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スープが言うには

 ネーヴェとフィオリーナが屋敷へ戻ると、転がるようにアクアが飛び出してきた。


「申し訳ありません…っ、わたくしが目を離したばかりに…!」


 たしかに怖くて不思議な出来事だったが、どうしてアクアが謝るのか。

 それよりも、と言う前にフィオリーナからくしゃみが出る。


「……先に着替えをしてもいいかしら」


 そうフィオリーナが笑うと、アクアはやっと苦笑した。

 アクアに手伝ってもらいながらまずは風呂に入ることになって、ドレスを脱がせてもらう。水を吸ったドレスはひとりで脱ぐには重くて難しかったのだ。そうこうしているうちにようやくアクアはいつもの落ち着きを取り戻していた。

 ホーネットもフィオリーナの着替えを持ってきてくれて「ご無事で良かった」と微笑んだ。


「旦那様も、それはひどい慌てようだったのですよ」


 いち早くフィオリーナが水の中に呑まれたことに気付いたのはネーヴェだという。仕事部屋の窓から飛び出したというから、本当に慌てていたのだ。


「おかげで書類はめちゃくちゃになって、カリニがあきれておりました」


 ネーヴェがそこまで慌てる事態だったのだと思うと、今更ながらフィオリーナも怖くなってくる。


「あの……わたくしは、どうして水の中にいたのかしら?」


 屋敷の敷地に大人が頭までつかるほどの湖も溜め池もないはずだ。

 フィオリーナの濡れたドレスを腕にかけると、アクアはすこし寂しそうに笑った。


「旦那様からお話いただきます」


 でも、と彼女は付け足す。


「あまり、怖いと思わないでいただけると嬉しいです」





 風呂からあがると、ネーヴェは応接間で煙草を吸っていた。着替えだけは済ませたようだが、フィオリーナと同じように髪がまだ生乾きのようだった。

 フィオリーナも普段着のドレスにショールは羽織っているが、腰まである髪を垂らしたままだ。成人した貴族の女性が人前で髪を結わないことは失礼にあたる。でも長い髪はどれだけ丁寧に拭かれてもすぐには乾かない。仕方のないことだとアクアたちと苦笑いして洗面室から出てきてしまった。

 ソファで寛いでいたネーヴェのほうも、肩を少し越すほどの髪を結わずに垂らしたままだ。

 外はもう真っ暗だった。庭にいたのは夕方よりもすこし早いぐらいの時間だったというのに、水の中から帰ったときにはもう薄暗かった。

 ネーヴェはフィオリーナに気付くと煙草を灰皿に押しつけてソファを立った。


「おなかが空きましたね。先に夕食にしましょう」


「でも…ネーヴェさんもお風呂に入られたほうが…」


 夏だというのにフィオリーナはすこし身震いするほど寒かったのだ。ネーヴェも冷えたに違いない。


「私は夕食のあとで入ります。……話しておかなければならないこともありますし、食べながら話しますよ」  


 ネーヴェは苦笑といっしょに、アクアと同じようにすこし寂しそうな顔をした。



 ホーネットが食堂で用意してくれた夕食は温かい煮込みスープだった。たっぷりの野菜と鶏肉を牛乳と香草で煮込んである。

 堅いパンを食べやすいようにカリニが切ってくれて、フィオリーナたちはそれをスープにひたして食べる。あたたかいスープで柔らかくなったパンのおかげで、おなかの中から体が温まった。

 ネーヴェはスープの具をフォークでつつきながら、白ワインを口にしている。


「──それで、先ほどのことですが」


 ネーヴェは珍しく重い口をようやく開いた。


「今日あなたが遭ったものは、妖精です」


「妖精……?」


 思いもよらない話に、フィオリーナはパンをスープに落としてしまった。じんわりとパンがスープを吸ってやわらかくなっていく。その様子をネーヴェは見つめながら、ゆっくりとうなずいた。


「ええ。この庭に棲んでいるんです」


 フィオリーナがこの屋敷に滞在し始めたとき、ネーヴェが言っていた。この庭には妖精がいると。

 そのときは彼はフィオリーナをからかってうやむやにしてしまったが、本当に妖精だというのか。

 けれど、あのときネーヴェは言っていたはずだ。

 ──呼ばれたような気がしてもけっして返事をしてはいけない。

 ネーヴェの忠告をフィオリーナは破ってしまったのだ。 

 ネーヴェは食堂の窓から見える庭に目を向けた。


「……このオルミ領は、元から魔力が多い土地柄なんです。だから妖精が過ごしやすいのでしょうね。私がこの庭を作ると自然と集まってきたんですよ」


 まるで妖精が見えるかのような口振りだ。


「……ネーヴェさんは、妖精が見えるのですか?」


 ネーヴェはフィオリーナに向き直って口元をゆがめた。まるで笑顔に失敗したような顔だ。


「──ええ。魔術師でも見える人はもうほとんど居ませんけれどね」


 そう言ってワインを飲むと、ネーヴェは小さく息をついて菫色の瞳を上げる。


「あなたが囚われかけたのは妖精の領域で……彼らは“向こう側”と呼んでいます。力の強い妖精がいる妖精だけの世界で、人間が入ってしまうとまず帰って来られません」


 力の弱い妖精は気に入った人間を連れていくことで、向こう側と呼ぶ妖精の世界へ帰ろうとするという。


「感情を持つ人間は、向こう側にいる力の強い妖精にとって養分になるんだそうです。妖精には人間の強い感情……喜びや驚きだけではなく、狂気や悲嘆も大きな力となるらしいんです」


