リボンが言うには
馬車に揺られながら、向かいに座ったネーヴェは少し真面目な顔で話し出した。
「今日の園遊会は、あなたの噂を撒く機会だと思ってください」
前回の夜会ではほとんどクリストフとベロニカと過ごしていた。
母に会うためとはいえ、従者だけ伴って園遊会に参加するのはベロニカに招かれたとき以来だ。
「私は彼らのように知人を紹介するといったことはできませんから、基本的にあなたの従者としてついていきます」
貴族の知り合いもあんまりいませんしね、とネーヴェは付け足して、
「ですから、この園遊会はあなたのお披露目です。あなたは名前を尋ねられれば答えて会話する。それだけで勝手に人は噂をしてくれますから」
シーズンに参加する貴族は大なり小なり噂好きばかりだ。噂の悪女が現れたということが分かれば、あとは勝手に広めてくれる。
「私の手助けは最低限だと思ってください。虫除け程度です」
人を避けるには今のネーヴェの容姿は華やかすぎると思うが、そこはネーヴェの問題だろう。
「あの、わたくしからもひとつ……」
フィオリーナはどうしても我慢できなくて手を挙げる。
「目の色だけでも、ネーヴェさんに戻していただけませんか…?」
いつもの眼鏡をかけているとはいえ、ラーゴの容姿がひどく端正でふとした拍子に向けられる甘い微笑みがよく似合う。中身がネーヴェだと分かっているだけに、なんだか居心地が悪い。
「じゃあ、目の色だけ変えますよ」
ネーヴェはふたたび自分の顔に手をかざすと、淡い光と共に菫色の瞳に戻った。それだけでずいぶんとネーヴェに近づいた。
(でも、不思議だわ)
菫色の瞳になったラーゴの容姿は、髪色だけ変えたネーヴェに見えた。眼鏡をとれば、ラーゴはネーヴェを少し若くしたような顔立ちなのだ。
十代、それもフィオリーナと同じぐらいの年齢に見えた。
「フィオリーナ?」
その顔で優しく微笑まないで欲しい。
そう思ってしまうほど、今のネーヴェはフィオリーナに近すぎる。
(やっぱりネーヴェさんはずるい)
これ以上困らせたくない。そう強く思うのにフィオリーナの壁をネーヴェはやすやすと越えてくる。
「……今日はよろしくお願いします。ネーヴェさん」
これはフィオリーナの戦いなのだ。ネーヴェに負けてはいられない。
菫色の瞳はすこし丸くなったものの、すぐ細められて笑った。
「はい。よろしくお願いします」
でもやっぱりその容姿で甘く微笑んでくるのは良くないことだと思った。
▽
ウィート領はアレナスフィル領を少し南下したところにある。
山と海に挟まれた土地で、どこかのんびりとした雰囲気はオルミ領と似ていたが、その規模も歴史も違う。二つの港町を抱えた古い土地だ。
交易都市として発展してきた歴史もあって、馬車から見える町並みは洗練されている。どこもかしこも街灯が並んで、街中を歩く人々の中には自国の衣装を身に着けた異国の人も多く混じっていた。
道に連なる街灯は最近開発されたもので、月鉱石が使われているという。
街灯をひと目見ただけで言い当てたというのに、ネーヴェはすぐに興味をなくしたように建物の隙間から見える海に目を凝らしているようだった。
園遊会の会場は小高い山の中腹だ。海を臨む屋敷が丸ごとが会場になっている。
少し狭い馬車止まりで降りると、もう次の馬車が待ちかまえている。アクアとマーレに馬車を任せてネーヴェの手を借りて降りると、すぐに玄関だった。
開け放たれている玄関脇のドアボーイに出迎えられて、ネーヴェが招待状を確認させる。
そしてそのまま会場へと案内されると、燦々と日差しが降り注ぐ庭だった。
明るい緑に囲まれた庭はもう参加客でいっぱいだった。そこかしこで談笑する人々や楽隊を備えたダンス広場まである。
ベロニカの別邸で行われた和やかな園遊会とは違って賑やかな会だ。
フィオリーナの見知った人は今のところ見あたらないので、挨拶のために主催を探さなければならない。
「あちらでお話中のようです」
会場をぐるりと見回したネーヴェがオープンテラスのあたりで談笑している夫人を見つけた。彼女が母の友人だ。フィオリーナも何度か会ったことがある。
「よく分かりましたね……」
知人さえ見つけられるかあやしいのに、このたくさんの人の中から知らない人を見つけるなど、フィオリーナにはとてもできそうになかった。
