたかったのだ。
ネーヴェも食後のワインもそこそこにして、風呂へ行ってしまった。
考えることはたくさんあった。
でも思い浮かぶのはネーヴェのことばかりだ。
フィオリーナを心配してくれたネーヴェ。
妖精を連れて戦争へ行ったネーヴェ。
どちらも彼であることには間違いない。
それなのに、フィオリーナは何をそんなに悲しく思うのか。
──そんなことを考えながら寝てしまうと、夜半に目が覚めてしまった。
まだ外は暗かった。
屋敷はフィオリーナの他に誰もいないのではないかと思うほど静かだ。
せめて水だけでもとベッド脇の水差しからレモン水を飲んだが、眠れなくなってしまった。
二度寝する気にもなれなくて、フィオリーナは寝間着にショールを羽織って部屋を出た。
階下へ降りて、しまったと後悔する。
ネーヴェが薄暗い応接間のソファで眠っていたのだ。
長身を長椅子に横たえて、白皙の顔をさらして静かに寝息を立てている。
かたわらのサイドテーブルでは灰皿から煙草の煙がゆっくりと立ち上っていた。
長椅子の肘掛けに乗せた頭がわずかに動くと、さらさらと葡萄色の髪が落ちる。
風呂に入ってそのまま寝てしまったのだろうか。ベストの前は開いていて、シャツのボタンも喉元だけが開けられていた。スラックスの長い足は椅子の上で伸ばしたまま組まれていて、靴は脱がずにそのまま反対側の肘掛けにかけられている。
フィオリーナはゆっくりと音を立てないように応接間に入った。
靴を履きたくなくて室内履きで降りたおかげで、床板はほとんど音を立てなかった。
長椅子に近づいてもネーヴェが起きる気配はない。
ネーヴェの顔を見下ろすと、眼鏡をかけたまま眠る彼の顔が薄暗くてもよく見えた。彼は本当に整った顔立ちをしている。鼻筋はすっきりと通って、なめらかな顔の稜線も、形の良い薄い唇も、細めの眉まで整って見える。まるで精巧な人形のようだ。
(眼鏡は邪魔ではないのかしら)
眼鏡をしたままでは寝返りもできない。長身の彼にとっては狭い長椅子では身じろぎもできないだろうが、うっかり眼鏡を落としては困るだろう。
フィオリーナはいつかネーヴェ自身がしていたように、眼鏡のつるに指をかける。
すると、見計らったように菫色の瞳が開いた。
間近で見つめ合うことになったフィオリーナは思わず声を上げそうになった。
そんなフィオリーナに、ネーヴェは肩を揺らしながら体を起こす。
一歩下がったフィオリーナを振り返ってネーヴェは口元に手を当てた。声を上げずに笑っているのだ。
「……お、起きてらしたのですか」
「はい」
はは、と小さく笑ってネーヴェは起きあがって長椅子に腰掛けた。
「まさか眼鏡を盗まれかけるとは思わなくて」
「と、取ってさしあげようとしただけですっ」
盗もうなどと人聞きの悪いことを言うネーヴェをフィオリーナが睨むが、彼は笑っただけだった。
「……いや、またこうして近づいてくれるとは思わなくて」
ネーヴェはそう苦笑して、サイドテーブルの煙草をねじ消した。
「──私は不気味でしょう?」
得体が知れないものを扱うその手で、ネーヴェはベストのポケットを探ってシガレットケースとマッチを取り出す。彼はいつも小さなシガレットケースに煙草を入れているのだ。
ケースから煙草をつまみ出すと、そのまま流れるように煙草をくわえる。そしてマッチを片手で擦ってもう片方の手で覆いながら火をつけた。
そのわずかな光を見ながら、フィオリーナは不思議に思った。
ネーヴェはことあるごとにフィオリーナの気持ちを尋ねてくる。それは本当に確認のためだろうが、フィオリーナの気持ちを試しているようにも思えた。
「……できれば、アクア達は避けないであげてもらえますか。あなたを気に入っているようなので」
細い煙はゆらゆらと昇って応接間の静かな空気に消えていく。薬草の香りだけが部屋に充満する。
「……アクア達を怖いと思ったことはありません」
ラーゴやアクアは元から愛想のいい人格だ。マーレは強面だからすこし緊張していたけれど、ネーヴェが原型だと分かればもう緊張することもないだろう。
それに、とフィオリーナは自分の古い記憶の箱を開けるように思い出す。
マーレの容姿はどこか見覚えがあるのだ。彼がネーヴェを原型に似せているのだとすれば、フィオリーナはあの容姿のネーヴェを知っているのではないか。
