母が言うには
ネーヴェがグラスを使用人に押しつけて、主催の夫人に声をかけると、ちょうど話が終わったところだった。
「あらあら、素敵なお嬢さん」
やはりこの姿ではフィオリーナとは分からなかったようだ。
「ご無沙汰しております。フィオリーナ・テスタ・ザカリーニです」
フィオリーナがドレスをさばいて膝をすこし屈める略式の礼をとると、夫人は目を丸くする。
「まぁまぁ、フィオリーナ。来てくれたのね!」
夫人はいっそう明るく微笑んだ。彼女は母と長い付き合いのある友人だ。
ここ最近は知人であっても嘘か本当か疑いながら顔色を窺っていたが、この夫人は疑いようもなくフィオリーナとの再会を喜んでくれているとよく分かった。そんな温かい笑顔だ。
「素敵よ。綺麗になったわね、フィオリーナ」
裏表のない言葉はフィオリーナの心を温めてくれる。最近は人を疑い過ぎてその温かい言葉さえうまく受け取ることができなかったように思う。
「いらっしゃい。お部屋でお待ちよ」
夫人は近くに居た使用人に「あとはお願い」と言って、自らフィオリーナたちを屋敷の中へと招いた。
夫人の趣味で飾られている異国の染めつけ皿の並ぶ廊下を過ぎると、外の喧噪は遠くなった。
涼しい風が流れてきて、日差しに火照っていた体が落ち着いていく。
夫人がフィオリーナたちを通したのは屋敷の中でも奥まった、裏庭を臨む部屋だ。緑がさわさわと鳴るだけで、表のざわめきと切り離されたように静かだった。
「わたくしは頼まれただけだから、何も知らないけれど……」
そう言って夫人はフィオリーナににっこりと微笑んだ。
「前よりずっと良い顔になったわ。本当よ。わたくしは、あなたをずっと応援してますからね」
温かい言葉の温度がフィオリーナに染み渡る。
「……はい。ありがとうございます」
フィオリーナが小さな頃から知っている夫人だ。温かい言葉がありがたかった。
夫人にうながされるまま、一室のドアをノックする。はい、という返事が懐かしくて、フィオリーナは泣いてしまいそうになった。
ドアはネーヴェが開けてくれた。
すこし焦るように部屋へ入ると、三か月ぶりの母、イメルダが待ちかまえていた。
一人掛けのソファからイメルダは無言で立つと、フィオリーナに腕を伸ばす。それを黙って目を伏せて、温かい抱擁を受け入れる。
「……まったく、心配かけて」
「……ごめんなさい、お母様」
しっかりと抱き合ってから母はフィオリーナの背を撫でて、
「あら、あなた。今日はこんなに大胆なドレスを着ているの」
大胆に開いた背のレースを撫でさする。そうだった、こういう母だった。
「こ、これは…お知り合いに用意していただいたもので…」
「まぁ、そうなの。こんな豪華なものをオルミ卿にご用意いただくような仲なのね」
それはすこし、いやだいぶ違うし宝石も借り物だと言ってしまって良いのだろうか。
「それで、オルミ卿は?」
ぴしりとしたイメルダの空気に腕を取られたままフィオリーナは内心冷や汗をかく。おおらかな性格の母はおおむねのことには優しいが、ここぞというときはしっかり者の姉よりも怖いのだ。
「──ご挨拶が遅れて申し訳ございません」
いつの間に部屋のドアを閉めたのか、フィオリーナのそばにネーヴェが進み出た。
そして、朝と同じように自分の顔に手をかざす。
ゆっくりとプラチナブロンドと顔形が溶けるように変わり、元の葡萄色の髪が現れた。ネーヴェが上着の内ポケットから眼鏡を取り出してかけると、イメルダは丸くしていた目をフィオリーナに向ける。
「まぁ、すごいわ! 魔術ってこんなことができるのね」
「お母様……」
初めてネーヴェの魔術を見たフィオリーナも同じ気分だったが、ここまで驚く暇もなかった。母の反応はなんだか新鮮だ。
「お初にお目にかかります。ザカリーニ夫人。ネーヴェ・オルミ・カミルヴァルトと申します」
ネーヴェが礼といっしょに述べると、イメルダは慣れた手つきで手を差し出した。その手を受けてネーヴェは自分の額のあたりに近づける。
こうすることで、女性と話すことを許されるという古いマナーだ。
「ゆるします。──まぁ、懐かしいわ。こんな丁寧なご挨拶」
ネーヴェから手を離されると母は「ふふ」と笑って言う。
「フィオリーナのこの姿もあなたのご趣味?」
「それについて、ご説明するお時間をいただいても?」
ネーヴェの答えに満足したようにうなずいて、母はフィオリーナとネーヴェをソファセットへ招いた。
それから、ネーヴェはほとんど淀みなく今のフィオリーナをハリボテの悪女に仕立てる計画をイメルダに話してしまった。
どういう反応をされるのかとびくびくしながら聞いていたフィオリーナだったが、母は真剣な顔ですべて黙って聞き終えた。
ネーヴェの話を聞き終えると、イメルダは考え込むようにソファに深く身を沈める。
「──事情はよくわかりました」
そう言って母はすこしだけ頬をゆるめてフィオリーナを見た。
「あなたはこの計画に納得して賛同したのね。フィオリーナ」
提案はネーヴェだが、決めたのはフィオリーナだ。
大きくフィオリーナがうなずくと、イメルダは大きく息をついた。
「あなたが納得したなら、それでいいわ。やれるところまでやりなさい。ただし──ザカリーニ家としてはあなたを支援してあげられない」
