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勲章が言うには

 久しぶり、と言った彼は震える手を包むようにして微笑んだ。

 まるで小鳥でもくるむように柔らかく、それでいて決して離さないように、フィオリーナの手を囲う。

 手袋越しにも分かるほど大きく硬い手だった。

 フィオリーナよりも少し冷たい手だったのに、くるんでいるうちにフィオリーナの体温が移ったのか、手の内側がほんのりと温かくなっていく。

 あっという間に暴漢をやりこめたというのに、久しぶりに会ったこの軍人は穏やかなほど落ち着いていて、恐怖にわななくフィオリーナをじっと待っている。


「あ、の…」

「うん」


 うなずく声は泣きたくなるほど優しかった。さっきの男とは違う。まったく違う生き物のように違った。


「わたくし…」

「うん」


 泣いていたかもしれない。立っていられなくて廊下にしゃがみこむ。そんなフィオリーナと一緒に彼は慌てることもなく膝をついた。

 もう何も言えなくなってしまったフィオリーナに、目の前の人は大きく息をついた。


「……間に合って良かった」


 本当に良かった、と低い声で繰り返す。


「あの男は知らない人なんだね」


 問われるままフィオリーナはうなずいた。その様子をじっと見つめて、彼はふたたび息をつく。

 溜息をつかれることは嫌いだった。

 謝らなければならないと気が焦ってしまう。だからフィオリーナはいつものように反射的に口にしていた。


「……申し訳ありません」


 ほとんど口癖のようなものだったから、温かい指がそろりと離れていくことに少し驚いて顔を上げていた。

 どうしてそんな風に思ったのかはわからない。それでも、この手がフィオリーナから離れていくとは思っていなかった。

 フィオリーナが顔を上げると、彼は少し微笑んだ。ぎこちない笑みだ。まるで笑うこと自体が久しぶりだったような。


「どうして君が謝るんだ?」


 そう首を傾げて、彼は「ああ」とひとりで勝手にうなずいた。


「君が今すぐ動けそうにないから?」


 たしかにフィオリーナの体はうまく動きそうになかったが、彼に向かって明確な答えは見つからなかった。そういえば、どうしてフィオリーナは謝らなければならないと思いこんでいたのだろうか。

 ふと彼は自分のうしろにあるドアに目を向けたが、フィオリーナに視線を戻した。


「動けそうにないのなら、大広間まで連れて行くよ」


 ここで座っていたくないだろう、と言われてフィオリーナはおずおずとうなずく。こんな廊下で座っていたくはなかったし、彼のうしろにあるドアの向こうにはあの獣みたいな男がいるのだと思うと怖かった。


「じゃあ、少し我慢して」


 そう言うと、彼はあっという間にフィオリーナの体をすくい上げてしまった。

 抱き上げられたのだと気付いたのは「つかまって」と彼に首をもたげられてからだった。本当に早業といってもいいほど鮮やかな手並みだ。

 フィオリーナが猫の子のようにおとなしいのをいいことに、彼はゆっくりと歩き出す。


「怖い?」


 彼の声は、吐息がかかるほど近くてもどういうわけだか怖いとは思えなかった。

 彼の胸元にあるのは相変わらずすごい数の勲章で、礼装が誰よりも重そうだ。けれど、フィオリーナを抱えても彼は揺らぎもしない。

 相変わらずおそろしいほど典雅な容姿だが、彼は軍人なのだと今更ながらに思った。


「……お変わりなくて、良かった」


 実を言えば、彼のことは少し心配していたのだ。

 以前出会った彼は本当にひどい顔色をしていた。

 フィオリーナがぎこちなく微笑むと、ふ、と吐息が当たった。彼も笑ったのだ。


「君は、少し変わったね」


 静かな声にうながされるようにして、フィオリーナは顔を上げる。前を見ていたはずの彼がフィオリーナに目線を落としていた。

 それは寂しげでもあって、どこか怒っているのかとさえ思えるほど、複雑な笑みを浮かべている。

 一瞬だけフィオリーナに怒っているのかと感じたが、それは本当に一瞬で消えて、あとにはフィオリーナまで悲しくなるような寂しさだけが残った。

 とにかく何か話していなければ、彼は煙のように消えてしまいそうだった。


「……あの、今日はどうしてここに…?」


 こわばってうまく動かない口を必死に動かしてフィオリーナが尋ねると、彼はゆっくりと目を細めた。


「君に会おうと思って」


 驚いたフィオリーナが目を丸くすると、彼は少しだけ口の端を上げる。フィオリーナには優しい彼だが、本当はもっと皮肉屋なのかもしれない。

 フィオリーナが少したじろいだのを目敏く見つけたのか、彼は今度こそ柔らかく微笑んだ。


「この格好をしていれば、わかりやすいかと思ってね」


 たしかに、紺色や白の礼装が多い中で彼の軍服は黒一色だ。それに勲章だけでなく飾緒も多くてひと際華やかだった。立ち襟の徽章を見れば身分や所属がわかるようになっていると兄から聞いたことがあったが、フィオリーナでは見分けることはできなかった。

 けれど、とフィオリーナは少しだけ笑う。


「……違う格好をされても、分かったと思います」


 彼のしなやかな上背と整った顔立ちはどこに居ても目立つ。たとえ遠くからでは見た目が同じように見えるテールコート姿でも見分けがつきそうな気がした。


「それはどうかな」


 そう言って彼はフィオリーナを慎重に降ろした。すると遠くからフィオリーナの名前を呼ぶ声がする。兄と姉だ。

 ここにいる、と声を上げようとしたが、まだ喉がつまったようになってうまく動かない。


「大丈夫。いっしょに説明するから」


 見上げると、彼が目を細めて笑った。


「だから、君は僕が人攫いの不審者ではなく、犯人は別にいるって証明してくれないか」


 おどけるように言われて、フィオリーナはやっと息をついたような心地になった。

 やがてやってきた兄と姉に彼はいっしょに説明してくれて、兄は彼と共に男を閉じこめた部屋へと向かった。

 きっと怒声や暴言が聞こえたはずだが、姉に耳を塞がれて抱きしめられているとそれも聞こえなかった。

 男をどこかへ突き出すという話になって、もっと大勢の人がやってくる頃に彼はもう一度フィオリーナの元へと帰ってきた。


「忘れるところだったよ」


 差し出されたのは、いつかのハンカチだった。


「君に会いたかったのは、これを返そうと思ったからなんだ」


 洗濯に出したあと軍服に入れっぱなしだったのだと苦笑した彼は、少しだけ幼く見えた。




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