煙草が言うには
すぐに答えを出さなくていいと、話し合いを切り上げたのはネーヴェだった。
屋敷は狭いけれど今日のところはもう休んでくれと言って、フィオリーナや兄、そしてメイドにも部屋を用意してくれたのだ。
時間がかかったけれど、と湯浴み用の湯まで用意してくれ、フィオリーナはメイドと一緒に長旅の汚れを取ることができた。
家族だけでとっていいと言われた夕食を兄と、実家ではないのだからと座らせたメイドの三人で温かい食事をとると、溜まっていた疲れがどっと抜けていくようだった。
眠そうなメイドを先に下がらせると、フィオリーナは兄の部屋へ呼ばれた。
ソファとローテーブルも置かれた兄の部屋は、書き物机とベッドだけのフィオリーナの部屋より少しだけ広かった。きっと兄が気詰まりしないように気を使ってくれたのだろう。
「どう思う」
フィオリーナをソファに座らせ、自分は椅子にかけた兄がさっそく切り出した。
「悪い方ではないだろう」
決断の早い兄にしては歯切れの悪い答えだ。疲れもあるのだろうが、実際のネーヴェに会って印象が変わった様子だった。
「偏屈と聞いていたが、おそらく世間の印象は間違っている」
ネーヴェはきっと頑固で変わり者だが、噂に疎い隠者ではない。
「私ができるのはここまでのようだ。あとはおまえが決めていい」
突き放すようなアーラントの言葉だが、兄はネーヴェとフィオリーナの会話を黙って聞いていてくれたのだ。
兄はフィオリーナを信じてくれたのだ。
ならば、フィオリーナも兄の作ってくれたお膳立てを最大限に生かさなければならない。
「明日、必ず答えを出します」
兄にはそう言ったものの、部屋に帰っても答えは出ないような気がして、フィオリーナは廊下に足を向けた。
フィオリーナたちの部屋が用意されたのは二階の部屋で、一階に降りれば最初に通された応接間にあたる。そのすぐ隣が食堂で、その奥はサンルームだという。ネーヴェの部屋は知らない。
応接間は月明かりでゆったりと青白い。
妙に明るいその部屋に人影を見つけて、フィオリーナは少しだけ足を止めそうになった。
やけに背の高い人が煙草をくわえてぼんやりと庭を眺めていたのだ。ゆらゆらと立ち上る煙は月明かりに吸い込まれるように消えて、窓辺の人は影法師のように見えた。
フィオリーナが声をかけるか迷っていると、影法師がゆっくりと煙を吐いて振り向く。
「眠れませんか」
ネーヴェが昼間と変わらない格好、変わらない顔で煙草を指にとった。
フィオリーナの近くにはシガールーム以外で煙草をたしなむ人はいなかった。それでもネーヴェの隣に立ってみる。
「煙は大丈夫ですか?」
あまり好きではなかったはずの煙草の匂いが、ネーヴェの隣だとどこか香ばしい。フィオリーナが「はい」と肯くと、ネーヴェは「では」と遠慮なく煙草をくわえた。
ネーヴェの視線はすでにフィオリーナにはなく、庭へ向けられている。
彼の視線の先が気になってフィオリーナも同じように目を庭へ向けた。
庭は青白い光に包まれていた。花や葉、すべてが月の光に染められて、どこか造り物めいている。月光によって時を止められたように、どこもかしこも静かだ。
昼間、あれほどよどみなくに話していたネーヴェも、今は何も話さない。
そっと彼を見上げると、その横顔はひどく整っていた。
どうして今まで気付かなかったのかと思うほど、柔らかな顔の稜線はなめらかだ。
とくべつ身綺麗なわけではないし、他人を拒絶するような雰囲気だというのに、どこか繊細で美しい顔立ちだった。立ち姿も姿勢が悪いだけで痩身ながらもしっかりと男性らしい体つきだ。
ふいに眼鏡の奥の瞳がフィオリーナに向けられる。菫色の瞳が細まると、いっそう妖しくきらめいた。
「何か気になることでもありますか?」
ネーヴェの声は夜のように穏やかで静かだ。何かを急かすことのないその声は、ゆっくりと話すフィオリーナにはありがたかった。けれど、ネーヴェの姿を見ていたとはさすがに言いにくい。フィオリーナは別の質問をすることにした。
「……吸っていらっしゃる煙草は、あまり強い香りがしないのですね」
これほど近くに居ても、煙草の匂いが気にならないのだ。
「ああ、これですか」とネーヴェは軽く持ち上げて、
「自分で調合しているのですよ。この庭の薬草を燻して、粉にして紙を巻いて。中身はハーブティーと同じですよ」
たとえば、とネーヴェが口にのぼらせた薬草は食事にも使われるものばかりだった。
「そんな薬草で煙草ができるのですか?」
「私だけのレシピです。──個人で煙草を作るのは非合法ですから」
「えっ」とフィオリーナが声を上げると、ネーヴェは手にしていた灰皿に煙草を押しつけて、笑った。
「秘密ですよ」
そんな秘密を共有されてもフィオリーナは困るだけだ。どうしようかと慌てるフィオリーナに、ネーヴェはただ笑って続ける。
「昔、自家製煙草と偽って麻薬を売る組織があったり、煙草の葉を密造する領地がありましてね。煙草は畑の管理から製造まですべて国有となったのですよ」
ますます犯罪めいてくる補足だ。
「じ、自首してください!」
