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日傘が言うには

 ウィート領の園遊会から帰ったあと、フィオリーナは父と兄、それから母に手紙を書くことにした。

 ウィート領へ行く前に届いた父と兄の手紙にはネーヴェ宛の手紙もあったが、結局ネーヴェはそれをフィオリーナには見せなかった。

 なんとなく気になって内容を尋ねてみたが、ネーヴェは何も難しいことは書いていないとだけ答えた。


「あなたのお父さまとお兄さまの、男の矜持というものですから、ここは面子を大事にしてあげてください」


 男性の矜持といわれてはフィオリーナにはわからない。そもそも他人宛の手紙の中を見せろというのは失礼な話だった。

 フィオリーナが謝ると、ネーヴェは微妙な顔で苦笑する。


「娘の男親は心配が尽きないようですよ」


 心配をかけていることだけは分かるので、フィオリーナはそれ以上尋ねなかった。




 フィオリーナとネーヴェがオルミに帰ったのを計ったようにベロニカやクリストフからも手紙が届いた。どちらもフィオリーナへの労いとすこし休むようにということが書かれてあった。

 あのクリストフからの手紙にもそうであったので、社交の場にネーヴェを連れていくということがどういうことであったのかをフィオリーナは今更になって実感した。ここまで危険物扱いされる人も珍しいだろう。

 問題のネーヴェは、ウィート領から帰ってからはほとんど自室にこもっている。溜まった仕事を片付けているのだ。部屋から出てくるのは食事と気分転換だという水やりぐらいだろうか。

 ラーゴやマーレはときどき使いに出されていて、アクアが食事時にほとんど無理矢理ネーヴェを引っ張り出して食堂へ連れてくる。

 フィオリーナのほうはもっぱらカリニやホーネットと過ごしている。とくべつにやったことといえば実家からの送金があったので、今までの生活費などをネーヴェに支払ったぐらいだろうか。費用は気にしないでくれと言われてもフィオリーナが頑として譲らないので、根負けしたネーヴェは苦笑しながら受け取ってくれた。支払いも無事終えたので自由に買い物へ出かけても良いと言われているが、出かける気分にはなれなかった。

 畑の様子を見て観察日誌をつけ終えると、ぼんやりと考え込むことが多くなった。

 ウィート領で元友人から聞いた話が頭から離れないのだ。


(ひとりで考えていても仕方ないのに)


 元婚約者のシリウスがフィオリーナの噂に関わっていたかもしれない。

 フィオリーナの憶測でしかないことだが、この憶測がどうしても頭の中から離れない。

 事実を知りたければ証拠を集めるしかないことはわかっている。


(でも)


 今更シリウスに関する証拠を集めても、フィオリーナの噂はすでに広まっている。彼を問い詰めたところで何も変わらない。

 ウィート領で元友人に会ったこととシリウスの話はネーヴェに話してある。けれど、フィオリーナが何を考えているかまでは話さなかった。

 これはフィオリーナ自身の問題だからだ。


(せめて理由だけでも)


 シリウスがどういう気持ちでフィオリーナの噂を口にしたのか。それだけでも知りたい。

 けれどそれが残酷な事実にしかならないのは、世間知らずのフィオリーナにも分かることだ。

 だからあまり気が進まないのだ。


(やっぱり疲れているのかもしれない)


 ここ最近は庭ばかり眺めている気がする。


(散歩でもしよう)


 外へ出かけるための日傘を持ち出して、フィオリーナは庭へ出ることにした。

 最近では、この屋敷にいるときはほとんど編み上げのブーツを履いている。

 今度、買い物に出かける機会があれば新調しても良いかもしれない。

 そう考えるとすこしだけ気分が軽くなった。

 相変わらず庭の植物は季節はずれの花や実をつけている。

 夕暮れが近い日差しは夏の暑さをすこしだけ忘れていて、木々のあいだを柔らかく縫っている。小路はカリニが毎日掃除しているので綺麗だが、花壇の中は図鑑にも載っていないような花や草がとくに整えられることもなく乱雑に生い茂っている。

 この庭に毎朝水をやることはネーヴェだけが担っていて、彼は楽しげに水をやりながら庭を一周することを日課にしている。

 ネーヴェは薬や愛用の煙草に必要な庭の薬草を刈ることもあるがそれは最低限で、ほとんどは花が種をつけるまで自然のまま残されている。そういう庭だから、あちこちで草花が好き勝手に育つのだ。


(朝はあんなに明るいのに)


 ネーヴェが水やりをしている朝は緑の葉も輝いているというのに、夕方に近いだけで庭の様子はまったく違っていた。

 日の当たる場所は明るいが、当たらない場所は不思議なほど暗い。

 まるで世界を明暗で二つに分けてしまったようだ。


──きれいな傘。


 くすくすという笑い声と共に聞こえたのは、小鳥のような声だ。


──回してみせてよ。くるくるって。


 どこから聞こえているのかわからない声は子供のようでもあって、そうではないようでもある。

 言われたとおりにフィオリーナが日傘をくるくると回すと、きゃらきゃらと子供のような声が庭に響いた。


──すてきね! すてきね!