「主催のブートニエールはどこも変わりませんから」
答えたネーヴェは素っ気ない。
ブートニエールは主催の証である胸元の生花のことだ。造花を身に着ける人も大勢いるというのに、ほとんど一瞬で見分けたというのか。驚いてフィオリーナがかたわらを見上げると、ネーヴェは目を伏せて眼鏡のつるに指をかけているところだった。そのまま眼鏡を外してジャケットの内側へ仕舞う。
伏せられていた瞳が開くと、はっきりとした菫色が澄んだ光を持った。
他人の容姿だろうと関係なかった。
ラーゴの人懐っこい双眸とはまるで違う。
眼差しが向けられると、心の底が浮き立ってしまう。
まるで森の中で狼に出会ってしまったようだった。
恐ろしさを感じるのに、目が離せなくなってしまう。
そんな瞳がゆるく弧を描いて細められる。いつも眼鏡の奥ではこんな風に双眸を緩めていたのだ。そんな軌跡さえ見つめてしまった。
(どこかで見たことがある)
この捕らわれる恐ろしさを、フィオリーナはたしかにどこかで味わった気がした。
「お嬢様」
声をひそめて形の良い唇がゆるく笑みを浮かべる。
「……フィオリーナ」
ほとんど吐息のような小声で呼ばれて、ようやくフィオリーナは思いのほか近くまで顔を近づけていたネーヴェを仰ぎ見る。
「お疲れのようです。ご挨拶の前にすこし休みましょう」
そう言ってネーヴェが目を向けたのは会場の飲食スペースだ。使用人が客に飲み物を振る舞っている。ボトルクーラーがいくつも置いてあるところを見ると、飲み物を氷で冷やしているようだ。
フィオリーナがぎこちなくうなずくと、ネーヴェはいつものように模範的に彼女の指先をとった。
花婿みたい、とはしゃいだコルネリアの幻聴が聞こえて、フィオリーナは恨みたくなった。フィオリーナがこの調子では悪女どころか、母に会うことさえできるのか不安になってくる。
フィオリーナを会場の隅にある木陰の椅子に座らせて、ネーヴェは飲み物を受け取りに向かう。
はりきって華やかな格好をしているのに、すっかり壁の花だ。
心の中でこんなに毒づいているというのに、フィオリーナは長身のプラチナブロンドを目で追っている。黄色いリボンが揺れるたびに自分の黄色いドレスを意識してしまうのが気恥ずかしい。
どうしてネーヴェは眼鏡をはずしたのだろう。
ラーゴの代わりになるためだと分かってはいるのに、フィオリーナはどうしても納得できなかった。
(反則だわ)
目が悪いのかとさえ思っていたのに、使用人から飲み物を受け取る動作にはまったくためらいもない。
手袋をしている長い指がグラスの足をわずかに撫でる様子さえ、見ているだけで居心地が悪くなる。
そんな風に見ていたからだろうか。
プラチナブロンドが不意に別の方向へ振り返ると「あ」と声を上げそうになった。
参加客の女性たちに声をかけられている。
思ったとおりだ。彼は自分の容姿に無頓着過ぎる。
女性たちを見下ろす彼は柔らかな笑みさえ浮かべている。フィオリーナだけのものでもないのに、誰にでもあの顔を見せるのだと思うと面白くない気分だった。
「どうしたの、そんな顔をして」
くすくすと笑われて顔を上げると、知らない男性が笑っていた。清潔感のある品のいい男性だが、濃紺のジャケットや白のベストが何となく派手だ。
「誰かを待ってる?」
ここでたじろいでいてはダメだ。フィオリーナはおなかに力をぐっと入れた。
「ええ。従者を待っています」
武装するように笑うと、男性は「なるほど」とフィオリーナのそばに立った。
「お暇ならお話してもいいかな」
多くの貴族にとってそうであるように、この男性にとって従者を待つ時間は暇にしかならないようだ。ネーヴェはしばらく帰ってこないかもしれない。不安になりそうになる心を支えて、フィオリーナが口を開きかける。
「──お嬢様」
滑るような声がフィオリーナと男性のあいだに割って入った。
「お待たせいたしました」
気配を感じさせない動作でフィオリーナにグラスが渡される。
長い指は繊細な加減でフィオリーナにグラスを渡すと、そばに居た男性に今気付いたかのように視線を向けた。
「失礼ですが、お嬢様とお約束のある方でしょうか」