「あなたがアクアたちを怖がらなければ、それでいいです」
ネーヴェはフィオリーナの記憶を遮るようにそう言って煙草を細く吐いた。いつものように不思議な香りのする煙草だ。
「──今日は本当にすみませんでした」
ネーヴェが沈黙に耐えられないように口を開いた。今日のネーヴェはどこか多弁だ。
「近頃は煙草を吸う暇もなかなか無くて」
「……その煙草が、妖精と関係あるのですか?」
フィオリーナが問うと、ネーヴェは長椅子を少しあけた。ここへ座ってもいいということだろうか。
フィオリーナがネーヴェのとなりに並んで座ると、彼は指に挟んだ煙草から灰を落とした。
「この煙草は妖精除けの薬草で作ってあるんです」
魔力の多いこの庭の薬草で作った煙草は燃やすと妖精の嫌がる匂いになるのだという。
「妖精は人間の使う火を嫌いますからね。嫌いな薬草をいぶしてやると近寄ってこなくなるんですよ」
そのためにネーヴェはどこでもずっと煙草を吸っているらしい。
特に屋敷の中で煙草を吸うのは、屋敷の中に妖精が入り込まないようにするためだという。
「妖精はどこにでもいますからね。いたずら好きな者が入り込むとそれはもうひどいことになりますよ」
いたずら好きな妖精は加減を知らないので、一度事が起こるとネーヴェが対処しなければならなくなるらしい。
フィオリーナはウィート領でネーヴェが不機嫌だった理由を見つけた気がした。
「では、ウィート領では……」
ネーヴェは答え合わせするようにフィオリーナに向けて目を細めた。
「妖精はお祭り好きなので、それはもうたくさんいましたよ」
酒を飲まなければやってられない、と言っていたのは妖精をたくさん見つけていたからだったのだろうか。ウィート領ではフィオリーナや母を気遣ってか煙草をほとんど吸っていなかったのだ。妖精除けは足りなかっただろう。
「人の頭の上で踊ったり、テーブルの下から覗いたり、本当に好き放題していましたから」
それは少し見てみたかったかもしれない。
怖い思いをしたのは間違いないが、妖精を怖いだけとは思えなかった。
フィオリーナは何もいないはずの庭を眺めた。月明かりに照らされた草木には動物の気配すらない。けれど、ネーヴェの目には多くの妖精が映っているのだろう。
「この庭の妖精をわたくしもいつか見てみたいです」
夕方のような怖い思いはもうしたくないが、庭で垣間見た不思議な体験は忘れられない。
となりのネーヴェを見ると「うーん」とうなっている。
「見られないことはないですが……」
「本当ですか?」
期待を膨らませてフィオリーナが見上げると、ますますネーヴェは気難しそうにうなったが、あきらめたように息をつく。
「……わかりました。少しだけですよ」
そう言って煙草を灰皿に押しつけると、自分の眼鏡を外す。菫色の双眸が露わになってまた狼のような横顔が顔を出すが、ネーヴェは眼鏡に視線を落とした。
ネーヴェは指先で眼鏡のレンズ部分をなぞるような仕草をすると、淡い光がともる。
一瞬の輝きはあっさり消えて、ネーヴェは眼鏡をフィオリーナに差し出した。
「それをかけて、庭を見てみてください」
言われるままフィオリーナは眼鏡をかけて庭を見る。
すると、世にも不思議な光景が広がっていた。
庭の草木のあいだで見たこともない生き物が空中をゆっくりと泳いでいる。
月光に照らされた半透明のひれと腹にたくさんある胸びれをせわしなく動かして、魚でも動物でもない生き物が細長い体で木々のあいだを縫っているのだ。
近くの草ではうさぎのような長い耳を持った毛玉のような小さな生き物が跳ね回り、庭の小径には木の棒を組み合わせただけの人型が細い手足を使って器用に歩いている。
空中を口だけが大きくなったナマズのような半透明の魚があくびをしながら泳ぎ、蝶のようだというのに体はかたつむりの不思議な生き物が群れで飛んでいく。
人間が想像できるような妖精の形はひとつもいなかった。
どれもおそらく世界中探しても目にすることなどない生き物が、月光を浴びて庭を遊び回っている。
「…これが、ネーヴェさんが見ている世界なんですね…」
思わず窓に近寄って庭を見ていたフィオリーナが感嘆をもらすと、かたわらに立ったネーヴェが少し笑った。