 手をたたいて喜ぶ声はたしかに遠くで聞こえていた。


──今度はそのドレスでくるりと回ってみて。


 ドレスの長い裾が翻ると、傘のようになるから。

 声にうながされるまま、フィオリーナは日傘を持ったままその場でひと回りする。

 すると、日傘を持っていた手にひたりと何かがそえられる。

 それは、とても小さな手のように見えた。


──ねぇ、もっと踊りましょう。


 小さな手だというのに、ぴったりとフィオリーナの指先に張り付いたまま、彼女の手をひらりと簡単に引いた。

 手を引かれるまま、庭でくるりくるりと回る。踊らされているのだ。そう気付いたときには、庭の中が真っ暗になっていた。

 いつのまにか両手を取られて、日傘はどこかへ放り投げられている。

 きゃらきゃらという子供の笑い声だけが響いて、他の音は聞こえなくなっていた。

 回る景色の中で、日傘が何か別のものに遊ばれるように宙へ飛んでいくのを見た。

 子供の笑い声は次第に増えていき、フィオリーナは両手に小さな手を持って、輪を描くように踊っていた。

 苦しいほどだというのになぜか楽しくなって、フィオリーナも笑っていたかもしれない。

 そうやって宴を楽しんだのか、子供たちは突然わっと散っていなくなった。

 すると、ずっとフィオリーナの手をつかんでいた小さな手が指先から淡い光を帯びて暗闇に現れた。葉っぱのような仮面をかぶった子供だ。


──あなたすてきね。もっと遊びましょう。


 その声はもう子供の声ではなかった。ガラスをフォークで打ち鳴らしたような甲高い音の塊だ。

 正体のわかったフィオリーナに子供は口を開けてけらけらと笑い出す。その口にはずらりと牙が並んでいた。


「──フィオリーナ!」


 まるで水の中から聞こえるようなくぐもった声だった。

 けれど、誰の声かははっきりと分かった。


「……ネーヴェさん!」


 たしかに口を開いて叫んだというのに、フィオリーナはごぼりと息を吐いた。これではまるでフィオリーナが水の中にいたようだ。

 泡とともに口から空気がこぼれて、それ以上叫べなかった。

 子供の手から逃れようとするが、子供はフィオリーナをさらに水底へと連れて行こうとする。

 反対側の手が不意につかまれる。

 見上げると険しい顔のネーヴェだった。

 振り返ったフィオリーナの意識がまだあると分かったのか、ネーヴェはすこしだけ表情をゆるめる。


「──離せ。この人はおまえの遊び相手にはなれない」


 怒りを含んだ声でネーヴェが言うと子供はびくりと震えて、フィオリーナの手を離して水底へ走っていってしまった。

 子供を見送ってネーヴェは息をつく。

 その口から空気の泡が漏れる。

 フィオリーナも声を出したいのに、声はただの泡に変わっただけだった。

 どうしてネーヴェはこんな水中で喋ることができたのだろう。

 そんなフィオリーナに苦笑して、ネーヴェはフィオリーナの腰に手を回す。

 葡萄色の髪が水中で遊ぶように揺れている。

 フィオリーナの頬に大きな手のひらが触れて、菫色の瞳が近づいてくる。

 眼鏡がフィオリーナの鼻先に触れるほど近づくと、菫色の瞳が細くなって白皙の顔が傾けられた。

 唇に彼の吐息の泡が触れる。

 その瞬間、ざぁっという大きな音と共に水が晴れた。

 気が付けば、ネーヴェに抱えられたまま庭に立っている。

 けれど、ネーヴェもフィオリーナも服を着たまま水に潜ったようにびしょ濡れだ。

 髪から水を滴らせたまま、ネーヴェはフィオリーナの頬をゆっくりと撫でた。


「……すみません。約束を破ってしまいました」


 よほど慌てたのだろうか。ネーヴェは手袋をしていなかった。

 頬に当てられた手のひらは硬く、しなやかな見た目とは違ってごつごつとしている。


(今、なにが)


 色々なことがありすぎたが、直前に起こったことはとても見過ごせそうになかった。


(手が……)


 頬を覆っている。

 それから、


(唇に)


 ネーヴェの吐息が触れた。

 まるでキスされかけたような。

 その事実にようやくたどりついたフィオリーナの頬から、大きな手がゆっくりと離れていく。

 その手をフィオリーナはとっさに捕まえる。そうしなければネーヴェは早々に逃げてしまう。それがどうしていけないのかもわからなかったが、離してはいけない気がした。


「……こ、これでおあいこです!」


 フィオリーナに触れないという約束だが、互いに触れればただの握手と変わらない。


「わ、わたくし、庭に居たはずなのにどうして水の中にいたのかわからなくて、助けていただいて本当に助かったのですが、あれはいったい……」


 フィオリーナは自分でも信じられないほどの支離滅裂さで言葉を並べていく。そうしていなければ自分からネーヴェを引き留めたくせに逃げ出してしまいそうだった。

 もはや恥ずかしいのか怖かったのかもわからないほどわけがわからなかったが、顔が熱いことだけはわかった。

 そんなフィオリーナにネーヴェは笑って、息をついた。その吐息がフィオリーナの額にかかる。そういえばこれほど近くにいるのだ。


「……これがおあいこだというのなら」


 体が引き寄せられたかと思えば、フィオリーナは長身に寄りかかられるようにして腕の中にすっぽりとおさまった。


「すこし、こうさせてください」


 耳元で静かな声が聞こえた。

 支えるようにして大きな手が頭のうしろに回されて、髪を撫でられる。指がすべる感触で結っていた髪がすこし崩れていることがようやくわかった。

 抱きつかれている。

 そう気付いて驚いて身じろぎしたが、ネーヴェの腕は優しくフィオリーナを抱きしめた。


「……無事で良かった」


 静かな声がかすれている。

 この人をこれほど心配させたのだ。

 それだけが痛いほど分かって、フィオリーナはおずおずとネーヴェの背に手を回す。

 濡れたベストは冷たくなっていた。

 硬い肩に頬を寄せると、長い指がフィオリーナのくずれた髪をいたわるように撫でた。

 フィオリーナも驚くほど冷えていたが、ネーヴェと熱を分け合って少しだけ温かくなった。



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