繋いでいたはずの手を離されてしまったような心地がした。けれど、フィオリーナが失望する前にとなりに座っていたネーヴェもうなずいた。
「はい。この件は私の一存で、お嬢さんを巻き込んでいることです。私がすべて責任を持ちます」
はっきりと答えたネーヴェをフィオリーナは思わず見つめる。その横顔はまっすぐ母を見据えて揺るがない。
「むしろ、ザカリーニ家の方には表立って動いていただかないほうが良いと思います」
ネーヴェの言葉にイメルダもうなずいた。
「……あなたの計画は悪いものではないわ。正直に白状すれば、手段を問わないのであればわたくしたちもそういう手段をとったかもしれない。いくら周りの人間が潔白を口にしたところで人は信じたいものを信じるもの。フィオリーナの名誉を回復させるには、本人が新しい印象を植え付けていくことが一番確実だし、必要なことよ」
でも、と母は自嘲するように苦笑する。
「だめね。末娘は可愛いもの。印象を操作するために演技させるなんて真似も、わざわざ厳しい社交界にもう一度出そうだなんてこともできなかった」
今まで優しい娘として育ててきたフィオリーナを、悪女と呼ばれるように仕立てるなど家族にはできなかったという。
「支援はできないけれど、わたくしは応援するわ。フィオリーナ、オルミ卿」
イメルダは今度こそフィオリーナを見つめた。
「どんなに離れても、わたくしはあなたのお母様だし、ザカリーニはあなたの故郷よ。それだけは忘れないで」
はい、と声になっただろうか。
今まで受け取れなかった温かい心が多すぎて、フィオリーナひとりでは持ちきれそうになかった。
「フィオリーナ」
そっと手渡されたのはハンカチだった。
となりから渡された声がいつものように優しくて、こらえていた涙がこぼれてしまう。
そんなフィオリーナを見ていた母だったが、すこし表情を堅くする。
「……支援ができないのは、わたくしたちがうまく動けないことも理由のひとつなのよ」
「というと?」
ネーヴェがうながすとイメルダはいっそう声をひそめた。
「フィオリーナの噂は自然に流れたものではないわ。流した犯人がいると分かったの」
あきらかに不自然な噂の流れ方をしていると兄のアーラントが突き止めたという。
「それは当然よね。フィオリーナの交際関係なんて、ずっと付き添っていたわたくしかこの子の姉がよく知っているのですもの」
ほとんど引きこもりがちだった狭い交友関係を暴露されそうになって、フィオリーナは身を乗り出しかけるが、母は落ち着いたものだった。
「アーラントが言うには、噂の出所は王都らしいの。逆に、ザカリーニ領ではほとんど噂は広まっていない」
王都にザカリーニ家のタウンハウスがあるとはいえ、あまりに遠く離れた土地での噂だ。
「この情報はお役に立つかしら?」
イメルダの言葉にネーヴェはうなずく。
「もちろんです。有益な情報をありがとうございます」
それで、と真面目な話をしていたはずなのに、母は目をきらきらと輝かせた。
「これを一番お伺いしたかったのですけれど」
「はい」
何か考え込んでいたネーヴェが律儀にうなずくと、イメルダは明るい声で言い放った。
「うちのフィオリーナと本当の恋人になる予定はないのかしら?」
「お母様!」
叫んでしまったフィオリーナは悪くないはずだ。
「あら、フィオリーナ。あなただって気になるでしょう?」
「それはその……そういうお話ではなく」
「オルミ卿は素敵な方じゃない。何が不満なの」
ネーヴェに不満などあるはずがない。むしろフィオリーナのほうに問題が山積みで、彼に迷惑をかけているのだ。
「どうかしら、オルミ卿」
母がありえないほどの押しの強さでネーヴェに水を向ける。フィオリーナがほとんど涙目でネーヴェを振り返ると、彼は困ったように苦笑していた。
「フィオリーナ嬢は素敵なお嬢さんですよ。ザカリーニ夫人」
「では…」
いっそう笑顔を輝かせたイメルダに、ネーヴェは申し訳なさそうに微笑んだ。
「私の経歴はお聞きおよびでしょう。……私は嘘偽りなく娼婦の子で──人殺しなのです」
ネーヴェは膝に置いた、手袋に包まれた自分の手をじっと見つめる。
「私はすでに欲しいものは自分で手に入れて、それを守ることに精一杯です。これ以上望んではきっと天罰がくだることでしょう」
ネーヴェは天罰という言葉をあえて使ったのだ。
フィオリーナもネーヴェの手をじっと見つめる。
手袋で隠された彼の手に、どれほどの物が載っているというのだろうか。
彼自身の生、オルミ領、戦友、どれもネーヴェが手に入れてきたものだが、彼が持っているそれ以外はどれも厄介ごとばかりではないか。
「──フィオリーナ」
呼びかけられるまま顔を上げると、菫色の瞳は苦笑している。
「あなたは物ではないんですよ。もちろん私のものでもないし、なる必要もありません。あなた自身はあなたのものなのですから」
そう言って、ネーヴェは席を立った。
「私はすこし部下と話をしてきます。人払いをしておきますので、しばらくごゆっくりなさってください」
ネーヴェはそう告げると、部屋を辞していってしまう。
残された親子は顔を見合わせた。
「ほら見なさい。あなたがはっきりしないからよ、フィオリーナ」
「わたくしのせいではないと思うのっ」
フィオリーナは今すぐ泣きたい気分で叫んでしまう。
不可抗力とはいえ、なんだか思い切り失恋をしてしまった気分だった。