「同じ世界にいるとは思えませんよね」
裸眼で庭を眺めるネーヴェは、少し気恥ずかしそうだった。
思えば、初めて応接間で話した夜も彼はここから庭を眺めていた。おそらく庭の妖精たちを眺めていたのだろう。
「絵本に出てくるような妖精はいないのですね」
「アクア達が言うには、妖精は元々形のない生き物なんだそうです」
彼らは自分を目に映すものに合わせて姿形を変えることができるという。
「ですから、人間が想像すればそのとおりの生き物になれていたのだと思いますよ」
人間が想像で描いた妖精の姿を、妖精のほうがそのまま真似ていたということか。どちらが妖精を作っていたのかわからなくなりそうだ。
「今はもうそういう力を持った妖精はいないそうです。人の手が入っていない山奥か海の底か……世界の中心にあるという彼らの世界に帰ってしまったんでしょう」
帰る力を持たない妖精は意思を持たない残骸となって、昔に真似た形で漂うようにして残っているらしい。
ネーヴェは庭を眺めたまま懐かしそうに目を細めた。
「……私は、子供の頃はこれが他人に見えないものだとは分かりませんでした。物心つく頃には、これが遊び相手でしたから」
その遊び相手を自分と同じ人の形に作ろうとすることを、誰が止められただろうか。
アクア達を造ることでネーヴェのさみしさが埋められたのだとすれば、フィオリーナにはそれが悪いことだと断じることができなかった。
「……もうすこし、見ていてもいいですか?」
今だけはフィオリーナもネーヴェと同じものが見えているのだ。
それをもうすこしだけでも共有していたかった。
ネーヴェは不思議そうにフィオリーナを見たあと、ゆっくりと微笑んだ。
「ええ、どうぞ」
ネーヴェの答えに誘われるようにして、庭へと視線を戻す。
夜更けの庭はまるで水の底のようだった。
見たこともない水の底にネーヴェとふたりだけでいるようだ。
音もなく月光が揺れて、結われず垂らされたままのとなりの葡萄色の髪も複雑に照らす。
沈黙は部屋の暗闇に落ちていく。
静かで不思議な心地にネーヴェと共にフィオリーナはたゆっているようだった。
ネーヴェはふと窓際を離れると、サイドテーブルから灰皿を戻ってきた。
「吸っても?」
妖精除けだと言うが、ネーヴェはこの煙草が趣味なのだろう。フィオリーナがうなずくと、ネーヴェは煙草を取りだして口にくわえた。
目で追うようにして、形の良い唇がわずかに動くところをまともに見てしまった。
唇の先がマッチの火で一瞬だけ明るくなる。わずかな光で唇の先が灯ると、赤い火にまるでキスされたようにも見えた。
あの唇から、フィオリーナは吐息を吹きかけられたのだ。
それはキスと同じようにも思えた。
「フィオリーナ?」
煙草をひと吸いしたネーヴェがフィオリーナを覗くようにして菫色の瞳を向けてくる。
自分の顔が熱くなったのがはっきりとわかった。暗闇で真っ赤になったフィオリーナの顔がよく見えなければいいのに、今日はあいにくと明るい月夜だ。
眼鏡越しなのだからフィオリーナのほうが見えなければもう少し気分が違っただろうが、眼鏡のレンズは妖精が見える以外はガラスと同じだった。
度数が調整されていないのだ。ウィート領でも感じていたことだが、やっぱりネーヴェの眼鏡はただのガラスだ。
「キ…っ」
「き?」
律儀にフィオリーナの言葉を拾う優しいネーヴェが今だけは嫌いだ。
そうやって拾われてしまっては、他の言葉が見つからなくなってしまう。
「…き…キスを、されそうだったのかと…」
すっかり意味をなさない言葉だったというのに、ネーヴェは少し考えるような顔をしてから、すぐに「ああ」とうなずく。
「さっきの水の中でのことですね」
彼は本当に嫌になるほど勘が良い。もう恨めしい気持ちでいっぱいになってフィオリーナが睨むと、ネーヴェは不思議そうに菫色の瞳を瞬かせてから口の端を上げた。
「キスをしても良かったんですか?」
妖しいほど月光にきらめく菫色の双眸は、この上もなく愉快だと笑っている。
からかわれている。
そう明確にわかるというのに、フィオリーナはうなずきそうになる自分に驚いていた。
ここでうなずいたら、どうなるのだろうか。
(キスをされる?)