自首すれば罪が軽くなると聞いたことがある。自白を聞いたフィオリーナにも責任があるというのなら、証人にでも何にでもなろう。
「ふ…あっはっはっは!」
せっかくフィオリーナが覚悟を決めたというのに、ネーヴェはとうとうおかしくてたまらないという風に笑い出してしまった。
「オルミ卿…!」
「すみません。嘘です」
フィオリーナは眉をつり上げる。人がこんなにも心配しているのに楽しげなこの人が信じられない。
フィオリーナの様子にネーヴェも少しだけ笑うのを収めて「すみません」と謝罪を口にした。
「煙草として製造し販売すれば違法ですが、これは私の個人的な趣味ですから売り物ではありません」
限りなく非合法に近いように思われるのだが、ネーヴェは素知らぬ顔だ。
「……では、わたくしにも嘘をつかれたらよろしかったのでは?」
フィオリーナも、最初から珍しい煙草なのだと言われていれば疑いもしなかった。
「そういえばそうですね」
ネーヴェは少し考えるような顔をして、
「やっぱり秘密にしておいてくれませんか。面倒はごめんなので」
やけに素直に口にするので、フィオリーナは思わず笑ってしまった。
ネーヴェはきっととんでもないひねくれ者だ。けれど、フィオリーナには誠実であろうとしてくれているように感じるから不思議だった。
「あの…」
今もこうしてフィオリーナが声を向けるだけで、その菫色の瞳をまっすぐ返してくれる。
「どうして、わたくしを領地へ迎え入れるご提案をくださったのですか?」
兄のアーラントのことをあれほど調べているのならば、ネーヴェはフィオリーナの噂を当然知っている。もしかしたら、噂の渦中にいるフィオリーナよりも正確に。
フィオリーナの問いに、ネーヴェは彼女をまっすぐ見たまま答えた。
「あなたが、お兄さまといらしたからです」
そう言って、ネーヴェは菫色の瞳を少し細めた。
「あなたの噂はぼんやりとしたものでした。男好きの悪女というわりには、あなたの姿を見た人がいなかった。そんな派手な方なら誰かの印象に残るはずでしょう?」
噂からは素性と名前は聞こえてくるのに、人となりはまったく分からない。実際に男性と遊んでいるところを見た人もいない。
「その代わり、あなたの周囲の人は出仕されていたりパーティにも出ていたので知ることができました」
噂が流れたあとフィオリーナは実家で引きこもっていたが、兄や姉、元婚約者は当然、仕事や社交に従事していたのだ。ネーヴェが知ることができるのは彼らぐらいだっただろう。
「あなたのお姉さまやお母さまは、積極的にパーティへ参加してあなたの身の潔白を自分から広げようと努めておいででしたし、お兄さまやお父さまは、宮廷に出入りできる身分を使ってあなたの身の振り方を最大限確保できるよう働きかけておいででした」
だから、フィオリーナが誰からも見放されるような娘には見えなかったのだという。
「放蕩娘を他国の外戚へ嫁がせるとか、金持ちの後妻として嫁がせるとか、そういう話はよくあることです。あとは駆け落ちもよく聞きますね」
そうやって娘を追い出してしまうやり方はフィオリーナも聞いたことがある。
「そのような場合、家族がわざわざ付き添ってくる場合は少ない。私のような、辺境の田舎領主に嫁がせる場合も同様です」
追い出すための婚姻ならば、結婚という名の厄介払いなのだ。使用人を伴わせるぐらいはするかもしれないが、家族はわざわざ出向かないだろう。
「でも、あなたはお兄さまとメイドと共にやってきた」
それは、責任感の強い兄だからこそだ。
「あなたは、あれほどあなたを心配なさっているご家族をお疑いになるのですか?」
ネーヴェに言われて、フィオリーナは恥ずかしくなった。心配してくれた家族のことより、また自分のことばかり考えていたのだ。
悪い噂のせいで婚約は破談となり、居場所さえ失うのだと、思い悩み目に映るのは自分の悲劇ばかりだった。
「あなたはどうしたいですか」
うつむいていたフィオリーナがわずかに顔を上げると、菫色の瞳がこちらを見ていた。
その瞳は静かで、波立っていたフィオリーナの心をなだめていくようだった。
ネーヴェはもちろん自分の目的や都合のために調査したのだろう。その上で、フィオリーナをこの屋敷に置いてもいいと判断したのだ。
フィオリーナは、家族の真心と誠実さのおかげでここに立っている。
ここから先はフィオリーナが自分自身で踏み出すときなのだ。
フィオリーナの潔白は彼女自身で証明していかなくてはならない。
まずは、この目の前の人にフィオリーナの潔白を信じてもらうこと。
ネーヴェは噂を精査しただけで、フィオリーナの真実など分からない。これからはこの人に信じてもらうために、行動していくのだ。彼の家に滞在することで、フィオリーナの評判はさらに落ち込むことになるかもしれない。婚前の娘の身の振り方としては、男の家に滞在するなど悪評そのものだ。それでも、家族に守ってもらってうずくまっているばかりでは何も変わらない。
「──わたくしをここに置いていただけませんか、オルミ卿」
まっすぐ顔を上げたフィオリーナに、ネーヴェは柔らかく笑んだ。
「ええ。これからよろしくお願いします。フィオリーナ嬢」