 妖精には感情と呼べるものが元々備わっておらず、人間などを真似ることで感情の生み出す力を受け取り、養分としているらしい。


「昔はどんな妖精も人間の近くにいて力を摂取できたようですが、今の世界は妖精にとって住みやすくないようです」


 住みやすくないとしても、力の弱い妖精は彼ら単体では向こう側に入れない。だから人間を連れて向こう側の入り口まで行き、弱い妖精は強い妖精に向こう側へと招き入れてもらおうとする。人間と引き替えに。


「では、わたくしは……」


「妖精の世界に連れて行かれそうになったんです」


 妖精の世界は人間の世界からすれば深海にも等しい。だからフィオリーナは息もできなかった。

 そんな恐ろしい妖精がネーヴェの庭には棲んでいるという。

 フィオリーナは食堂から見える暗闇に息をひそめるような庭を見つめた。けれど、いくら目を凝らしても妖精らしい影も見えなかった。


「……こういうことがあってから言うのは卑怯かもしれませんが、あまり怖がらないでやってもらえませんか」


 静かなネーヴェの言葉に、フィオリーナは向かいの彼に視線を戻す。

 ネーヴェの菫色の瞳はランプの明かりで少しだけ暗く沈んでいるように見えた。


「妖精は人間とは違う生き物で、違うことわりで生きているものたちです。私たちの尺度では量れない、そういうものだと思ってほしいんです」


 人間の価値観は人間のものであって、妖精の倫理はそれとは異なる。妖精は違う世界で生きているということはフィオリーナにもわかった。


「理解してほしいとは言いません。……子供の頃から彼らに触れている私も、よくわからないことのほうが多いですから」


 ネーヴェは物心つく頃には妖精が見えていたという。

 侯爵家に引き取られてからも妖精を友人として育ってきたらしい。


「少し不思議なことがあると気付いているかもしれませんが……アクアやマーレ、ラーゴは妖精です」


 ネーヴェの言葉にフィオリーナは今まで感じた不思議なことを思い出す。

 アクアたちは、いつもは屋敷のどこにもいないこと。

 ネーヴェがラーゴの姿を真似るまで、彼らの容姿がいっさいわからなかったこと。


「アクア達は──正しくは、私が妖精の残骸で作った人造の妖精とでもいいましょうか」


 まるで苦いものでも食べるようにして、ネーヴェは苦笑した。


「今、人間の世界にいる妖精はもう昔ほど力がなく……人の姿をしているものは稀です。あなたが見た妖精も大勢の妖精が集まっているだけの作り物だったと思います」


 人間の居住域が拡大していくと同時に妖精はその生息域を減らしているという。


「見える人も昔ほどいないですし、人の手が入った自然の中では残骸のようなものしか残っていません」


 その残骸をネーヴェが魔術で人工的に集めて人格を持たせたのが、アクアたちだという。


「一番最初に作ったのがマーレ、二番目がアクア、三番目がラーゴです。……せっかく人格を持たせたのに、容姿は私に似せているんですよ」


 何がいいんだか、とネーヴェは苦笑する。

 彼らがネーヴェと似ていると思ったのは間違いではなかったらしい。

 アクアたちはカミルヴァルト家の使用人などではなく、本当にネーヴェだけが主人なのだ。

 端正なネーヴェの顔立ちを真似ているとはいえ、アクアたちが妖精なら不思議な美しさもよく分かる気がした。

 妙に納得するフィオリーナを眺めて、ネーヴェは自嘲するように口元を歪めた。


「……子供の思いつきというのは本当に恐ろしいものですね。妖精を使って人の形を作ったと知られたときは、これ以上ないほど父に怒られましたよ」


 アクアたちを初めて見たカミルヴァルト侯爵は、幼いネーヴェを殴るほど怒ったという。


「いくら残骸とはいえ命をもてあそんだのですから、当然ですね」


 ネーヴェはスープにパンをひたして口に放り込む。


「──それからは、父自ら私を教育するようになりました」


 それは魔術にとどまらず、本職の騎士など専門の教師まで呼んであらゆることを教育して侯爵は徹底的にネーヴェを鍛えたという。


「思い返してもよく死ななかったと思いますよ。妖精を人造するなんて悪行の報いですね」


 ネーヴェは母親を亡くして侯爵に引き取られた。よすがの少ない幼い子供が不思議な何か──たとえば妖精に心惹かれたとして、それをただ悪いと責められるだろうか。

 フィオリーナは皿に残ったスープをスプーンですくって飲み干す。

 温かい食事と家族、どちらも持っていたフィオリーナにはネーヴェの寂しさは想像しかできない。

 けれど、ネーヴェの寂しさは冷めたスープのようだったのではないか。


「……今でも、妖精を造っているのですか?」


 残酷な質問だと思ったが、フィオリーナが妖精の存在を知った今は聞かずにはいられなかった。彼の造った妖精がまだ庭にいるのだとしたら。

 フィオリーナの杞憂をネーヴェは首を横に振って払った。


「造っていません。私の造った妖精は、今はアクアたちだけです」


 ラーゴが漏らしたことがあった。彼らも北部戦線に行っていたのだ。それをフィオリーナは今になって思い出した。

 フィオリーナが何も言えなくてネーヴェを見つめると、彼は静かに答えた。


「──私は彼らと戦場に行っていました。生き残ったのが、アクアたち三体です」


 淡々と話す声がとても物悲しかった。




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