それとも、やっぱり冗談だと笑われてしまうのか。
「フィオリーナ」
静かな声に顔を上げると、からかうような光はすでに消えていて、ガラス越しに菫色の瞳がやわらかに微笑んでいた。
「妖精の世界から帰るには、こちら側のものが必要なんです。水、空気、人間の体液……何でもいいので、あなたがこちら側のものを口に入れる必要があったんです」
ネーヴェが選んだのは空気。
それも人間の体を通った吐息はたしかにこちら側のものだ。
「人工呼吸と同じと思えば口移しでも良かったですが──それはあまりにもあなたに失礼でしょう?」
ネーヴェの持っている煙草の灰が灰皿に落ちる。何かが崩れるような、灯るような心地でフィオリーナは菫色の瞳を見つめ返していた。
「わ…わたくしは、あなたとキスを…したくない…わけでは……」
キスをしたくないわけではないのなら、キスをして欲しかったとでもいうのか。
口から出てしまった言葉は戻らない。恥ずかしくて涙目になるフィオリーナに静かな声が近づいた。
「本当に?」
唇が近い。
狼のような瞳が屈んでフィオリーナを覗きこんでいる。葡萄色の髪がさらさらと流れてわずかにフィオリーナを覆う。
細くなる瞳と合わせて、フィオリーナの視界も狭くなった。
「……前にも言ったはずですよ」
こつん。
音に驚いて目を見開くとネーヴェがフィオリーナの額に自分の額を合わせている。
「私をからかわないでください」
フィオリーナ、と狼が笑って顔を傾ける。その仕草さえ優雅だというのに、その眼光はフィオリーナを動けなくするには十分過ぎるほど鋭い。
「私のような男はずるいですよ」
そう言って、長い指がフィオリーナの頬をよぎる。眼鏡のつるに指をかけると、するりと眼鏡を外す。
「──女性に誘われたら断らない」
そのまま眼鏡を反転させて、長い指は眼鏡を元の持ち主に戻した。
眼鏡をかけたネーヴェは言葉とは裏腹にいつものように優しく微笑んでいる。
眼鏡の奥で柔らかく目を細める様子は猫のようにも見えた。けれど、ネーヴェの身のうちはまぎれもなく狼だ。
「……うそつき」
女性の誘いを断らないと言ったその口で、ネーヴェはフィオリーナを遠ざけた。誘いというには情けない有様だという自覚はあるが。
睨むフィオリーナにも、ネーヴェは猫のように柔らかく微笑んだ。
「ええ」
でも、とネーヴェは笑う。
「約束は守ります。……きちんと守れていませんけれど」
「……それは、女性として触れないということですか」
指先ひとつ触れることも許さないというネーヴェがフィオリーナを抱きしめた熱は、忘れようにも忘れられなかった。
ネーヴェは見つめ返すフィオリーナへ、指に煙草を挟んだ手を伸ばす。
煙の軌跡が薄闇を横切って、フィオリーナの耳のあたりでわだかまる。
親指が唇の上をなぞるようにゆっくりと留まった。
「……本当に悪い大人の男は、触れなくても意中のひとを虜にできるそうですよ」
人の受け売りですが、と目を細めるネーヴェは長い指をフィオリーナの垂らしたままの髪を絡めるような仕草をしてゆっくりと引き戻すと、煙草をそのまま自分の唇にくわえる。
「約束を守れていない私では、それはできそうにありませんね」
煙は溜息のように舞って薄暗い部屋に散らばった。
「フィオリーナ?」
うつむいてしまったフィオリーナにネーヴェの声が頭の上から響く。
それには答えられないまま、フィオリーナは早口に別のことを口にする。
「……お、おやすみなさい!」
ばたばたと音がしそうなほど、ほとんど走ってフィオリーナはネーヴェに背を向ける。
階段を登る途中で「おやすみ、フィオリーナ」と声が追いかけてくる。
(ずるい)
ずるい、ずるい、と頭の中で鐘が鳴るように繰り返される。
大慌てで自室に入ると鍵をかけて、ベッドへ潜り込む。
布団を頭からかぶってもまだ煙草のけむりが追いかけてきているようだった。
フィオリーナに匂いが移ってしまったのだ。
煙草の匂いに包まれるようにして、フィオリーナは自分を抱きしめて目をきつく閉じた。
(ずるい)
いくらのんびり屋なフィオリーナも、最近ではネーヴェのからかいに言い返せるぐらいには慣れてきていた。男性をあしらうのが悪女だというのなら、そうなろうともしてきた。それなのにこのていたらくだ。
彼は触りもしないでフィオリーナの心をかき乱したのだ。
──本当に悪い大人の男は、他の誰でもないネーヴェだった。
煙草の匂いに包まれて目をきつく閉じていると、気がつけば朝だった。