ゆるやかに笑みを浮かべて男性に尋ねている。たったそれだけのことなのに、男性の顔は見る見るうちにひきつった。
フィオリーナもうっかり見上げて、喉がひきつってしまった。
笑顔だというのにその目は氷のように冷たいのだ。ネーヴェの周囲だけ凍てつく冬のようだった。
本当のラーゴなら微笑んだだけでこんなことには絶対にならない。彼は人あしらいが抜群にうまいのだ。
「や、約束はないよ……」
男性がたじろぎながら答えるとネーヴェはゆっくりとうなずくが、それはまるで脅迫のようだった。
「左様でございましたか。申し訳ございません。お嬢様にはお約束がございますので」
わかった、とも言えただろうか。男性は逃げるように去っていってしまった。
逃げていく男性を見つめて、ネーヴェは息をつく。そして自分用に受け取ってきたらしいグラスに口をつけた。使用人では絶対にやらないことだ。
「……ネーヴェさん」
やっと凍えた喉が戻って、声をかけるとネーヴェは視線だけでフィオリーナを見た。
「もしかして、さっき声をかけられていた女性もああやって追い払ったのですか?」
フィオリーナの問いに、「ああ」と今思い至ったようにネーヴェは不思議そうに首を傾げる。
「追い払うなんてとんでもない。少し話しただけですよ」
「持病のしゃくだそうです」と言うネーヴェに悪びれた様子もない。見た目はこの上もなく最上級だが、ネーヴェが社交界に向いていないことだけはよく分かった。王女殿下にまつわる惨事は起きるべくして起きたのだ。
ネーヴェを安易に夜会や園遊会に連れてきてはいけないという戒めを、フィオリーナも訓戒として心にとどめることにした。
ひとりうなずくフィオリーナを眺めながら、ネーヴェはひと息にグラスをあおった。息をもらす様子は少し不機嫌そうだ。
どうしたのかと見ていると、フィオリーナから菫色の瞳をそらして「問題なんてありませんよ」とネーヴェは目を細める。
「少し後悔しているだけです」
「後悔……?」
フィオリーナが首を傾げると、ネーヴェは空になったグラスに視線を落とした。
「……あなたを悪女に見せかけようと言い出したのは私ですが、こんな会に連れ出さなければならないことを、すこし後悔しています」
それはこの計画の根本から否定するような言葉だ。何を今更と言い募ろうとしたが、菫色の瞳がフィオリーナをひたと見つめる。
どうしてこんな人を猫だと思っていたのか。
猫なんて可愛いものでは決してない。
まるで決して出会ってはいけない凶暴な狼のようだ。
射すくめられたフィオリーナは鼠のように動けない。
狼の瞳が不意に細められると、ふわりと体が軽くなったような気がした。
「……参加者の男が全員いなければいいんでしょうか」
狼がやたら物騒なことを言い出した。ネーヴェがどんなことを考えているか分からないが、こういう会に良くない印象しかないことはよく分かった。
「……ネーヴェさん。今日はもう主催にご挨拶して、母に会いに行きましょう」
ネーヴェのためにも、楽しんでいる参加者のためにも、早々に彼を連れ出さなければならない。
フィオリーナもひと息つくために渡されたグラスに口をつけた。
冷えてはいるが、つんと強い香りが口の中を突き抜ける。
「こ、これ、シャンパンではないですか…!」
甘い香りもするのに、フィオリーナが今まで舐めたことのあるどの酒よりも酒気が強かった。
こんなものを平気な顔でひと息に飲み干したのか。フィオリーナは信じられない思いでネーヴェを睨むが、彼はさっとフィオリーナのグラスを取り上げた。
「酒でも飲まないとやってられないと思ったんですよ」
またひと息にグラスをあおる。
フィオリーナが口をつけたのに、とか、またそんな強い酒を飲み干してしまうのか、とか色々なことが言いたくてフィオリーナが口をぱくぱくとさせているあいだに、グラスはすぐ空になった。
ネーヴェはそのままフィオリーナに手を差し出してくる。ふたつのグラスはもう片方の手に器用に持っている。
「参りましょうか。お嬢様」
優雅にも見える笑顔は毛ほども酔っていない。理性も十分にあるはずなのに、本当にめちゃくちゃな人だ。
フィオリーナはあきらめて差し出された手に自分の指を重ねた。
手を引く強さも速さもどこまでも滑らかで、エスコートだけは相変わらず完璧だった。




