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猫背が言うには

 馬車が停まっているという屋敷の裏へ続く道にはフィオリーナたち以外に人はいなかった。

 緑の小路を抜けるようにして、ネーヴェはフィオリーナの手を引いていく。

 そうしてもらわなければまっすぐ歩けそうになかった。


「──遅くなってすみません」


 答える気力もないフィオリーナに、ネーヴェはゆっくりと続ける。


「何を聞いたか、あとで教えてもらえますか?」


 そのためにあの糸車に耐えていたのだ。フィオリーナがわずかにうなずくのを確認すると、ネーヴェはそれ以上何も言わなかった。

 考えることは他にもたくさんあるというのに、フィオリーナの頭の中を支配していたのは元婚約者のことだ。

 元婚約者のシリウスはフィオリーナを悪女だと言いふらしていたという。

 彼は噂を本当だと思っていたから、助けることはできないと言ってフィオリーナから離れていったのだろうか。

 噂は王都から流れたと母は言っていた。王城勤めのシリウスはフィオリーナより早く噂を耳にしていただろう。

 考えたくもないが──彼が噂を流した張本人だとすれば、つじつまが合ってしまう気がした。

 だとすれば、フィオリーナとの婚約は彼にとって邪魔だったということか。

 それとも、フィオリーナを疎んじる理由がもっと別にあるのか。

 あれから謝ることも話すこともできないままオルミ領へやってきてしまった。

 もう一度、元婚約者に会わなければならないのだろうか。

 そう思うと、自然と足が重たくなっていく。シリウスと会う前はいつもこうだ。

 シリウスは近衛騎士という職業柄たしかに誠実な人ではあったが、フィオリーナに様々な要求をした。

 外出の準備は手早く、シリウスの後ろを歩くように、受け答えは素早く控えめに。すこしでもシリウスが悪いと言えば、フィオリーナに非があるのだから謝罪をするように。

 暴言などはぜったいに言わなかったが、苛立ったときはフィオリーナの問いかけに答えなくなった。その時間が一番苦しかった。


(苦しかった……?)


 自分の感想にフィオリーナはハッとする。

 苦しいなどと思ってはいけないと思っていた。どんな理由があっても人から無視をされるなんて、とても怖いし、苦しいことだというのに。

 ようやく元の世界に戻ってきたように、フィオリーナは自分が歩いている道を見渡した。緑の小道には木陰の涼しい風が流れている。

 フィオリーナの手を引くのは、ハンカチと手袋の手。

 かたわらの人を見上げると、フィオリーナと同じように菫色の瞳がこちらを見ていた。


「──疲れたでしょう」


 穏やかな声は葉擦れにまぎれてしまいそうになるほど静かだった。


「私も疲れましたよ」


 フィオリーナがぎこちなく笑うと、ネーヴェは目を細めた。


「疲れたときは笑わなくていいですよ」


 よけいに疲れますから、とネーヴェは軽く笑った。


「元気になったら、笑ってください」


 穏やかな声が冷たくなっていた指先を温めていく。


「……はい」


 どうしてこの優しい人が世界でいちばん幸せにならないのだろう。

 フィオリーナはこんなに簡単に幸せな気持ちになるというのに。


 屋敷の裏で待っていたのは馬車だけではなかった。


「わたくしもザカリーニに帰るわね」


 母もフィオリーナを見送ってすぐにザカリーニへと帰るという。

 元気で、と母がフィオリーナをもう一度腕に迎えてくれる。

 何も言えなくなって母におとなしく抱かれると、優しい手が背中を撫でてくれる。


「……つらくなったら、いつでもザカリーニに帰ってきて良いのですからね」


 フィオリーナはこうして帰る場所がある。


「オルミ卿、もうしばらく娘をよろしくお願いいたします」


 母がフィオリーナ越しにネーヴェを見上げるので、彼もうなずいた気配がした。


「大切にお預かりいたします」


 そう言ってネーヴェは母から離れようとしないフィオリーナを見てから、そっと離れていく。

 そして馬車で待っているマーレとアクアに何かを確認するように話し始めた。フィオリーナが落ち着くまで待ってくれるつもりなのだ。


(あの人が帰る場所はオルミ領しかないのに)


 彼の言葉のまま受け取るなら、ネーヴェはあの屋敷でずっと暮らすという。たったひとりでも。

 それはどれほどの孤独か。フィオリーナでは想像もつかなかった。


「しっかりなさい、フィオリーナ」


 母がフィオリーナを甘やかすのをやめて、背筋をのばすように立たせた。


「オルミ卿があなたのためにどれほど心を砕いてくださっていると思っているの」


「それは……」


 ネーヴェやクリストフ、ベロニカなどの思惑がフィオリーナの計画にもう乗っているからだ。


「あらやだ、あなた気付いていないの?」


 母はフィオリーナにあきれた顔をする。


「オルミ卿がいつも猫背と言っていたけれど」


 失恋したような気分の勢いで妙なことまで話したことをフィオリーナは今更後悔した。余計なことを喋ってしまった。


「わたくしや他の方と話すときはそんなことはなさらないのよ」


 適切な距離と声の大きさをを保っていれば、ネーヴェが屈むことなどないという。


「あなたの前だけよ。猫背だなんて」


 いぶかる娘に母は笑う。


「あれはね、あなたの声を近くで聞きたいから丸くなっているだけなのよ」

 



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